刊行記念インタビュー

書評

闇へ還元された物語集

澤村伊智

 書けなくなった作家が打ち明けた驚くべき理由と、その裏を取ろうとした編集者が知る恐るべき真実(「夢伝い」)。復讐を遂げたばかりの男が向かった地元。廃村となった地で体験する不可解な現象と、直面する忘れたはずの過去(「沈下橋渡ろ」)。複数の人物が語る「ある教育ママの事故死」「大学生カップル殺人未遂事件」。そこから仄めかされる、ある心霊スポットで起こった怪事(「愛と見分けがつかない」)。末期の父に聞かされた亡き母との馴れ初め。母の過去を確かめに向かった先には……(「母の自画像」)。
 全十一編の短編集。どれも大変面白く拝読したが、特に琴線に触れた四編を挙げた。
 どの短編でも人間が書かれている。どこにでもいる、ありふれた人間の姿が、克明に、残酷なまでに丁寧に浮き彫りにされている。
 自分の罪は記憶から消しておきながら、他人から受けた仕打ちはいつまでも忘れない。解決すべき人間関係の問題から目を背け、歪みだらけの日々を過ごす。創作物を鑑賞する際、人間は自分のことを棚上げするものだが、宇佐美作品の登場人物を他人事として読める人間は余程の聖人君子か、自分がそうだと勘違いしている気の毒な人だけだろう。
 そして、どの短編でも怪現象が書かれる。人が怪現象を呼んだのか。あるいは怪現象が人を招くのか。いずれにせよ、人はそれを通じて己の本心や、捨て去ったはずの過去を突き付けられる。それは恐怖であると同時に救いだ。たとえ苦痛を伴い、この世の理を飛び越えてしまうとしても、辻褄が合うことは時に救済にもなり得る。秩序の光ではなく混沌の闇で救われる魂もあるだろう。いや、理屈に合わない生き方をする大多数の人間にとって、闇こそが救いなのかもしれない。
 宇佐美まことはその作風から、ジャンル横断的だと評されることが多い。これは人間の暗い内面や罪を書くことは本来サスペンスに属するもので、怪現象は怪談またはホラーのものだ、という認識に立脚している。終盤にミステリ的なサプライズが仕掛けられた作品も多い。また、題名は伏せるが別の収録作は、私の感覚だと極めてSF的だ。主人公の目の前で起こっていることを、一言で説明できるSF用語があるからだ。
 しかし、私は宇佐美作品をジャンルで語ることに抵抗がある。断っておくが、宇佐美まことは宇佐美まことという一つのジャンルなのだ―などという、ありがちな言葉遊びでお茶を濁すつもりはない。
 宇佐美まことはジャンルを横断しているのではない。融合させているのでもない。物語を闇に還しているのだ。ジャンルという秩序の光を取り払い、あらゆる物語を昏く怪しい話にしてしまうのだ。

さわむら・いち

「小説すばる」2022年7月号転載