プロローグ

 火の粉は雪とともに降ってきた。
 数分前の光景だ。あのとき、彼はほんの一瞬立ちどまり、その鮮やかな色合いに見惚れた。まだ肩や背中にその火の熱が残っているような気がして、彼はつい興奮気味にアクセルを強く踏んだ。
 クリスマスの夜、四車線のバイパスを百キロ以上のスピードで暴走する車を、二台のパトカーが猛追していた─。

二時間ほど前、その男は市内の街路をあてもなく、ぼんやりと歩いていた。年に一度の聖夜のお祭りに、町はにぎやかで華やいだ雰囲気に包まれていた。CDショップの店頭からは今年のヒット曲がひっきりなしに流れてくる。ほとんどが若いアイドルのもので、男が口ずさめる歌はひとつもない。駅前の街頭テレビには一年を振り返るように、今年を彩った出来事が映し出されている。東京スカイツリーの開業、イチローの電撃移籍、ロンドン五輪、iPS細胞作製によりノーベル賞受賞─。比較的明るい話題ばかりで、その裏で起きた数々の事故や事件や災害などは、今夜は脇に置いて、というように作為的にはぶかれていた。長年田舎暮らしの男にとっては、時々それらのニュースがファンタジーのように思えたりもする。

 薄暗い空から、はらはらと雪が落ちてきた。男は歩きながら、頭の上に乗ったかすかな雪を手で払った。もちろん初雪ではない。一ヵ月ほど前から少し降ってはすぐにとける、をくりかえしていた雪が、また降ってきたようだ。
 ロマンチックな雪景色に、いきかう若者たちはささやかな喜びの声をあげる。その中に加われない寂しさが、ふいに男の胸を突いた。言いようのない孤独感に襲われる。時が経つのは早く、もう二十代後半……。クリスマスの夜、いい大人が目的もなく歩いている。男はなんだか恥ずかしくなり、そそくさと近くに停めてある車に向かって踵を返した。

 男がふたたび聖夜のドライブを開始したころ、市内の外れのほうにある一軒家の中では、大惨事の幕が切って落とされていた。
 一人の主婦が、石油ファンヒーターの運転ボタンを押した。今夜は例年どおり家族でパーティーをして過ごす予定だった。同居している舅や姑は、町内会が企画した年末旅行に参加しており、今日はいない。先程まで準備を手伝っていた十歳の娘は、少し疲れてしまったのか、いまは二階の部屋で眠っている。夫が帰ってきたら起こそう。カレー風味の唐揚、ママ特製のピザ、苺タルトのケーキ、そしてぬいぐるみロボのプレゼント。今夜、娘の興奮が鎮まることはないだろう。いまのうちにゆっくり休んでおくといい、と彼女は考えた。
 ふいに、ボンッ、という音をあげ、ファンヒーターが大きく発火した。それはバチバチと火花を散らし、あっというまにクリスマスの装飾とカーペットに引火し、リビングの中に異様な火柱をつくりあげた。後になってわかったことだが、原因は、このファンヒーターの灯油にガソリンが混じっていたためだった。これは懇意にしている業者のミスだったが、それを知る由もない主婦は自身の不手際が起こした事態と思い、激しく動揺した。彼女はあわててボールタイプの投てき消火用具を探した。しかし、あると思っていた場所にそれは見つからず、そのうちに火は勢いを増し、黒い煙を吐き出しはじめた。彼女はパニックにおちいった。何か消火に使えるものはないかと手当たり次第に近くの棚や戸を開けた。不燃物を投げつければ消えるかもしれないと短絡的に考えることしかできず、手に取った食器や鍋などを即座に投げ込んだ。しかし火は一向に消える気配を見せず、むしろその範囲をどんどん広げていく。彼女は強烈な焦燥感に支配された。

 小麦粉が消火に使える、という浅い知識が頭を過った主婦は、それを雑につかみとると急いで放った。しかし袋キャップが中空で外れ、粉は霧のように室内に舞い散ってしまった。次の瞬間、起こったのは小さな粉塵爆発だった。主婦の視界は刹那、バンと白く弾けた。思わぬ威力。爆風によってリビングの大窓が割れ、彼女はその穴からあわてて外へ飛び出して転がった。簡素な庭でしばし放心していた主婦だが、すぐに正気を取り戻し、よろよろと起きあがると力のかぎり叫んだ。
「恵!」彼女は頭を抱えた。「ああ、どうしよ。恵……恵!」
 リビングの奥はオレンジ色に燃え、大量の煙を生み出しては外へ向かって放っている。二階で眠ったままの娘を助けるため、ふたたび中へ飛び込もうとしている主婦を、その煙は巨大な張り手で拒みつづけていた。彼女の体は切り傷、打撲、かすかな火傷などでぼろぼろだったが、痛みはほとんど感じていなかった。頭にあるのは十歳の娘のことだけ。
「誰か……誰か助けてください!」
 と、主婦は叫びながら、家の前の通路に出た。異常を察した近所の住民がすぐに駆けつけ、即座に救急車と消防車を呼んだ。しかし、それらが到着するまで一体何分かかるのだろう。彼女は呆然と立ち尽くし、不慮の火災に見舞われたわが家を眺めた。
 ふいに二階の窓が開いた。娘が顔を出したのだ。
「お母さん!」娘は泣きながら叫んだ。「お母さん!」
「ああ恵……」主婦は口許を手で覆った。「すぐに助けるからね、大丈夫だからね!」
 娘は、いま自分の置かれている状況を一から十まですべて理解しているようだった。熱い、息苦しい、助けて、死にたくない。実際に聞こえはしないが、そんな言葉が娘の歪んだ口から発せられているように思え、主婦はもう立っていられなかった。

 そのとき、一台の軽自動車がこの家の前に停まった。車から降りてきたのは、二十代後半の男性だった。彼は先程まで、華やいだ町をあてもなく歩いていた男だ。あれから数十分後─偶然、この場面に遭遇したのだ。しかし男はこの展開に、なかば運命的なものを感じていた。意気揚々と主婦や野次馬の住民に近寄ると、彼は一瞬目を合わせた程度で、すぐさま燃える家の中へと飛び込んでいった。
「あ、あの!」
 戸惑う主婦の声が男の背中を追いかけたが、彼の姿はもう黒い煙の中に隠れていた。
 それから五分足らずで、男は家から出てきた。胸に十歳の少女をしっかりと抱きかかえている。手や頬は黒く汚れ、かすかな火の粉で肩を焦がしているが、男は植物のように無感情な様子で、少女だけを見つめていた。少女は意識はあるが、恐怖からか身が固まり、喉を震わせるばかりで声が出ないようだった。
 悲鳴とも歓喜ともつかない声が周囲からこぼれる。
 わが子を受け取ろうと、主婦がよろめきながらも駆け寄ってくる。囲む野次馬たちの中にも安堵の空気が流れる。

 しかし男が次にとった行動に、周囲は唖然とした。
 彼は少女を母親に手渡さず、ふらりとかわすと、そのまま少女を抱きかかえつつ、停車してある自分の車のほうへと走り出した。あまりにも奇妙な光景。当惑や混乱に至るまでの、しばしの硬直。母親を含め、まわりの人々は男の行動をなかば呆然と見送ることしかできなかった。 男は車のドアを開けると、少女を助手席のほうへ押し込んだ。そして自身も素早く運転席に座るとドアを閉め、エンジンをかけると勢いよく走り出した。
 目の前で娘を連れ去られた母親は、靴下のまま、即座に男の車を走って追いかけた。途中で転び、誰かに抱き起こされるまで、彼女の意識はいつまでも娘を追いかけつづけていた。
 クリスマスの夜、火事に見舞われた民家から幼い女の子を救い出した英雄は、次の瞬間一転して、女の子を連れ去った犯罪者へと変わったのだ。
 男の車はバイパスに入り、新発田方面へと向かって走る。いき先は決まっていた。
 少女は助手席に座りながら、頭を押さえてすすり泣いている。煙を吸ってしまったせいか、げほげほと咳もまじらせている。男もいくらか煙を吸い込み、いまの気分は最悪だった。こめかみの奥がずきずきと痛む。視界も霞む。それに呼応してか、強烈な後悔と罪悪感に襲われた。これは少女を連れ去ったことに対するものではなくて、もっと昔の……。
 しかし浮かびあがってくる記憶はすべて断片的で、曖昧で、なぜか言葉にできないものばかりだった。

 パトカーのサイレンの音が四方から響き渡ってくる。これは間違いなく、男を追いかけている音だ。どんどん大きくなる。まもなくして、派手に光るパトカーの赤色灯がバックミラーに映った。男はごくりと喉を鳴らしてから、アクセルをおもいきり踏み込んだ。
 前方の車を避けるようにジグザグに走り抜ける。少女の顔は青ざめていて、目も開けられないほど、現状に恐怖している。男は心底申し訳なく思うが、止まることはできない。後方を走る二台のパトカーはすでに男の車を視界にとらえていて、拡声器で何やら怒鳴っている。
 男の車は猛スピードでバイパスをおりた。最初の信号無視。そして二度目の信号無視の瞬間、左からきた大型トラックにぶつかりそうになり、あわててハンドルを切った。耳をつんざくようなクラクションの音。タイヤを焦がす地面。男の車はおかしな方向に傾き、スピンしながら照明灯に体当たりした。そのままがつんと歩道の縁石に乗り上げる。異常な光景。勢いあまった車はぐるんと側転するように、歩道脇のゆるい傾斜の下へと転がっていった。
 歩道脇は工業地帯だ。運送会社の事務所と倉庫に挟まれた小道で、男の車はひっくり返っていた。伸びた蛙のようだ。砕けたガラスがまばらに散らばった。
 即座にパトカーが数台、その周辺を取り囲み、何人かの警察官が外へと足を踏み出す。ひっくり返った車の下から、少量だが血が流れてくる。警察官の一人はそれを見て、思わず顔をしかめた。これは犯人の血か、それとも連れ去られた少女の血か……。
 そのとき、割れた窓ガラスの中から、男がぬっと顔を出した。まさに虫の息。なんとか這い出てきた男の背中には、大きなガラスの破片がグサリと突き刺さっていた。男はみずからが流した血だまりの中に浸かった。
 こりゃ、だめかもな─。
 見下ろす警察官の一人は、そう思った。そして、思わず問いかけた。
「おい待て。まだ死ぬな。なぜこんなことをした?」
「やめろ。まずは救助が先だ」
 ほかの警察官がすぐに戒める。
 そうだ、最優先すべきは少女の命。しかしこの有様だと……。
 警察官たちの胸の中で、絶望が小さな音を立てる。
「……こ」そのとき、血だまりに沈む男がかすかに口を開いた。

「今度は助けたかったんだ」