訳者あとがきより(抜粋)

 物語は、オーストリアの小学生ヨナスが、父の50歳の誕生日を祝うパーティーに、サプライズゲストとして両親の幼馴染テヴィを招待するところから始まる。

 ただの幼馴染ではない。ヨナスの父キムはカンボジア出身で、少年のころポル・ポト政権の大虐殺を生き延びた経験の持ち主だ。政権最末期、ジャングルを抜けてタイを目指したキムは、瀕死の少女を背負っていた。それがテヴィだ。ふたりはその後、難民として一緒にオーストリアへ来て、田舎の家庭に引き取られた。やがてテヴィは家を離れ、フランスの伯母のもとで暮らすようになる。オーストリアに残ったキムは、後に受け入れ家庭の娘イネスと結婚し、ヨナスを含めて3人の子供が生まれた。

 キムは家族に対して、カンボジアでの子供時代をなにも語ってこなかった。テヴィについても、子供たちはほとんど知らない。だが末っ子のヨナスは、いまは音信不通になっているものの、テヴィは両親にとって家族同然のはずだと考え、再会をお膳立てしてやろうと思いついたのだった。

 キムの誕生日の当日、子供たちに伴われて、テヴィがキムとイネス夫妻の前に現れる。現在はアメリカに暮らすテヴィは、富裕な都会人であることが一目でわかる洗練された女性だった。ところが、子供たちの期待どおりの驚きと喜びはなく、両親とも戸惑いをあらわにする。しかもテヴィは唐突に、今日はキムの本当の誕生日ではないと言い出す─―

 本書『誕生日パーティー』は、2019年に刊行されたユーディト・W・タシュラーの最新作だ。2019年に日本に紹介され、大きな反響を得た『国語教師』同様、時代も舞台もばらばらの場面が、次々に入れ替わる。キムの50歳の誕生日パーティーが催される週末。キムの妻イネスの子供時代。イネスの母モニカの日記。そして圧巻なのが、70年代のカンボジアを舞台にした場面だ。向学心に溢れた貧しい漁師の息子が、貧富の差のない理想の社会を夢見てクメール・ルージュの一員となり、やがて残虐な行為に手を染めざるを得なくなっていく過程が、息詰まる筆致で描かれる。

 全編を通して、ミステリらしい事件が起きるわけでもないのに、なにかがおかしい、なにかこちらの知らないことがある、という感覚を抱かせて、読者をぐいぐい引っ張っていくタシュラー得意のストーリーテリングは、本書でも健在だ。キムとテヴィは互いの過去をどこまで知っているのか。テヴィはキムに対してどんな感情を抱いているのか。命がけでともにジャングルを抜け、兄妹だと偽って一緒にオーストリアへ来るほどの固い絆がありながら、なぜ大人になったふたりは何年も音信不通だったのか─小さな違和感から大きな疑問まで、パズルのピースが足りない、というもどかしさが募り、読者は次から次へとページをめくることになる。パズルの全景が一気に目の前に現れる瞬間には、上質なミステリの謎解きを読むようなカタルシスがある。

 とはいえ、吸引力のある構成にばかり目が行きがちだが、作家タシュラーの真骨頂は、丁寧に描かれる人間ドラマにこそある。カンボジアからの難民であるキムとテヴィを里子として受け入れたのは、オーストリアの田舎に暮らす、祖母、母、娘の三世代母子家庭だった。家族それぞれの人生と、彼らを互いに縛りつけ、傷つけ合うことになった軋轢(あつれき)や誤解、それでも切れない家族の絆。本書はなによりもまず家族の物語だ。

【中略】

 本書のクメール・ルージュ時代の描写は、そのあまりの凄惨さに、ときに読むのがつらくなるほどだが、決して歴史的事実の説明や残酷な出来事の羅列では終わっていない。どんな時代を背景にしようと、タシュラーが描き出すのは人間の葛藤であり、人と人との軋轢、愛情と信頼だ。正義感に溢れた純粋な人間が、その正義感ゆえに悪へと引きずり込まれていく過程。自分が生き延びるため、なにより家族を守るために、他者を犠牲にせざるを得ないことの葛藤。時代と運命に翻弄(ほんろう)される人間の苦悩と悲劇に、読者は圧倒されることだろう。

【以下略】

浅井晶子