心淋し川
その川は止まったまま、流れることがない。
たぶん溜め込んだ塵芥が、重過ぎるためだ。十九のちほには、そう思えた。
岸辺の杭に身を寄せる藁屑や落葉は、夏を迎えて腐りはじめている。梅雨には川底から呻くような臭いが立つ。
杭の一本に、赤い布の切れ端が張りついていて、それがいまの自分の姿に重なった。
ちほはここで生まれ、ここに育った。
「やっぱり人ってのは死に際になると、生国に帰りたいと願うものなのかねえ」
今年の初め、昭三じいさんの葬式から帰った母のきんが、そんなことを口にした。
風邪がもとでひと月ほど寝込み、そのまま枕が上がることなく静かに逝ったが、
「ああ、帰りてえなあ……もういっぺんだけ、霞ヶ浦が見てえなあ」
それだけは床の中で、くり返し呟いていたという。
「じいさんの生国は常陸でね、霞ヶ浦の北辺りにある村の出だそうだよ」
故郷が遠くにあれば、恋しく思うものだろうか?
いや、そんなことはない。あたしはここを出たら、二度と戻りたくなぞない。
川沿いの狭い町にも、この家にも、ちほは心底嫌気がさしていた。
父の荻蔵は、いつもどおり貧乏徳利を抱いたまま、くだを巻いていて、ちほは仕立物に気をとられているふりをする。誰も返事なぞしないのに、母のおしゃべりは絶え間なく続き、ただその日に蓄えた些細な事々を、吐き出してしまわなければ気が済まないのだ。
四年前まで、相槌を打つのは姉の役目だった。姉のていは、鮨売りをしていた男と一緒になって、浅草で所帯をもった。
「ていもとんだ貧乏くじを引いたもんさね。多少見目がいいってだけで、ころりと参っちまって。だいたい鮨売りってのは、格好がいなせなだけに粋に見えるからね。親にも内緒で子供なんぞ拵えちまうから、罰が当たったんだよ。博奕好きってのは、いちばん手に負えないからねえ。稼ぎをみいんなすっちまって、ていの針仕事だけで賄っている有様だもの。そのうち子供を抱えて、実家に戻りたいなんて泣きを入れてきたって、面倒なんて見きれやしないよ」
母の愚痴めいた悲嘆は油のごとくたらたらと留まるところを知らず、これなら別に川岸の棒杭相手でも構わないようにも思える。言ったところで何の甲斐もないことを、どうして母はこぼし続けるのか、ちほにはわからない。
吐き出す母はすっきりするのだろうが、毎日毎日きかされるこっちはたまらない。どうして耳には目蓋のように、塞ぐものがないのだろう。そんなことを考えながら、ちくちくと針だけを動かすことで紛らわせる。
「うっせえな! いい加減、だまらねえか! ていの話なら、こちとら百遍はきかされて飽き飽きしてんだ」
酒に赤らんだ顔を、苛立ちでさらに朱に染めて、父が怒鳴りつける。これもまた、まるで芝居のひと幕のように、変わらずにくり返される。
不機嫌そうに常に仏頂面を崩さず、吞んでいるときだけはやたらと威勢がいい。ただし酒が抜けず仕事に出られぬ日も多く、どの仕事も長続きしない。いまは根津門前町の風呂屋、『柿の湯』で釡焚きをしているが、いつお払い箱になってもおかしくない。
母とちほの針仕事で家計を支えているのは、姉の家とまるで同じだった。
そして毎日の陳腐な芝居も、判で押したように同じ顚末を辿る。
「ちほが嫁に行ったら、寂しくなるねえ。頼むから、おまえは近くに嫁いでおくれよ」それこそご免だと、腹の中だけで言い返す。
「ていもたまには、顔を見せればいいのにねえ。清太ももう五歳だろ、可愛い盛りじゃないか。亭主もわざわざ、根津から浅草に鞍替えすることもないのにねえ」
鮨売りは、仕出屋から売り物を仕入れる。根津で売り歩いていたために、姉は亭主と出会ったのだが、嫁いで半年で子供が生まれ、さらに半年が過ぎると、特に理由もなく仕入れ先を浅草の仕出屋へと変えた。
おそらく言い出したのは、姉ではないか? この町とこの家から少しでも離れるために、姉が望んだことではなかろうか?
「ちほがいなくなったら、父ちゃんとふたりきり。寂しくなるねえ」
昨日が巻き戻ったみたいに、母は同じことをくり返す。
姉に続いて、糸車のようなこの家を出ることが、いまのちほにとっては、たったひとつのよすがだった。
「おや、ちほちゃん、届け物かい?」
翌日、長屋を出たところで、差配の茂十に行き合った。
顔はどちらかというと強面なのだが、穏やかで愛想がいい五十半ばの男だ。
「ええ、いつもの『志野屋』さんまで……」
針仕事を回してくれる仕立屋の名を告げて、ふと、川面に目を向けた。溜まりと化した淀みの中で、数日前と同じに赤い布切れがひしゃげた花のように点じている。
「どうしたい?」
「おじさん、この流れは、どこから来るの?」唐突な問いに、差配はきょとんとする。
この千駄木町の一角は、心町と呼ばれていた。
小さな川が流れていて、その両脇に立ち腐れたような長屋が四つ五つ固まっている。木戸すらないだけに住人でさえも長屋同士の境がわからず、まとめて心町と称した。
もとは裏町だったのだろうが、誰かが裏を心と洒落たのかもしれない。長屋ごとの大家もおらず、差配がひとり据えられていた。それが茂十だった。
「いちばん近い川は、 曙川でしょ? やっぱり曙川の枝になるの?」
土地の者たちが曙川と呼んでいるのは、根津権現の北を流れる細い川である。
寺社領の北縁に沿って、西から東へと流れ、やがて藍染川と合流する。藍染川は南へと進み、流れは上野の不忍池に行き着く。
心町のある千駄木町は、曙川と坂道を挟んで、根津権現の北の裏手にあたる。だからてっきり、曙川の水だとちほは捉えていた。
「まあ、そう思うのも仕方がないがね。この水の出所は崖上だよ」
「崖上ってことは……」
「ああ、お大名屋敷さね」
崖といっても、垂直に切り立っているわけではない。本郷の台地が存在を主張してでもいるように、大きな土地の段差があって、町の西側は勾配のきつい裏山に塞がれていた。ここからは見えないが、崖の上には大名の下屋敷が鎮座している。
「前の差配にきいた話だが、崖の中に樋を埋めて……まあ、木でできた水の道だね。ここまで水を落としているそうだ」
「お大名家が、洗濯や洗い物をした水ということ? 道理で汚れているはずね」
「大方は庭の池の水でね、濁っているのは単に泥が多いためだろうが……」
下水といっても、糞尿は農家が買いとって肥やしにするから、江戸の下水は案外きれいなものだと、顔をしかめたちほに差配は説いた。
「あるいは土地が低いために、流れがここだけ滞るのかもしれない。ほら、千駄木町の中で、ちょうどすり鉢のように、心町だけが窪んでいるだろう? この形からすると、ずっと昔は――大名屋敷が建つより前の大昔だよ。ここは溜池だったのかもしれないね」
こんな場末の土地の差配にしては、なかなかに学がある。
心川の幅はわずか二間ほど。西の崖下だけが丸い池状になり、そこから大きく蛇行しながら、心町を横切り、窪地の東に穿たれた穴から、北東に広がる田畑へと流れていく。
だが、大人の来し方なぞ、若いちほには関心がない。ただ差配の推測だけは、妙にしっくりときた。
「溜池かあ……何だか心町にぴったりね」
雨水とともにあらゆる塵芥を溜め込んで、まったりと淀んでいる。
いまは初夏、一年でもっともさわやかな季節というのに、家の中は黴臭く、水辺には蚊がわきはじめている。日が差さず、風通しも悪いためだ。梅雨はひと月も先だというのに、空気はすでに湿っていた。盛夏となれば、蒸し風呂さながらだ。
あたしは昭三じいさんとは違う。仮にここを離れたとしても、帰りたいと懐かしむことなぞあり得ない。
「今日は雨になりそうだから、早めに戻りなよ」
娘の心中なぞ知るよしもなく、差配は吞気にちほを見送った。
千駄木町は、実に複雑に坂が絡み合っている。登ったと思えばすぐ下りになり、まるで扇紙のように小刻みに山と谷をくり返す。千駄木町を抜けると、心町から解放されたような心地がして、いつもちほは、ほっと息をつく。
曙川を右手にながめながら、だらだら坂を下った。
根津権現の境内は町屋が許されていて、正式には根津社地門前というが、あけぼのの里という呼び名の方が通りがいい。色街としてなら門前町に大きく軍配が上がるのだが、居酒屋と料理屋の数は負けていないし、酌婦も多いときく。一晩中、大いに楽しんで朝を迎えることができるとの謂れだろうか、川の名もそれにあやかっている。
ちほは寺社領の東の外れで橋を渡り、あけぼのの里を通って、そのまま南に伸びる根津門前町へと抜けた。
この門前町と南どなりの宮永町には岡場所がある。
吉原からすらも目の敵にされるという色街であり、遊女屋がひしめくように軒を連ねた通りは夜ともなれば淫靡な華やぎを増す。吉原からは下品との烙印を押されているそうだが、遊び賃が安いだけに近在から男たちが群がる。
夜になるととても近寄れないが、昼前のいま時分は客らしき姿もなく、寝惚けたような姿を晒していた。志野屋は宮永町にあった。
この界隈の仕立物を請け負っているが、女物ではなく、岡場所の男衆の印半纏や旦那衆の羽織なぞをもっぱら仕立てている。五日に一度ほど、ここに通うのはちほの役目であったが、以前はたいそう気が重かった。
「ああ、あんたかい、ご苦労さま。ちょいと見せてくれるかい」
女の裁縫師は、町屋なら針妙、武家屋敷ならお物師、遊女屋ならお針というように、所によって呼び名が変わる。一方で、仕立屋はほとんどが男職人である。男仕立てといって、志野屋もまた、すべて男の職人で占められていた。
針目を改めるのは、いつも決まった手代であったが、その言い草が気に入らない。
「あんたも以前よりゃ、だいぶましになったねえ。最初は縫い目がふぞろいで、そりゃあひどかった。姉さんのおていさんは、十五、六の頃から差しで縫い目を測ったがごとく出来が良かったってのに。おっかさんの器用は、みいんな姉さんに持ってかれちまったのかねえ」
姉とあからさまにくらべては、ねちねちと嫌味をこぼす。始めて二年ほどは、持ち込むたびにやり直しを命じられた。
たしかにちほは、母の手指の才を継いでいないし、何年やっても針仕事は好きになれない。姉は嫁いでから、所帯に近い浅草の仕立屋に鞍替えし、ちほは否応なく志野屋の仕事を任された。家計を支えるために仕方なく堪えているというのに、この嫌味な手代は、ちほの堪忍袋の緒を針でつつきまわすような真似をする。
「でこぼこは、手代さんも同じじゃない」
手代の顔を盗み見て、口の中で呟く。三十路を大きく超えた手代の頰は、若い頃のあばたの痕か、それこそ不規則に波打っている。
「うん? 何か言ったかい?」
「いえ、何も」
「そうかい、じゃ、次の仕事を渡しておくよ」
「あのう、今日は……」
と、狭い店の内を素早く見渡す。客の男がひとり、別の手代が応対しているだけで、番頭は帳面に目を落としながらあくびをしている。番頭以外はすべて、日頃は作業場に詰めている。表店は狭いが、壁一枚隔てた仕立ての作業場は何倍も広いと、母からきいていた。
言い淀んだちほに、手代は、ちろ、と意味ありげな視線を向ける。
「上絵師なら、まだ来ちゃいないよ」
「そ、そうですか……それじゃ、またよろしくお願いします」
図星をさされて、たちまち頰が熱くなる。動悸を収めるように風呂敷包みを胸にきつく抱いて、踵を返した。
宮永町の大通りを西に折れ、路地を抜けると寺がある。境内の外れにある小さな堂の前で、しばし待った。
差配の茂十が言ったとおり雲は多いが、初夏の風はやわらかい。上気した頰には心地よかった。待つことも苦にはならない。ここでこうして忍び逢う間柄になれたというだけで、満ち足りた気分になる。
あとふた月半――夏が終わればあの人が、うらぶれた町からあたしを連れ出してくれる。考えるだけで、背中に翼が生えそうな気がする。
四半時ほど経って、待ち人は現れた。