『累々』一編まるごと公開中!

1 小夜

 「今年中に籍を入れたいと思う」
 そう告げられたのは夕飯の席だった。
 告白された時とは違う味気ないプロポーズだった。今日は仕事を入れていなかったので、色あせた黄色の部屋着を身につけ、髪の毛は適当にひとまとめにしていた。どうしてリップクリームすら塗っていないスッピンの顔に向かって、こんなに大切なことを今言うのだろうと正直感じてしまった。
 だからといって彼が惰性で結婚をしようとしているとは思わない。する、しない、の話ではないのだろう。彼の中では。
 私との付き合いが遊びではないことは最初からわかっていた。決まり文句みたいに、結婚を前提に付き合って欲しいと言った時の、彼らしからぬ不安に揺れる視線を今でもはっきりと覚えている。今の彼は私と人生を共にすることに迷いがない。目の前に並んだ食事の味付けのように、全てがお互いにとって調っていると思っている。
「籍を入れるにしても準備する時間が必要だと思うから」
「準備?」
「小夜のご両親にも挨拶に行きたいし、僕の周りにもちゃんと話して順序よく行きたいんだ」
 今日は休みだから僕が作る、と意気込んでキッチンに立っていたのはこういうことか。食卓には私の好物がずらりと並んでいた。椎茸と葱のグリル、青椒肉絲にかきたまのスープ。ふんわりとしたドレスのような卵がお椀の中でひらりと躍り、米が蛍光灯に照らされてその白さと艶が際立っている。
「今年中ね……」と私は言葉を濁した。
 考えるフリをして青椒肉絲に箸を伸ばす。味付けは濃くも薄くもなく、丁度よかった。
 葉さんは今年で三十になる。彼の年齢と半同棲を続けている状況から考えても、次のステップに進むには悪くないタイミングなのはわかるけれど。
 開け放った窓から、闇に溶けていくような犬の遠吠えが聞こえ、湿気まじりの濃い緑の匂いがした。今年が終わるまではあと半年ある。

 プロポーズらしからぬプロポーズをされたと、親友の深鈴に打ち明けたのは一週間後のことだった。待ち合わせした場所は、彼女が行きたがっていた人気のおしゃれカフェだった。白を基調とした店内は、若い女の子たちと浮かれた声が溢れ、その間を縫うように店員さんが動き回っている。
「結婚しないの?」
「一緒には居たいけど、結婚ってなんだろうって、私は煮え切らなくて」
「それにしても、返事を曖昧にしてよく切り抜けられたね。葉さん傷つかなかったの?」
「厳密に言うと切り抜けてはいなくて。ただ……そうだねって返した」
 それってOKしてるのと一緒じゃんと、深鈴は眉をハの字にする。高校生の時からの深い付き合いである彼女は呆れると直ぐに眉を下げる。もともと少し垂れ眉なのに、もっと下がるものだから、哀れみの色を強く感じてしまう。それも彼女なりの優しさとはわかっていながらも、トゲはチクチクと私を責めてくる。
 そうだね……と、口にした私の言葉を、彼女も葉さんと同じように肯定として捉えたようだった。ニュアンスというものは難しい。そうだね、という言葉には肯定の意味も否定の意味も滲ませているつもりだった。
 深鈴の薬指を包み込んでいる銀色のリングが今日はやけに目に痛かった。あのプロポーズの後、葉さんは食卓の上に結婚指輪の入った小さな箱を差し出した。控えめなダイヤが真ん中で光っているシンプルな指輪を私は受け取ることができなかった。
 二十三歳という自分の年齢が結婚に適しているのかどうかよくわからなかった。就職していたら社会人一年目。結婚をしたって仕事に就くことはできるわけだしそんなに悩むことでもないのかもしれない。けれど素直に喜べない自分がいる。
 深鈴のお腹はふっくらと丸みをおびてワンピースを押し上げている。妊婦らしいシルエットの彼女が待ち合わせ場所に現れた時、おもわず怯んでしまった。
 ライター志望の深鈴の妊娠がわかったのは数ヶ月前だった。夜中に電話がかかってきて酷く泣き付かれた。妊娠と結婚が同時に襲ってきた彼女のことを、私はその時かわいそうだと思ってしまった。
 まだ若いのに。やりたいこともあるでしょ。夢はどうするの。
 お腹に宿った命に責任を持てるのか、その子の親に自分がなれるかどうか、相手はこの人でいいのか、深鈴は悩んでいた。その話を聞きながら私も万が一、葉さんとの子供ができたらと考えたけれど現実味がなかった。彼女の夫も最初は動揺していたけれど、私の知らないところで二人で腹を決め、結婚も出産もあっさりと決めてしまっていた。
 今となっては彼女たちをうらやましく思う。
「二人は側から見てても相性がいいと思うし、結婚すればいいじゃん」
「なんか想像ができない」
「小夜に十分尽くしてくれるし、今だってほぼ同棲してるんでしょ? なにをそんなに躊躇うの」
「……自分でもわかんないや。結婚ってなんだろうって、そればっかり考えてる」
「結婚して、子供ができて。人生の中で見つけた宝物のような家族がいるってだけで自信が持てて安心できるようになるよ」
「……」
「マリッジブルーか」
 そんな簡単な言葉にしないで欲しかった。深鈴が結婚を決めた時くらいから、自分が結婚に対して違和感を抱いていることに気がついていたのに目をそらしていた。自分の年齢はまだ結婚に適している気がしないし、相手も私の心の準備を待っていてくれるだろうと信じていた。でも違った。葉さんはこの穏やかで変化のない生活に一つの区切りをつけたがった。
 結婚をして夫婦になる。それはどんな感じなのだろう。みんな必要に迫られる状況でない限り、どういった理由で結婚に踏み込むのかわからなかった。深鈴が言うように家族という安心の形が欲しいのだろうか。
 私は葉さんとの未来にまだ確信が持てない。
 店員さんがやっとくると、深鈴は待ってましたと言わんばかりに嬉々としてメニューを開き、一番人気はどれかなと、あれこれ聞き始めた。お腹が大きくなってもライターの仕事はできると言って、仕事への意欲は消えていないようだった。そう言えば妊娠した時も彼女は自分の夢が断たれるという不安は一切口にしていなかった。今は以前にも増して光り輝いて眩しいくらいだ。
 一番人気のチョコレートケーキを頼んだ後、付け加えるようにノンカフェインの紅茶ってありますか? と店員さんに聞いていた。
「私は、モンブランと、ブラックコーヒーで」
 今何ヶ月なんだっけと聞くと、もうすぐ八ヶ月になるよと深鈴は愛おしそうにお腹をさすった。
「そろそろ外に出るのは慎重になるけど、産んで落ち着いたら家に遊びにきてよ」
「ありがとう。会ってくれるのも嬉しいけど、体第一でいいからね」
 そう声をかけると、あっ動いた! と深鈴はお腹に手を当て我が子の胎動を感じていた。触るかと聞かれたけれど、大きなお腹に触れることが怖くて、大丈夫、ありがとうと断ってしまった。

 

 考えても考えても結婚に至る確信は見つからなかった。自分のワンルームのマンションにいると余計に現実味がなくなる。目の前には自分のものばかりだ。枕の二つ置かれたベッド、白いローテーブル、一人暮らしにしては大きなテレビ、私の好みじゃないバッグ、醬油をこぼしてシミのついたラグ。全てが自分の一部で、馴染んでいる。
 ベッドの下の引き出しを開けると、ほとんど使われていない葉さんの着替えが仕舞われている。私は引き出しをそっと元に戻した。
 彼をこの部屋に入れたことがあまりない。だからといって自分の空間が彼の空間と混ざり合うことが嫌なわけでもないのだ。実際私は葉さんの部屋に転がり込む形で半同棲の暮らしをしているし、彼の部屋は私の物や影であふれている。
 気分をかえたくてクローゼットの奥に仕舞い込んだ画材を出して机に広げた。B4サイズのスケッチブックに線を引く際の、画用紙の上を滑る鉛筆の感覚が懐かしかった。前は暇があればずっと紙に向かっていたというのに。作品を作っていた時間が一番自分と向き合い、何を考えているのか理解できていた気がする。だから、自分の感情が知りたくて、ドレスを描いてみることにした。
 背中はざっくりと開いて、ウエストの位置はできるだけ高めに。腕を華奢に見せるために細かなレースの袖を描き込んだ。裾が広がりすぎないストンと綺麗に落ちるドレスにするには布はどんな素材がいいだろうか。想像しながら鉛筆を走らせると、真っ白な背景の中で髪の毛をひとまとめにした表情のない女性が振り返りポーズをとっている。
 顔のパーツを描かないままパレットに白のアクリル絵具を絞り出した。その瞬間、手が止まった。
 純白のウエディングドレスだなんてあまりにも枠にハマったステレオタイプで、無意識にその色を手にした自分に目眩がした。
 鉛筆を手にとり、のっぺらぼうの顔に目鼻を描き足していく。振り返り笑っているのは私ではない。パレットに出したままの白の絵具を使いながらドレスを塗り、全体を仕上げていく。
 完成したのは藤色のブーケを手にして満面の笑みを浮かべている深鈴の姿。
「深鈴が結婚式するならこんなドレスを着て欲しいと思って描いてみたよ」
 描き上げたばかりの絵と共にメッセージを彼女に送った。
「小夜が私のために描いてくれたなんて感激だよー! 出産してからになっちゃうけど、こんな素敵なドレスが着れたら嬉しい! この絵、結婚式の時に飾りたいくらい」
 無邪気な返信を確認してから携帯を伏せて置いた。

 

 コーヒースタンドでバイトをしていた時、毎日やってくる葉さんの顔とオーダーを覚えていた。首から下げている社員証を見る限り、彼は同じビルの中にある大手企業の社員だった。
「ブラックコーヒーの一番大きいサイズを熱めで、ですよね」
 彼が注文を口にする前に自分の口からオーダーが出ていた時、やってしまったと思った。人の顔と名前を覚えたり好みを覚えたりすることを得意としていたけれど、つい癖が出てしまった。
 常連のお客さんのメニューを覚えるのはいいことだと教わっていたけれど、以前同じことをした時に、人がいつも頼むものを覚えているなんて気持ちが悪いと大きな声を出されたことがあった。あの時のように嫌な顔をされ、咎められたらどうしようと、私は俯いて肩を強張らせていた。
「僕いつもそれですもんね」
 顔を上げると葉さんは恥ずかしそうにはにかんだ笑みを浮かべていた。凍ったように固まった体を、春の日差しが温め溶かしていくようだった。
 シワのないスーツに綺麗に結ばれたネクタイ。細いフレームのメガネから堅い印象があった彼だけれど、メガネの奥の柔らかな瞳としっかり目が合った時、珍しく動揺して視線をそらしてしまった。
「すみません。覚えてしまって、つい」
「恥ずかしいな。……じゃあ、いつもの、お願いします」
「いつもご利用ありがとうございます」
 彼のオーダーしたカップの側面にごめんなさいと謝るウサギのイラストを描いて渡すと、絵が上手なんですねと、久しぶりに絵を人に褒めてもらえた。嬉しくなった私は彼が来るたびに、彼のカップにだけ絵とメッセージを書き込むようになった。メッセージやイラストはよく書くのかと聞かれた時、他のお客さんには内緒ですよと伝えると、ほんの些細なことなのに二人だけの秘密が生まれ、私たちはわずかな時間見つめあって笑いあった。それからもテイクアウト用のコーヒーカップはまるで交換日記のように私たちを繫いでくれた。
 今日は午後から雨みたいです。
 ネクタイ、ちょこっと曲がってますよ。
 髪の毛切りましたか?
 店先で交わせる言葉は多くはないけれど、カップを渡して絵を確認した後の彼の反応を楽しみにしている自分がいた。
 だけどふらふらとバイトをしている私に彼のような社会人は見向きもしないと思っていた。お客さんと店員。ただそれだけ。
 いつも午前中にやってくる彼が夕方に顔を見せた日があった。
 珍しいですねと声をかけると、葉さんは今日は何時に仕事が終わりますかと聞いてきた。
「もしよかったら、お互い仕事が終わってからお茶でも」
 と言われ、私は思わず吹き出しそうになった。コーヒーショップに来ておいてお茶にいきませんかと誘う彼は、意外と天然なのかもしれない。
「ごめんなさい。今日は用事があるので……でも、明日なら大丈夫です」
 葉さんの肩からふっと力が抜け、メガネをすっと押し上げた。
「……よかった。明日は何時に終わりますか?」
「明日は十八時には上がってます」
「僕の方は終わるのが十九時すぎてしまうので、申し訳ないですが待っていてもらってもかまいませんか?」
「はい。ゆっくり待ってるのでお仕事頑張ってくださいね」
「えっと、じゃあいつもの」
「いつもの、ですね」
 熱めのブラックコーヒーを入れるカップに、明日楽しみにしていますと書き込んで、彼に渡した。その日、彼からムスクの香りがすることに初めて気がついた。
 彼は初めてのデートでコーヒーを飲みながら緊張気味に自分のことを話してくれ、歳も社会的立場も全く気にせず、私という人間に興味を抱いてくれていた。真っ直ぐな、けれど少し不安そうな目をして、きちんと話をしてあなたのことをよく知りたいと思ってと告げられた。その真っ直ぐさに慣れていなかった私は、彼の視線に面食らった。ちょっと真面目すぎるけど、思ったことをストレートに伝え、駆け引きをしないところを信じてみても良いかもしれないと思った。
 付き合い始めて程なくして私は彼の家に入り浸るようになり、バイトがない日は料理をして帰りを待った。美大生時代、自分が食べるための簡単な料理ばかりだったから、誰かに自分の手料理を食べてもらうことは緊張した。彼はいつもおいしいと食べてくれるけど、いつかその言葉も聞けなくなるのかもしれないと思うと、私の心はわずかに乱れた。
 山登りが趣味の彼は休みの日に大学時代のサークル仲間と登山に行くこともあったけれど、土日のどちらかは必ず一緒に過ごしてくれていた。私よりも随分と几帳面なところがある彼は、登山から帰ってくると丁寧に靴の泥を落とす。ベランダから聞こえるブラシの音をBGMに彼のためにコーヒーをいれると、匂いに気分をよくしたのか鼻歌が聞こえてくる。
 普通のカップルとしてトラブルなく生活をしている自分を顧みると、私も人らしい恋愛ができるのかと思えた。そうしているうちに二年の月日が経った。過ごしてきた時間と、彼の年齢を考えれば結婚の話が出てきてもおかしくはないのだ。
 シャツとネクタイの組み合わせ、靴を並べる順番。キッチンのタオルと、洗面所のタオルの違い。お味噌汁の出汁の取り方に、お米の炊き加減。彼には細かなこだわりがあった。もちろん、それは私にも。一緒に過ごすうちにお互いの丁度いいがわかっていくけれど、噓とも呼べない小さな歩み寄りを繰り返しているだけ。そうするうちに自分が本当はどうだったのかが曖昧になっていく。今回のことも彼の考えを汲み取り、足並みを揃えることがこれからの人生を共にし、添い遂げるために必要不可欠なことはわかっている。けれど今の私は葉さんが差し出す手をとることができず、心が立ち止まったままになっている。自分がどこに向かって歩いていきたいのかさえわからない。

 

 あれから答えを出せないまま、葉さんとの時間を過ごしている。私は以前よりも仕事を入れるようになった。仕事を終えて帰宅すると、穏やかな彼の声が私を迎え入れてくれる。部屋の中はほろ苦いコーヒーの香りで満たされていた。
「今日は結構遅かったね。ご飯は? 食べた?」
「まかないを食べたから大丈夫」
 そう、と彼はコーヒーに口をつけながら足を組み替えた。
「最近バイト頑張りすぎじゃない?」
「人手が足りないみたいでさ」
 おろしていた巻髪をひとまとめにすると、ようやく肩の力が抜けた。私も一杯コーヒーをもらおうかと思ったけれど、眠れなくなるかもしれないと思いとどまった。
「それに、結婚ってお金がいるでしょ。甘えるわけにはいかないから」
 そう伝えると、彼は嬉しいよと言ってくれた。プロポーズをされてから、具体的に結婚の話はしていないけれど、暗に結婚を受け入れてしまっている状況になっていることが自分を苦しめていた。
 部屋の角に置かれたハンガーラックに明日着るであろうスーツとワイシャツのセットだけがかけられていた。
「アイロンかけようか?」
 彼は、自分でかけるから大丈夫だよ、と首を横に振った。
「お風呂も入れてあるから、入っておいで。疲れてるでしょ」
「葉さんのお仕事に比べたら私のバイトなんてなんてことないよ。でも、ありがとう」
 そのまま浴室へ向かい、手早く服を脱いでシャワーを浴びる。目を閉じ、雨粒のように降ってくるシャワーに顔を向けると、ゆっくりと表情筋がほぐれていった。だらりと頭を下げると、今度は髪の毛を伝って水がしたたり落ちていく。排水口に向かっていく水の流れを黙って見つめた。
 浴槽に溜められたお湯に体をすっぽりと沈めると、体の奥から自然と息が漏れる。
 どうして葉さんと結婚することをいまだに受け入れられないのか。道を歩けば親子連れが目につくようになった。小さな子供の手を引く男性を自然と葉さんに重ねてしまう。今の私は奥さんとしてその少し後ろを歩いて微笑むことができるだろうか。考えると気が遠くなるし、やっぱり想像ができなかった。
 深鈴のように仕事上の夢があるわけではない私は、今もなんとなく仕事を続けてふらふらとしているだけの人間だ。
 何かに縛られることが苦手なのだ。美大に通っていた時も、枠にはまらないよう教えられ、意識して、作品を作り続けていた。枠にはまることは個性を殺しているのと同じだと思っていた。いかに自由に表現ができるか。自由な作品も、自由である自分も人に認めて欲しかった。葉さんといることが自分の生活において幸せだとわかっているはずなのに、息苦しさも感じてしまい、私の気持ちはどんどん後ろ向きになっていく。
 プロポーズをされた時、先に渡すのは婚約指輪だよと言えなかった。その後行き場を無くした結婚指輪は彼の机の引き出しの中に仕舞われたままになっている。彼が仕事に行っている間に、それを黙って一度だけ自分の指にはめてみたことがあった。どんな気分になるか知りたかったのだ。銀色の指輪は笑っちゃうくらいサイズが違っていて、ぶかぶかだった。

 

 木々が燃えるように色付いている。携帯のカメラを構えてみたけど、四角い画面の中より肉眼で見る方が遥かにダイナミックで、色彩を強く感じた。携帯を下ろすと、もう写真撮らないの? と声をかけられ振り返った。
「目で見る方が綺麗だったから」
 山にでも登りに行こうかと言ったのは葉さんだった。紅葉が綺麗だし、体を動かす休日も悪くないでしょと。彼が私を登山に誘うのは初めてだった。珍しいねと言うと、たまにはいいでしょと、彼ははにかんだ。
 仕事の時はスーツの彼も今日はウール素材のシャツにトレッキング用のベージュのパンツ、どこにいても目立つ真っ赤なバックパックと登山用の装いをしている。ピシッとしたスタイルも好きだけど、シンプルな服をサラッと着こなしてしまうオフスタイルの彼も好きだった。私は登山用の服なんて持っていないから、動きやすい服として、デニムにスエットパーカーを合わせた。寒いといけないから、腰には一枚はおりを巻いている。
 途中休憩を入れながら、私たちは黙々と頂上を目指して歩みを進めた。彼は定期的に後ろを振り返り、様子をうかがってくれる。
「私、デートで山登りなんて初めてだよ」
「たまにはこういうのもいいでしょ」
「新鮮な気分」
 木々の揺れる音や、地面を踏む砂の擦れる音は、街のざわめきとは違った。息を吸うと体の隅々まで浄化されていく気分になる。都会の混み合って淀んだ空気との違いに体が喜んでいる。
「一番上まで着いたらご褒美があるから頑張ろう」
 頂上まで後一息のところで斜面が急になってきた。落ち葉を踏んで足を滑らせたらどうしようと歩みが遅くなると、葉さんは何も言わず手をとってくれた。しっかりと結ばれた手に安心感を覚える。そういえば初めて手をとってもらった時も同じ気持ちになった。
 二回目のデートの時、触れたいなと思った瞬間、彼の方から手をとってくれたあの日。なんてタイミングがいいんだろうと思った。
 相手のことをよく見て先回りしてしまうところも、私たちは本質的に似ているんだろうか。繫がれた手は温かいのにふと腹の底が冷える感じがした。
 たどり着いた頂上には小さな小屋があり看板には「そば、うどん」と書かれていた。
「お昼は、ここで食べよう」
 壁に貼られたメニューを見て葉さんは月見蕎麦を頼んだ。私も同じものをとお願いすると、小柄なおばちゃんがはいよと元気よく答えてくれた。
「前も来たことあるの?」
「何年も前に、かな」
 お店の隅に置かれた年季の入ったテレビも、角がくるりと丸まったメニューの紙も、黒ずんだ木の壁もここだけ時間の流れが違うみたいだった。
 真っ白のとろろの上にまあるい黄身がポトリと落とされた蕎麦はとても美味しく、体がポカポカと温められた。麵を箸ですくい上げれば湯気とともにつゆが香りたつ。
 あっという間に完食してしまった私を葉さんは満足そうに見ていた。
「こんな美味しいお蕎麦ならまた食べに来たいね」
「気に入ってくれてよかった。おばちゃん、お団子一つください」
 お会計を済ませ串団子を一本受け取ってから、私たちは見晴らしのいいベンチに腰を下ろした。
 頰を撫でる風が気持ちよく、眼下に広がる木々の色とりどりの赤に開放的な気分になる。
 頭上のモミジを指差し、この赤は何色だと思う? と問いかけると、葉さんは珍しく目を白黒させて戸惑った。
「何色? 赤は、赤じゃないの?」
「赤の中にもいろんな赤があるんだよ」
 彼はしばらく眉根にシワを寄せ、じっと黙って頭上の葉を真剣に観察する。
「それ、悩んでるフリでしょ」
「……ばれたか。赤色の中で知ってるのは、朱色くらいしかないよ」
「これはね、私の目には紅の八塩に見える」
 聴き慣れない言葉に、葉さんはメガネを指で上げてこちらを向いた。
「そんな名前の色が本当にあるの?」
「あるんだよ。とっても濃い紅花染の色。昔はとっても貴重で、高価なものだったから、禁色って呼ばれてたんだって」
「禁色って、なんだか物騒な名前だね」
「確かにね。でも、もーっとわかりやすくいうと、深紅」
「あ、それなら聞いたことのある色の名前だ。確かに、とっても深い色の赤だね、このモミジは」
「炎の奥の深い色みたいで好き」
「やっぱり美大生だった人は、色に詳しいね」
 意地悪のつもりで葉さんに出した問題だったのに、私の方がからかわれてしまった。
「おちょくってるでしょ」
「お互いさまでしょ。ほら、お団子食べよ」
 それから私たちは木々の色の話をした。彼は、山によく登るけど葉っぱが何色かなんて真剣に考えたことがなかったと言った。目に見えるものが何色だと思うかとクイズのように言い合うと、だんだんとでたらめな色の名前ができて二人でお腹を抱えて笑いあった。
「そういえばさ、葉さんは何色が好きなの?」
「この色っていうのは無いけど、今日話して自然の色は興味深いと思ったよ。移り変わっていくものだから」
「木の色もそうだもんね。季節によって色が全然違う」
「うん。その変化が好きだから山が好きなんだと気がついたよ。変わっていくのを見て安心していたんだと思う」
「どうして?」
「どうしてか。……変化がないと不安になる。春は緑で、夏はもっと色が濃くなって、葉っぱの色を見ていると時間とともに変わっていく。訪れる度に景色の表情が違ったんだよね。小夜が教えてくれたみたいに、一つ一つの木の色が違うようにきっと同じ木でもその年によって葉っぱの色も違うだろうしね」
「そうだね。来年にはまた違う色に染まってるんだと思う」
 自分で口にした来年という言葉が引っかかって、思わず視線を落とした。目の端には団子のなくなった棒を指先でくるくるとさせ、持て余している葉さんの手があった。
「来年もまた見に来れたらいいね」
 口にした言葉が妙に浮ついて、薄藍の空に簡単に吸い込まれてしまった。
「小夜は結婚することに前向きじゃない?」
 腹の底がひゅっと音を立ててまた冷えた。
 盗み見た彼の視線は真っ直ぐ前を向いていて、プロポーズをした時と同じように迷いがなかった。けれど私の方は、前のように肯定とも否定とも取れる言葉を持ち合わせていなかった。うまく切り抜けたいのにどうにもできず、不本意に生まれてしまった沈黙を葉さんが破った。
「責めてるわけじゃないよ。ただ、僕の方はずっと考えてるんだ。真剣に話をすすめるなら、そろそろお互いの両親にも改めて挨拶に行きたいし、周りに報告をする準備もいるだろ。急かしてるわけじゃないけど、小夜の気持ちをちゃんと知りたくて」
 責めてるわけじゃない、急かしてるわけじゃないという保険の言葉から、彼の腹の中が見える。
 責めてるし、急かしてるんだ。
「結婚のためには準備もいるから、まずはお金を貯めないとって。葉さんに全部出してもらうわけにもいかないし、私のお金の準備が整うのはもう少しかかっちゃうかも。ほら、最初年内にって言ってたから。それに合わせてお金を貯めてて。だから、待たせちゃってごめん」
 普段、葉さんに対しては口に出す言葉を頭の中できちんと吟味するのに、おしゃべりする人形のようにペラペラと言葉が溢れてきた。
「小夜はそんなこと気にしなくていいんだよ。足りない分は僕が出すし、これからは二人で補いあってくんだし」
 模範解答のような言葉を口にしながら、強い眼差しが私を捉えた。ぐっと押された分だけ、私の気持ちも引いてしまう。気持ちに応えられない後ろめたさから口が勝手に絞り出した言葉は「……今は背伸びさせて欲しいな」だった。そしてしおらしく視線を外すと、わかったよと彼は肩を抱いてくれた。ふわっと、整髪料の青リンゴのような匂いがした。
 しばらく何も言わずに、流れていく雲と傾いていく太陽をじっと目で追っていると、日が陰り始め、「冷えてくるし帰ろうか」と、葉さんは私の手を温めるように優しく摑んで、さっきの話はなかったかのように、二人で肩を並べて山を下りた。
 その日はいつものように葉さんの家に帰った。お風呂から上がると彼がリビングで誰かと電話をしているのが漏れ聞こえてきた。砕けた口調から察するに、葉さんの親友の石川くんだろう。
「マリッジブルーって本当にあるんだな」
 冗談めかした笑い声をかき消すように私はドライヤーのスイッチをオンにした。
 お金が足りないなんてのは言い訳でしかない。私の部屋には使い道のないお金がお菓子の空き箱に詰められていることを葉さんは知らない。アルフォート二箱分に詰まったお金がいくらなのかは興味がないけれど、結婚式の資金は優にあるはずだ。消費するより箱にお札が詰まっていくことに達成感を得て安心をしている。
 結婚という文字が頭に浮かぶだけで、脳が真っ黒な海に投げ込まれた気分になる。波に揺られて意識がかき混ぜられ、家の中にいるのに船酔いをしているような吐き気に襲われた。
 乾かさないとダメだ。濡れた髪の毛も、真っ黒な液体に浸った自分の脳味噌も今すぐに。

 

 燃えるように色付いていた木々の葉は、焼け落ちたように姿を消した。地面に落ちた葉っぱは燃えかすのようになり、冬の刺すような風がそれらを何処かへと運んでいく。
 十二月に入り、九月の終わりに出産を終えた深鈴と久しぶりに会えることになった。平日だから旦那はいないし、気楽に遊びに来てと。
 彼女が結婚してから家に行くのは初めてだった。お互いの家を行き来し合っていた学生時代が遥か昔に感じてしまう。
 見慣れないマンションのエントランスを抜け、五階まで登り、角の部屋のインターフォンを押すと聴き馴染みのある声と共にドアが開く。
 いらっしゃいと招き入れられて中に入ると甘いポプリの香りがした。今までの深鈴の家からはしなかった匂いだ。ゆったりとした前開きのワンピースを着た深鈴の髪の毛は、バッサリと短く切り揃えられていた。
「インスタで見てたけど、随分髪の毛切ったね」
「産んだら大忙しだよって言われて。だから切っちゃった」
 今までポリシーのように長い髪を守っていたのに、顎のラインで切り揃えられた髪の毛のせいで首元が寒そうに見える。
「でも本当に正解だった。もう毎日寝不足で、髪の毛乾かす時間も惜しいくらい」
 大変だね、という言葉しか返せない自分がもどかしかった。今までは二人の間で交わされる会話はお互いが共感できるものだったのに、深鈴が妊娠してから少しずつズレが生じている。出産方法、必要なベビーグッズ、どんな名前にしようか。ありきたりな提案や相槌しか打てないことばかり。
 生まれて二ヶ月しか経っていない赤ちゃんはまだ体つきも頼りなくふにゃふにゃしていた。グズり始めると話を中断して深鈴は息子のおむつをチェックしたり、母乳をあげたりしていた。この小さな小さな男の子は深鈴がいないと生きていけないんだろうな。それを深鈴も本能的に理解しているのだろうか。何よりも大切で愛おしいものを見る眼差しで我が子をあやしていた。
「子育てって凄いなあ」
「本当、体力勝負って感じ」
「深鈴はもう立派なお母さんって感じがする。凄いよね、同い年なのに。私にはできる気がしないや。自分のことで手一杯で」
 そう言った瞬間空気がひりついた。視線を上げると非難の目がこちらに向けられていた。何が彼女をそうさせたのかわからず、目を白黒させながらもどうにかごめんという言葉を絞り出した。すると彼女はいいよと短く答えて、息子を抱いたまま椅子に慎重に腰を下ろした。
「私だって自分のことすらままならないよ。だけどこの子は私がいないと生きていけないから、毎日必死。産む前はちゃんとした母親になれるって思ってたのに、自分の未熟さに産んでから数えきれないくらい落ち込んだよ。子供を産んだ瞬間からちゃんとした親になんてなれないし、この子はもちろん何よりも大切だけど、時折どうしようもなく怖くなる時がある」
「…………」
「本当にこの手で育てられるだろうかってね。産む前だって不安だったけど、楽しみとか、期待の方が正直勝ってた。……眠れない日は今も独身だったらって考えちゃう時もあるよ。もちろん今幸せだけど、私は小夜のことを羨ましくも思う」
 彼女の細い腕に支えられた赤ちゃんは、ゆっくりとした寝息を立てている。深鈴の表情は我が子を見ると穏やかなものに変わっていった。
「やっと落ち着いてくれた」
「深鈴は結婚式、いつする予定なの?」
 私のプレゼントしたウエディングドレスの絵は玄関の入り口に飾ってあった。絵の中で可憐に振り返り笑みを浮かべている深鈴の顔がチラつく。
「どうだろう。この子が一歳過ぎたらかな。今はもう育児でてんてこまいで。それにプラスして結婚式の準備ってなると、ねえ」
「だよね」
「あ、でもね、この子も一緒にウエディングフォトは撮ろうって旦那が言ってくれて。そのためにもう少し瘦せないとねぇ」
 瘦せないと、という彼女は十分以前と変わらない体形に思えた。違うのはバッサリと切られた髪と化粧っ気の無い顔だけだ。
 今度リップをプレゼントしようと思った。ほんのりと桜色に染まるリップ。せめてリップを塗る時間くらい自分に与えてあげて欲しい。以前は自分をもっと彩っていたのに今は色のない唇が顔の中で浮いていた。
「小夜が描いてくれたドレスみたいなのは着れないかもしれないけど、結婚式をするならあの絵はウェルカムボードに使いたいなと思って」
「その時は深鈴が着るドレスに合わせて描きなおすから、言って」
「ありがとう。小夜の方はどうなの? 結婚」
「相変わらず。最初言ってた年内はもう直ぐだから、そろそろ決めないといけないんだけど」
「そろそろって、葉さんはもう流石に気付いてるでしょ」
「マリッジブルーでしょって。焦らせるつもりはないけど、挨拶とか準備もあるから返事が欲しいってこの間もまた言われちゃった」
 深鈴の眉毛がハの字になる。よく見れば彼女の息子も少し垂れ下がった眉をしていて、親子なんだなと感じずにはいられなかった。
 何がそんなに引っかかるのと、彼女はため息交じりに口にした。
 自分の内側にある言葉をここで吐き出したら傷つけるつもりは無くても深鈴を悲しませることになるだろう。
 この歳で結婚を決めるべきかどうか。
 私はまだ二十三歳だ。葉さんのことはもちろん好きだけれど、結婚すればどうしても身軽ではなくなる。
 不安なのだ。考えるだけで脳味噌が黒の海に浸されていく恐ろしさに身震いする。自分の名前が変わって、別の人になり変わるようで怖い。深鈴も結婚をして出産をして、別人になってしまった気がする。同じカテゴリーの中に私たちは今はいない。
 結婚を決めれば、彼女と同じような悩みを持ち、マイホームについての資金繰りや、相手の親族との関係性についてああでもないこうでもないとまた同じ話題を持てるようになるだろうか。
「小夜は考えすぎだよ。葉さんと一緒にいたいんでしょ?」
「いたいけど、それは今の関係のままでも変わらないと思って」
「彼は安心したいんだよ」
「そんなの自分勝手じゃない」
「でも葉さんだって、小夜のものになるわけだし」
「私も、葉さんも、ものじゃない。どうしてみんなそんな結婚にこだわるの。今までと同じようにしていればそれで幸せなのに。この人と添い遂げられるって自信が私にはまだない。もっと自由にふらふらしてたい」
 完全なマリッジブルーだね、という言葉が耳に飛び込んできて石を投げられたように脳味噌が大きく揺れた。
 わかったような口を利かないで欲しい。
「だからなんでもかんでもマリッジブルーで片付けないで!」
 勢いに任せて手のひらで机を叩いてから、とめどない後悔が押し寄せてきた。目の前で肩をびくっと震わせた深鈴の顔が引きつっている。我が子の頭をしっかりと抱き抱えるのは母親ゆえの防衛本能なんだろうか。腕の中の小さな子供は音も気にせず、安心し切った顔で寝息を立てていた。
 呟くようにごめんと口にすると、煮えたっていた怒りは丸ごと後悔に押し流されていった。
「感情的になってごめん」
「いいよ。私も焚き付けてごめん」
 机の上に置いたままの手のひらがじんじんと痛んで、そこだけ別の生き物みたいに感じる。そこにそっと深鈴の手のひらが重なった。温もりは彼女だけでなく、彼女の息子の温かさも混ざっていて途端に熱いものがこみ上げてくる。
 誰しも急には変われないのだ。彼女もそうだったはず。我が子の温かさに触れて、日々積み重ねるように変化しているのかもしれない。
 私は怖くて、自分の枠の中でしか変われない。枠に囚われたくないからこそ自分が外からの影響で自分ではない人になっていくことが想像できないのだ。誰かの望む人になれたとしてもそれは偽りでしかない。
 葉さんといる時は自分を飾らなくてよかったのだ。そのままの私を見てくれて、好意を寄せてくれた。誰かのための自分にならずにすんだ。
 でも結婚したら今までの形が変わってしまうかもしれない。それが恐ろしい。
 周りから奥さんとしてあるべき姿を求められたら、私は水に沈められて溺れてしまう気がする。
「私も結婚する前は悩んだよ。でもこれはゴールじゃないから。結婚したって子供を産んだって、それはまだ人生の中の出来事の一つでしかないよ」
 小夜は考え過ぎたりのめり込んだりしちゃうところがあるからと、深鈴が温かい手で私の手をゆっくりと撫でてくれる。その指には私の手にはない指輪がはめられている。
「あんたのことよくわかってるつもりだったけど、まだまだだったね」
 そう言った深鈴は、私よりずっと大人の女性の顔をしていた。

 

 帰り道、一本だけ連絡を入れた。今日は申し訳ないけど仕事を休もう。そして葉さんに電話をかけた。
「もしもし」
 電話の向こう側からオフィスの人たちの話し声が聞こえてくる。
「今大丈夫?」
「平気だよ」
「今日仕事行かなくて大丈夫になったって。意外と手が足りてるみたい。だから晩ご飯作るけど何が食べたい?」
 問いかけに思案する低い声が漏れてくる。
「グラタン」
「かぼちゃの?」
「そう」
「葉さん好きだもんね、かぼちゃのグラタン」
 小さな笑い声がして、電話越しに会社ではなかなか見せない笑顔で頷いている姿が目に浮かぶ。
「小夜のグラタン美味しいから」
「マカロニは少なめで、具材多めでしょ」
「よくわかってるね」
 そう、よくわかってるのだ。お互いの食の好みに関しては。
「じゃあ、楽しみにして帰ってきてね。あ、帰ってくる前にも連絡頂戴ね。時間合わせて作るから」
 わかったという弾んだ声の後に電話はあっけなく切れた。ツーッという高い音が鼓膜を叩いている。あれ、と違和感が自分の中に残った。
 スーパーに寄って足りない食材を買って帰らなくちゃ。今日は買い物するつもりじゃなかったからレジ袋を買わなくてはいけない。
 かぼちゃに、ホワイトソース、あと鶏肉もなかったな。それ以外の食材はあった気がする。
 人の家の冷蔵庫の中身を思い浮かべながらいる、いらないを判断していく。
 手のひらサイズの雛鳥に似たキウイが、足を止めるほど強く甘く香っていた。食後に食べるように買っておこうとカゴに入れた。
 普段通りにしているのに違和感はまだ残っている。腹の底がまたゆっくりと冷えていく感じがした。
 その時、珍しい人からの着信があった。画面に表示された若葉先輩の文字に、カゴを片手に立ち止まり通話ボタンをタップした。もしもしと電話に出ると向こうから久しぶりと返ってきた。元気にしてる? ぼちぼちですとありきたりなやりとりを済ませると、少しだけ彼女の声のトーンが変わる。
「教授の助手だった琴吹さん、覚えてる?」
「……ああ、琴吹さん。懐かしいですね」
「小夜ちゃんもう知ってるかなとも思ったんだけど、琴吹さんが来年の頭に結婚するんだって。それで今、式の時に流すようにコメントを集めてるんだけど、協力してもらえないかな?」
 そうかあの人も結婚するのか。
 レジに向かってゆっくり歩きながら若葉先輩の言葉の続きを聞いた。
「小夜ちゃんも琴吹さんと仲良かったから声かけたいなって思って。学生もOG、OBも式には出ないからせめてもの気持ちで」
「若葉先輩優しいですね」
「みんなで盛り上がったんだけど、誰も幹事に手をあげなくてね」
 どうかな? ともう一度問いかけられた。
「先輩のお願いなら断れないですよ。みんなそれをわかって手をあげなかったんじゃないですか?」
「そんなことないよー。でもありがとう。助かる!」
 詳細はまた送るね、また今度お茶でも、と言って電話は切れた。
 たどり着いたレジ前は夕方だからか主婦や子供が多く、私はひとりきりで列の最後尾に並んだ。
 あの人も結婚して誰かのものになるんだ。
 子連れの主婦が私の後ろに並んだ。オセロみたいにここで独身から既婚者に否が応でもひっくり返ったら、私の気持ちは楽になるだろうか。
 でも……彼の好きな物を熟知して、家の冷蔵庫の中身を把握して買い物をし、甲斐甲斐しく帰宅時間に合わせて食事を作る私はもう既に主婦みたいなものではないだろうか。
 気がつかないうちに私も積み重ねていたのかもしれない。深鈴と同じように。きっと琴吹さんでさえも。
 深鈴は結婚はゴールじゃないと言っていた。少しだけ考える方向を変えれば私にだって受け入れられるかもしれない。彼は勇気を出して一歩踏み込んでくれたのだ。誰にも取られないようにと。
 結婚に対して前向きになれない私が、彼が引き出しに仕舞ったままにした指輪をこっそりとはめた時、本当は嬉しかったのだ。答えの出せない私を信じて待ってくれていることも、用意周到な彼が結婚指輪と婚約指輪の違いを知らなかったことや、私の薬指のサイズを知らなかったことも。
 何もはめられていない自分の左手をちらりと見た。
 まだ知らないことばかりだ。
 あの指輪を改めて渡す時、葉さんはどんな顔をするだろう。私はどんな気持ちで満たされるのだろう。こんなわがままな私に、彼はいつもと違う笑顔を見せてくれるかもしれない。