『自分で名付ける』 松田青子

第1章 「妊婦」になる

結婚しないまま、二〇一九年に子どもを産んだ。

私は、日本では、結婚すると女性の名字が変わるのが常々納得いかなかった。制度上はどちらの名字を取ってもいいと言われているものの、現状名字を変えているのは九割以上が女性側であるらしい。九割以上て。ほとんど全員じゃんか。そんな状態では、選択する権利はないに等しい。

妊娠中の情報収集に、よくSNSの育児アカウント(この世で最も尊いものの一つ)を徘徊していたのだが、ある時インスタグラムの育児アカウントで女性たちが、子どもの名付けについて話しているのを目にした。

女の子は結婚したら名字が変わるから、姓名判断で字画を気にしても仕方ないね、そうだよねというやりとりで、きっと彼女たち自身も、名字が変わることを受け入れた(受け入れるしかなかった)のだろうと察せられた。この連鎖はどこまで続くのだろうと考えると、悲しくなる。もちろん名字を変えたい女性を否定するつもりは微塵もない。私が大切だと思うのは、各々の生き方に合った選択をするのが、当たり前になることだ。

 この社会は、結婚すると女性側がそれまでの名前の半分を失うのを当たり前のことにしてきた。パスワードを忘れた時の「秘密の質問」に、「母親の旧姓は?」という項目が疑問をもたれずにいつまでも設定されていることだけでも、それがわかる。

そういえば、この前『ハスラーズ』を見た。ストリッパーとして生計を立てている女性たちが、搾取する側であるウォール街の男たちから金を欺しとった現実の事件を元にしたアメリカの映画だが、その中でも、薬入りの酒で酩酊状態にある男たちからクレジットカードの「秘密の質問」を聞き出そうとする時、「お母さんの旧姓は?」と言っていた。日本のように強制的にどちらかの名字を選ばないといけないわけでもないアメリカでも、今現在はどうだか知らないが、映画の舞台である二〇〇〇年代にはこういう質問が生きていたということに驚いたし、監督・脚本のローリーン・スカファリアはおそらくわざとこの質問を使ったのではないかと感じた。

現状だと、日本の女性が結婚後も名字を変えたくなければ、相手や相手の家族から了承や理解を得なければならない。時には自分自身の家族からも。そして、もし受け入れてくれたとしたら、相手側は〝理解ある男性〞として、賞賛されたり、同情されたりする。

女性側は名字が変わっても、同情されることもないし、賞賛されることなんてあり得ない。それは当たり前のことだからだ。もちろんこの世界にはいつだって例外はあるけれど、これまではだいたいの場合、これがスタンダードとされてきたのではないだろうか。そして、名字の問題が解決せず、相手への気持ちが変化したり、破談になったり、泣く泣く女性側が自分の名字を諦めたりした話も何度も聞いてきたし、目にしてきた。

私は〝理解ある男性〞なんて恩着せがましくて嫌だったし、相手に名字を変えてもらうのも嫌だったし、結婚しないことで生じる面倒くささより、結婚することで生じる面倒くささのほうが、どちらかというと納得いかなかった。

(結婚することで生じる面倒くささというのは、日常生活の中でたとえばわかりやすいところだと、パスポート、クレジットカード、銀行口座など、様々な名義の書き換えなども含む。しかも、パスポートに至っては名義変更は有料だ)

なので、婚姻届を出さなかった。

あと、夫婦別姓ができたら結婚したいのかも現段階ではよくわからない。戸籍、というものの強い感じが苦手だ。強そうに、えらそうにしやがって、と思う。

ちなみに、この頃、一応相手にもどういう気持ちか尋ねてみたが、

「私は名字を変えるつもりない」

「そうだよね」

「そっちはどう?」

「ぼくもそうかな。自分の名字結構気に入ってるから」

「そうだよね」

という、短い会話で済んだ。それ以上、特に話し合いたいこともなかった。

それで不便もなく暮らしていたのだが、子どもができると、そこから次第に不思議なことが起こりはじめたので、そのことについてまずは書きたい。

二〇一八年七月の終わりに妊娠がわかったので、区役所に母子健康手帳をもらいに行った。

用紙に必要事項を記入して呼ばれるのを待っていると、私の番が来た。

担当してくれた区役所の女性は、ミッフィーの絵が描かれた手帳とともに、妊娠中や出産後の手引き書みたいなのとか病院で使うクーポンとか役に立つらしいものを、カウンター越しに手渡してくれた。母子健康手帳は区によってつくりが違い、採用されている表紙のイラストも違うので、ミッフィーで良かったなと思いながら、渡されたいろいろを私が興味深く見ていると、

「ところで、名字が変わられるご予定はありますか?」

と係の女性が突然言った。

見ると、彼女の目は私が渡した書類の上で留まっていた。

「あ、どうでしょう、わからないです」

わからなかったので、そう言うと、

「そうですか、じゃあここに名前を鉛筆で書いてください」

と彼女は表情を変えずに、母子健康手帳の表紙の下のほうにある、名前を書く欄を指差しながら、私に鉛筆を手渡した。

「あ、はい」

よくわからないまま、私は言われた通りに鉛筆で名前を書いた。

それを見て彼女は静かにうなずいた。私はそのまま母子健康手帳とその他の役に立つらしいものを持って帰った。

数日後、いろいろサポートするべく母が東京に来てくれていたので、母子健康手帳をもらった話のついでに、名前を鉛筆で書けと言われたことを、深く考えないまま話した。妊娠・出産の分野はあまりにも未知のことで、おっしゃる通りにいたしますという気分で臨んでいたので、私の中には軸と呼べるものがまだできていなかった(そしてその軸をつくってくれたのが、SNSの育児アカウントで、情報や気持ちを惜しみなくシェアしてくれていた、会ったことのない、これからもきっと会う機会のない女性たちだった)。

母は心底あきれたように、

「あんた、何言われたまま鉛筆で書いてんの。そんなもん、ボールペンで書けばいいでしょうが」

と言った。

「今すぐボールペンで書き直したらいい」

と母は続け、言われてみればそうだなと私も思ったので、新刊にサインを書かせてもらう時などのために常備していた、「なまえペン」という名前書きに特化したペンを机の引き出しから出し、区役所でほいほい書いた鉛筆の名前を消しゴムで消した。

そして、ペンで自分の名前をもう一度書いたのだが、柔らかいクリーム色と黄色を基調とした表紙はつるつるした素材の紙が使われていたので、消しゴムをかけた部分だけが白くはげてしまい、名前の下でそこだけ目立つ。なので、見るたびに、いまだに、区役所での出来事を思い出す。名字が変わる予定があるかと聞かれたことと、だったら鉛筆で名前を書くようにと言われたことと。

どうして後になってこんなにこの出来事が気になるのだろうと考えてみたところ、もし結婚するのなら、名字が変わるのはおそらく女性側だろうという相手の考えが伝わってきたということ以上に、こちらに選択肢があるような話し方ではなかったからだと思い至った。「お相手と結婚し、名字を変える予定があるのなら、念のため鉛筆で書いておいてはどうですか?」という言い方をもし彼女がしていたならば、私が受けた印象も少し違った気がする。私の察しが悪かったせいもあるだろう。でも、自分の名字は場合によっては、鉛筆書きになってしまうものなのだ、〝仮〞のものなのだ、という〝発見〞には虚をつかれるものがあった。厳密に言うと、〝仮〞のものだと他者に思われているのだ、というほうが近い。自分はそんなことないと思っているのに、周囲にあなたの体、半分透けてますよ、と言われるような。

あと、最近になって思い出すのだが、同じ時にもう一つ気になることがあった。

住民票の発行も同時にお願いしたのだが、私の住所を見た彼女は、

「ああ、あそこですか。あの場所、よくわからないのですが、ちょっとご説明いただけますか」

と言い、奥から地図を持ってきた。なんて呼ぶのかわからないが、住宅一つ一つの上に今現在住んでいる人の名字が書かれたなんかすごく詳しそうなやつを。

彼女がよくわからない、と言うのは理解できた。細かく書くと長くなるのでざっと説明すると、我々が借りて住んでいるのは、大きなザ・日本家屋の、おそらくかつては離れとして建てられた一軒家だ。完全に独立した建物なのだが、これもおそらくかつてはザ・日本家屋の家族か親類あたりが住んでいたせいか、壁の一部がくっついていて、つまり住所としては同じなのだ。

敷地内には、ザ・日本家屋と我々の家が共用できる、外から見えない中庭があり、これは中央に申し訳程度の木の柵がつけられ、二等分されている。ただ隣の家の猫は自由に行き来しているし、猫が見つからない時は、隣の家の人たちも探しに入ってくる。

借りる時は気づきもしなかったが、庭には梅の木と柿の木があり、初夏になると梅の実がたくさんなるので、はじめの年は梅酒をつくり、二年目は母が梅シロップや梅干しをつくった。柿の実もなるが、我が家の人間は誰も柿が好きではないので、鳥たちがきれいに食べ尽くしている。いろんな種類の鳥がやってくるので壮観だ。

件の、隣とくっついている壁がある部屋は音が響くのでできれば書庫として使用してほしい、と借りる前に不動産屋の人に念を押された(物件情報の間取図でもその部屋は「書庫」と書かれていた)。我々はこの家を面白いと思ったし、書庫として使うように、なんてボーナスステージでしかなかったので住んでいるが、神経質な人は住めないかもしれない。住所が同じだと郵便物はどうなるのか不思議だったので不動産屋の人に聞いたところ、それは大丈夫です、という答えで、実際、大丈夫だ。ウーバーイーツの人たちはたまに混乱して、隣の家のインターフォンを押しそうになっているので、よくそこで待ったをかける。

もともと離れなので、隣の家とくっついているんです、と私が説明すると、

「じゃあ、シェアハウスですね」

と係の彼女は言った。

シェアハウスというのは、同じ建物を共同で使うということだから違うかなと思い、

「あ、違います」

と言い、もう一度説明したのだが、

「じゃあシェアハウスですね」

と彼女はもう一度言い、その詳しい地図に「シェアハウス」と書き込んだ。

まあ、いいかと思い、そのままカウンターを離れたのだが、住民票を待っている間に、私の適当な一存で間違いが記録に残ってしまったら、今後同じ場所に住む人たちに何か迷惑がかかるかもしれないと不安になってきたので、住民票の用意ができて別のカウンターに呼ばれた際に、さっきのやりとりを話し、あれは間違いですと伝えた。さっきとは違う係の人は、そうですかと、あの詳しい地図をもう一度出してくると、「シェアハウス」という文字をきれいな二重線で消した。

この出来事をなぜ思い出すのかと言うと、〝シングルマザー〞になろうとしている女性が住んでいるのは、一軒家じゃなくてシェアハウスだろうと、相手に先入観があったのかなとある時思い至ったからだ。そうだったのかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。わかりようもないけれど、とりあえず覚えている。

母子健康手帳を手に入れたのと時を同じくして私はつわりに突入し、お腹はどんどん大きくなっていった。

臨月になり、八ヶ月にわたり通い続けた病院で、一枚の紙を差し出され、バースプランを書くように言われた。

バースプランの用紙には、出産する女性たち一人一人が満足できるお産になるよう、できる限りのことをしますという病院側の優しい宣言とともに、何か特別にしたいことがあれば書き込む欄があったり、アロマやBGMの有無などが問われていたりしたが、私は無痛分娩である限りはなんであろうと満足です、というノリでここまで来ていたので、突然もっと自我を持て! と促されても、マジでわからん、とぼんやりし、ほとんど白紙で助産師さんに手渡した。

私のスカスカのバースプランに目の前で目を通した助産師さんは、これではあまりにもと思ったのか、アロマはどうですか? 音楽はどうですか? 出産後すぐにご家族で写真は撮らなくていいですか? と口頭でまた確認してくれ、私の、まあ、あったらうれしいのかもしれませんが、どうなんでしょう、想像がつきません……そうですね、撮ったほうがいいのかもしれません……(無痛分娩であればなんでもいいです)……、という消極的な返答にうなずきながら、すべての項目に丸をつけてくれた。そして、

「出産の際、お相手の方はなんとお呼びすればいいですか? パートナーさん?」

と言った(私の書類は、母親、父親が違う名字なので、結婚していないことは一目瞭然なのだろう)。

何と呼ぶべきなのか自分でもわからなかったので、

「あ、えっと、なんでもいいです」

と答えると、彼女はうなずき、何事か書き込んでいた。

(私はいまだに相手をどう呼べばいいのかわからない。家では名前で呼んだり、名字で呼んだりしているが、外で説明する時にいつも逡巡する。助産師さんが言ってくれたみたいな「パートナー」は英語の時は便利だ。もともと限られた英語力を使って話すので、単語や表現の選り好みをしている場合じゃなくなり、何の葛藤もなく使うことができる。通じることイズマイベスト。でも、日本語だとどうも落ち着かない。困って、子どもの父親担当の人、とか、結婚はしていないけど位置づけ的には夫にあたる人、とか、一緒に住んでいる人、とかその時々でまだるっこしいフレーズを生み出していて、それはもう夫でいいんじゃないかとこの前友人にも言われたのだが、どれもしっくりこないのだ。ただ、もし私が結婚していたとしても、しっくりきていない気もする。本人同士は、いちいち相手を夫だの妻だの考えながら生活しているわけではないのだから、人に話す時だけ不便だ。今、書いていても不便なので、本人になんと書かれたいか聞いたところ、「じゃあ、Xで」とのことだったので、この本の中ではXと呼ぶことにする。さらに言うと、自分のことも普段、妻とも、母とも思っていない。それと、誰かと暮らしたり、子どもを大切にしたりすることは、そんなに関係ないことのような気がする。今のところ、それらの〝肩書き〞があるからそうしているのではない、実感として。でも外で、たとえば病院などで「お母さん」と呼ばれれば、それは紛れもなく私なので、「はい」と答える。そこに矛盾はない)

その時、一つ思ったのは、結婚していないから、何か事情があるのだろうとある意味〝深読み〞してくれて、Xをどう呼べばいいか確認してくれたけれど、もし「普通」に結婚していたら、こんなことは聞いてもらえないんだろうな、ということだった。結婚していても、どう呼んで欲しいかは、それぞれ違いそうなものなのに。結婚していれば、問題がないとみなされ、定型の呼び方で良いことになってしまうのも少し気になる。

その後、バースプランの用紙から顔を上げた彼女は、結婚していない場合は、出産時に万が一私の容体が急変し、集中治療室に移動した際に、お相手の方に状況をお伝えすることができませんがよろしいでしょうかと、急に改まった調子になって言った。我々は、書類上、家族ではないからだ。これが噂のやつか、と思いながら、当日は私の母もいてくれることになっているので大丈夫です、と答えた。

帰ってから、そのことをXに伝えると、もともと深刻に考えるタイプではないので、

「あ、そうなの、オッケー」という返事が返ってきた。

私の出産時、助産師さんたちがXの名前を呼ぶことがそんなにあるのだろうかとちょっと不思議でもあったのだけど、いざその日を迎えて、なだれ込むようにすべてがはじまると、段階的にその意味がわかってきた。

【続きは書籍にてお楽しみください】