父と戦争
八月十五日が近づくたびに、テレビでは、あの戦争のドキュメンタリー番組を放送する。今年はコロナ禍で異例の形にはなったが、いつもならちょうど甲子園では、高校球児たちの熱闘が繰り広げられている時期だ。
どちらも観なくてはならないと意気込む私は、この時期、慣れないビデオ収録のボタンを押すための操作で、時々パニックに陥ることさえある。土と汗にまみれ懸命に白球を追う高校球児たちの戦いが愛しいのは、彼らの姿があの戦争とどうしても重なってしまうからだ。
かつてこんな年齢の、まだ幼ささえ残る少年たちが、あの戦争に駆り出されてその命を落とした。
私は、八月十五日を甲子園球場で戦う高校球児たちの姿に、八月十五日を生きて迎えることのできなかった人々の姿をどうしても重ねてしまう自分の感傷を、哀しくも恥ずかしくも疚しくも感じつつ、テレビの画面にこの時期見入る。
そしてまた、あの戦争のドキュメンタリーフィルムの、粗い画像のモノクロ画面の中に、もしや若かりし父の姿でも見つけることができはしないかと、誇大妄想にも等しいような一縷の望みを抱いて。
こんな私だが、若い頃はずっと、中国や南方に出向き現地の人々に辛い思いをさせたであろう日本軍兵士に対して、憤りと憎しみを抑えることが出来なかった。その思いが、あの戦争について父と語る時間を、私から遠ざけた。
父は、徴兵されて中国にも行き、そして南方にも行った。多くの日本軍兵士たちが、全滅に近い戦いを強いられた南方の島で、父は生きて捕虜となり、日本に帰ってきてくれた。そして母と結婚し、私が生まれた。
自分をこの世に生み出してもらえたというその奇跡を、年を経るごとに私は感謝するようになっている。あれほどの戦いを生き抜いて帰ってきてくれた父にも、ただただ感謝の思いしかない。
そして、何にせよ生きて祖国に帰ってきてくれた兵士たちに、ただ感謝と労りの思いしかない。
南方の戦を生きて父は還る 命を我につながんがため
行く先も知らぬ船底に命なきものと俘虜らは覚悟を決めしか
船底より甲板に出されし俘虜らみな眼前の富士に向かいてありぬ
戦友の声の限りに泣きしとう この富士の山わが祖国よと
南方のいずれの島とも聞かざりき 若くとがりし娘にてありけり
戦争に行かざりしことを恥じ 戦友に遅れしことを恥ずる兵もあり
手榴弾一個ばかりの命にて 語れぬ日々を兵士は生きたり
父は、戦争で負傷もし、ある時にはマラリアに罹患して、麻酔なしで眼窩の骨を削るような手術もしたことがあったが、八十五歳まで生きてくれた。しかも、ハンサムで頼りがいがあり、生き生きとして磊落で頑固で、スポーツ万能の素敵な男として。
六十歳代で心筋梗塞に倒れ、当時はまだ珍しかった心臓のバイパスをつなぐ八時間もの大手術に耐えた。
外で躓いて足を折り、大腿骨にチタンを埋め込む手術にも耐えた。そのリハビリのために通っていた整骨院で再び躓き、それが最後の入院となった。子供四人が交代で付き添ったが、最期の時は、偶然にも私の当番の日に当たっていた。
母も、一番父を愛していた妹も間に合わなかったのに、一番親不孝だった私が看取ることになるとは、思いもかけなかった。
そのことを、私は今でも父に感謝している。
ホームドラマのごとく甘えてみたき日も ありけり昭和を体現する厳父
ただ一度父を侮辱した 鬼の如く殴りつづけた父が恋しい
父の他に男はないと分かっていた ほかの男は息子にすぎぬ
会話なき病室に夕翳り来て 確かに聞いた「お前が娘でよかった」
「母さんを頼む」と洒落たことを言う 「おう、任せとけ」と私も応じる
密林を這いし手負いの兵たりし 父はわが腕に天寿を終える
黙しつつ骨を拾えば輝ける チタン業火をくぐりて立てり
明日香の地に寂しく白き骨となりし 父に朝夕母校の鐘は