天罰あげる

1

まだ元気で区役所に出勤していたころ、女子トイレの中でこんな声を聞きました。
「地域振興課の宮城(みやぎ)さんて、なんか頭、悪そうじゃない」
「ああ、あの、いかにも仕事ができなさそうな子」
 わたしのことです。わたしは個室の中で動けなくなり、このまま全身が乾いてミイラになってしまうんじゃないかと思いました。
 その少し前、昼休みに自分の席で新書を読んでいたら、先輩の女性職員からこんなことを言われました。
「あんた、そんなむずかしい本読んで、意味わかるの」
 笑ってごまかしましたが、あとはいくら集中しても、一行も頭に入ってきませんでした。今から二年ほど前のことです。

 わたしは小柄で瘦(や)せていて、顔も身体(からだ)も地味で魅力がありません。頭が悪そうに見えるのは、低い鼻にのせている眼鏡がいつもずり落ちているからかもしれません。目も細いし、頰もこけていて唇の色も悪い。大学三年生のとき、大学祭の模擬店の人相占いで、「将来、不幸になりそうな顔」と言われたこともあります。
 そんなわたしですから、生まれてこのかた二十六年間、男の人とつき合ったことはありません。親はわたしに「愛子(あいこ)」なんてかわいい名前をつけてくれたけれど、それはわたしが生まれつき愛情や恋愛に縁の薄い人間であることを、予感したからではないでしょうか。せめて名前だけでも愛に恵まれるようにと。
 東京の四年制大学を出て、首尾よく区役所に採用されましたが、自分がそれほど優秀でないことはよくわかっています。でも、仕事は一生懸命やっているし、ミスも決して多くはないはず。新書を「むずかしい本」と言う先輩よりは、ずっと役に立っているつもりです。なのに評価してもらえない。課長も係長も、見た目が派手で、口のうまい職員ばかりをかわいがる。
 わたしがはじめて「発作」を起こしたのは、トイレで女子職員の陰口を聞いてから間もなくでした。通勤の電車の中で、急に何とも言えないイヤーな気分に襲われたのです。冷や汗が噴き出し、手が痺(しび)れて、意識を失いそうになりました。次の駅で降り、ベンチに座って自分の身体を抱えていたら、駅員さんが救急車を呼んでくれました。運ばれた病院で鎮静剤の注射を打たれ、血液検査や頭のMRIの検査もしてもらったけれど、特に異常はありませんでした。真夏だったので、熱中症か、過労だろうと言われました。点滴を受けると気分も落ち着き、その日の夕方には病院を出ましたが、わたしは「発作」の苦しみが忘れられませんでした。
 次の「発作」は、コンビニでレジを待っているときに起こりました。中年の女性が公共料金の振り込みで手間取り、となりの列に並んだほうがよかったと思った瞬間、たまらない気持になったのです。この世の終わりに直面したような、とてつもない恐怖。わたしは居ても立ってもいられなくなり、商品の入ったカゴをその場に落として店から走り出ました。交番で救急車を呼んでもらおうかと思いましたが、それはよくないので、自分でタクシーを停めました。病院へ行くと、やはり鎮静剤を打たれ、いろいろ検査を受けたけれど、またも結果は異常なし。精神的な発作だろうと言われました。
 それからも何度か似たような症状があり、都立医療センターの心療内科で下された診断は、「パニック障害」。でも、納得することはできませんでした。
 パニック障害というのは、突然起こるパニック発作と、それがいつ再発するかわからないという不安から、生活範囲が限定される病気です。パニック発作とは、強い不安や恐怖のために、動悸(どうき)、息切れ、めまいなどが起こることです。でも、わたしの「発作」はそんな生やさしいものではないんです。口では説明できないイヤーな感じ。この世が真っ暗になって、絶望しかない世界に放り込まれたような、不安とも恐怖ともつかない胸騒ぎ。いえ、それでもぜんぜん言い足りません。もっと不快で、哀しくて、恐ろしくて、いたたまれない感覚なのです。
 一生懸命、医師に説明するのですが、どうしてもわかってもらえない。「それはパニック発作です」の一点張り。でも、わたしがいろいろ調べてみても、パニック発作の説明に、そんな言いようのない不快感のことは書いていません。心の底から湧き上がるような得体の知れないあのイヤーな感じは、決してただの発作なんかじゃない。
 都立医療センターの医師ではらちが明かないので、わたしはネットで評判のよい新宿(しんじゆく)のとあるクリニックに行きました。そこではまず、臨床心理士がわたしの話をじっくりと聞いてくれました。一時間半ほどもしゃべったでしょうか。期待して診察室に入ると、タレントめいた軽薄な眼鏡をかけた若い医師が、自信満々の顔で言いました。
「典型的なパニック障害だね。大丈夫、ぼくに任せなさい」
 わたしはがっかりしました。それでも、一応、処方された薬をのみました。医師の指示通りにのんだのに、一週間のうちに二回も「発作」に襲われました。
 それからです、わたしのドクターショッピングがはじまったのは。わたしは症状を正しく診断してくれる医師を求めて、さまざまな病院やクリニックに通いました。でも、よい医師にはなかなか巡り会えませんでした。こんなに苦しいのに、どうしてわかってくれないのか。ありきたりな検査ばかりで、いっこうに症状の本質を見てくれない。明らかにパニック発作ではないのに、そうだと決めつけられたり、症状があるのにどこにも異常はないと言われることほど、つらいことはありません。
「発作」以外にも、感情がコントロールできなくなり、何も考えられなくて、一日中ぼーっとしていたり、不眠、虚言、拒食などの症状が出て、ついにリストカットまでしてしまいました。そのたびに診断は、「境界性人格障害」「うつ病」「適応障害」「社会不安障害」「高機能自閉症」と変わりました。ほんとうの病名は何なのか。
 そんな状態だから、今は区役所は長期休職中です。はじめは有給休暇をとっていたけれど、もういいだろうと思って復帰したら、とたんに症状が悪化して、ベッドから起き上がれなくなりました。這(は)うようにして病院に行くと、医師に本格的な療養が必要だと言われました。そして半年の休職です。
 しかし、それもうまく行かず、職場復帰が近づけば調子が悪くなることの繰り返しで、ずるずる二年も休んでしまっているのです。
 島根にいる両親には病気のことは話していません。心配をかけたくないからです。幸い、診療所やクリニックを変えても、医師はすぐに休職のための診断書を書いてくれます。「うつ病(等々)のため、○月○日から×月×日まで休養を要す」と、たった一行で五千円。高いと思うけれど、仕方がありません。
 区役所の職員のなかには、わたしが怠けているとか、甘えているだけだと思っている人もいるらしいです。もしほんとうにそうだったら、どれだけいいか! あの思い出すのもイヤーな感じさえ襲って来なかったら、いくらでも頑張れるのに。でも、この病気は外から見えないから、理解してもらいにくいんです。それがつらい。
 わたしが心から願うのは、一日も早く元気になって、職場に復帰することです。そのためには、いい医師に巡り会わなければなりません。最近、心療内科はあちこちに増えていて、ネットでもいろいろな情報が得られます。けれど、実際に行ってみると、医師が冷たかったり、無能だったり、金儲(かねもう)け主義がミエミエだったりと、失望してばっかり。
 あるクリニックでは、「あなたはよけいな知識を仕入れすぎ」と言われました。「だから自分で病気を作っているのですよ」と。別のクリニックでは、「あとがつかえているから」と途中で話を打ち切られました。「気に入らないのなら、ほかの病院もあるでしょう」と突き放されたこともあります。医師から「ボクを困らせないで」とも言われました。困っているのはわたしなのに。
 ひどい医師に当たったときは、診察を受ける前以上に落ち込み、つらい気持でいっぱいになります。わたしの病気を理解してくれる医師はいないのでしょうか。わたしはこれからもずっと、自分ひとりで耐えていかなければならないのでしょうか。そう思うと、絶望的な気分になって、生きているのさえいやになります。心が悲しみでいっぱいになって、わたしなんか生まれてこなければよかったのにと思います。

2

そんなとき、偶然、「クローバーこころの内科クリニック」の小川義久(おがわよしひさ)先生に出会ったのです。
 きっかけは、上野毛(かみのげ)の五島(ごとう)美術館で開かれていた源氏物語絵巻展でした。源氏物語が好きなわたしは、土曜日の午後、ひとりで見に行ったのです。
 そのとき、駅から美術館に向かう途中に、新しくオープンしたクリニックを見つけました。クリーム色の壁に吹き抜けのおしゃれなクリニックで、とてもいい感じに見えました。「こころの内科」というネーミングも優しい響きです。
 わたしは美術館の行きと帰りにじっくりと観察し、帰ってからネットで調べてみました。ホームページは上品なデザインで、メンタルヘルスケアが専門だと書いてありました。院長の小川先生は四十二歳で、メタルフレームの眼鏡がいかにも知的な細面の人です。
 口コミ情報や患者のブログでも評判は上々でした。開院してまだ七カ月ほどで、患者があまり多くなさそうなのも好都合です。わたしはさっそくホームページから初診予約のメールを入れました。
 はじめての診察の日、わたしはできるだけ期待しないでクリニックに行きました。期待が大きければ、それだけ失望も大きいと、これまでの経験でいやというほど思い知らされていたからです。
 結果は、思ったよりはるかに好ましいものでした。受付の女の人の対応もよかったし、看護師さんも親切でした。院長の小川先生は、西新宿医科大学のご出身で、物腰も口調もスマートな方でした。わたしの話に熱心に耳を傾けてくれ、例のイヤーな感じにも、「何となくわかります」と言ってくれました。そして診察のあと、恐る恐る診断を聞いたら、首を捻(ひね)りながらこう言ったのです。
「ちょっと複雑な症状なので、一概に病名はつけられませんね」
 小川先生は、わたしをパニック障害だとは決めつけなかった! 今あるいろいろな病名に、わたしを無理やり押し込めようとはしなかったのです。わたしは大きな喜びを感じ、強い信頼感を抱きました。
 医師と患者の相性は、初対面の印象で決まると思います。よい先生に巡り会えれば、それだけでもう病気は半分治ったも同然です。その証拠に、診察の後半にはわたしはすっかり気分がよくなり、お薬もいらないのではと思ったほどですから。
 それでも先生は、抗不安薬と抗うつ剤を処方してくれました。似たような薬はほかでももらっていましたが、のんだ感じはまるでちがいました。きっとプラセボ効果もあるのでしょう。効くと思ってのんだ薬はよく効くという心理効果です。たとえそうであっても、患者にすれば、効けばそれでいいのです。
 それからわたしは、毎週金曜日に小川先生のクリニックに通うことにしました。
 小川先生の治療は、「バイオフィードバック療法」という最新式のものでした。認知行動療法の一種で、病気の本質を自ら理解し、行動によってそれを改めるやり方です。
 まず、スクリーンにいろいろな状況を映し出して、そのときの心理状態を自分で把握します。手のひら、手首、胸、額にセンサーを貼りつけ、脈拍、発汗、筋肉の緊張などをモニターします。スクリーンに映し出されるのは、高級レストランでの食事風景、ショッピングモールの人混み、だれもいない広場、会社で上司が怒鳴る場面等々。
 わたしは本革張りの一人掛けのソファに座り、リラックスした気分でスクリーンを見ます。治療がはじまると、小川先生はソファの横に膝立ちになって、モニターに表れる心の状況を説明してくれます。わたしより低い目線で、心理状態の把握を支援してくれるのです。それがどれほど安心感を与えてくれるか。
 小川先生の治療を受けるようになってから、わたしはめきめき回復し、すぐにも仕事に復帰できるのではとさえ思いました。しかし、油断は禁物です。前に職場にもどって失敗したときも、自分で勝手に判断したのが原因だったからです。

3

小川先生の診療はすばらしいのですが、ひとつだけ迷っていることがありました。それは患者仲間の砂田汐美(すなたしおみ)のことです。
 汐美とは荻窪(おぎくぼ)の神経科クリニックで知り合いました。わたしより三歳下のフリーター。病気はわたしと同じく複雑で、心身症だとか、妄想性人格障害、重症ストレス障害、解離性障害など、いろいろな診断をもらっていました。右の前髪がまばらだったので、どうしたのと聞くと、知らないうちに自分で抜く抜毛症(ばつもうしよう)とのことでした。子どものころは、抜いた毛を食べる食毛症もあったそうです。
 そのときは世間話をしただけでしたが、後日、表参道(おもてさんどう)の心療内科でも偶然いっしょになり、お互い驚きました。汐美もわたしと同じく、あちこちのクリニックや診療所でひどい扱いを受け、必死にドクターショッピングをしていたのです。
 話を聞くと、わたしが最低だと思った医師に彼女もいやな目に遭わされていたり、受付が横柄な診療所で同じようにえらそうに言われたりしていて、大いに意気投合しました。
 汐美はもともとはまじめな性格ですが、高校のときに調子が悪くなって、悪い友だちに引きずられ、高校を中退して以来、ずっと心療内科とは縁が切れないそうです。調子のいいときはバイトをしたり、派遣社員になったこともあるようですが、ここ二年ほどは生活保護を受けているそうです。彼女自身は早く立ち直り、就職もしたいと思っているのに、まわりはそれをわかってくれない。
「この病気さえなければ、どんなつらい仕事だってやるのに……」
 そう言って涙をこらえる汐美を見ると、わたしも思わず泣けてきました。二人で話し合ってたどり着いた結論は、わたしたち心を病む者は、よい医師に巡り会えるかどうかが死活問題だということです。社会に復帰しようにも、調子の悪いときに医師の支えがなければ、すぐ最悪の状態に逆もどりしてしまうのですから。
 だから、汐美とわたしは約束しました。どちらかがよい医師を見つけたら、必ず相手にも紹介すると。
 わたしは今、小川先生を汐美に紹介しようかどうか迷っています。小川先生の診療を受けるようになって、一月半(ひとつきはん)。それくらいの期間でよい医師と決めつけていいのかということが一つ。それから、わたしにとってよい医師でも、汐美にはどうかはわからないということが一つ。この二点で決断できないのです。
 いえ、でも、ほんとうの気持は、別のところにあるのかもしれません。それはある種の不安です。小川先生を汐美に取られてしまうのではないかという恐れ。汐美は美人だし、化粧も派手で、着る服だってかっこいい。胸も大きく、男性経験も豊富そうで、女として貧相なわたしとは大ちがいです。
 小川先生は今、わたしの治療にほんとうに一生懸命になってくれています。わたし一人でもたいへんなのに、その上、汐美までお世話になったら、きっと負担が大きくなりすぎてしまいます。だからもう少し待って、せめてわたしの診療が月に一度くらいになってから、汐美に紹介しようと思っています。

4

週に一度のバイオフィードバック療法と、小川先生に処方してもらった薬のおかげで、わたしは信じられないくらい心が落ち着き、しばらく「発作」から遠ざかっていました。
 ところが、ある日の診察で、小川先生が突然、「そろそろ診察を二週間に一度にしてみようか」と言ったのです。わたしは驚きました。いくら調子がいいとはいえ、まだほんの二カ月ほどしかたっていないのです。先生は忙しいのでしょうか。それとも、わたしの治療が面倒なのか。わたしは強い不安を感じました。でも、先生の言いつけは絶対です。わたしは泣きそうな気持をこらえて、「わかりました」と答えました。
 最初の一週間は何事もなくすぎました。あと一週間がんばれば先生に会えると思ったとたん、急にイヤーな気分になりました。あと一週間も我慢しなければならない、どうして、わたしが何か悪いことをした? そう思った直後に「発作」が起こり、わたしは救急車でクローバーこころの内科クリニックに運ばれました。小川先生以外の治療は受けないと救急隊員に言ったからです。
 小川先生はほかの患者さんを診察していましたが、中断してわたしを診てくれました。先生の顔を見ただけで気分が落ち着き、話ができるくらいには回復しました。鎮静剤の注射を打ったあと、小川先生がこう言いました。
「二週間に一度の診察はまだ早かったようだね。ぼくの判断ミスです。申し訳ない」
 先生が患者であるわたしに頭を下げてくれたのです。わたしは身体がバターのようにとろけ、その上から蜂蜜をかけられたような気分になりました。それは快感とか、悦楽などよりはるかに大きい、神々しいほどの喜びでした。
 先生はわたしの目をじっとのぞき込み、優しくささやきました。
「もし心配だったら、週に二回の診察でもいいよ」
 ほかの患者さんはそっちのけで、先生はわたしのために週に二回も診察時間を取ると言ってくれたのです。「発作」で先生に迷惑をかけたのは申し訳なかったけれど、わたしは特別な患者なんだ。そんな思いが胸に芽生えました。

〈続きは本編でお楽しみください〉