【書評】 生き生きとした手練の秀作

評者・池上冬樹(文芸評論家)

あいかわらず井上荒野は巧いなあと思う。大きなドラマがあるわけではないのに、節々でニヤリとし、感じ入り、幕がおろされた後も続きを読みたくなる。これといって確たるものをもって生きているわけではない人々のさすらうありようがしみじみと伝わってくるのである。

舞台は、長野県側の八ヶ岳の麓の町で、園芸店を営む家族の物語である。

三十八歳で独身の七竈遥は、姉の真希の電話であわてて八ヶ岳に帰ってきた。父親が二十五年ぶりに実家に戻ってきたのだ。二十も若いイタリア人の女性シェフと恋仲になって、妻と娘二人をあっさり捨てたのに。遥が中学一年の時だ。聞けば、イタリア女が故郷に帰ったので帰宅したという。出てってよ! と言葉を投げつけても、父親は家から出なかった。

園芸店は父親が不在の間も、母親の歌子、姉の真希、その夫の祐一、従業員蓬田の力で経営は安定していた。そして歌子と蓬田は恋愛中で、家族たちも温かく見守っていた。その矢先のことだった。

こうして家族に波瀾がおきる。設計事務所のオーナーと不倫中の遥の視点で始まり、夫に不審を抱く四十一歳の真希、嫉妬に狂う五十七歳の蓬田、秘密を抱える祐一、遥の不倫相手で自分勝手な池内、そしてイタリア女など次々と視点が移っていく。各自のとりとめない心の揺れと生活をのぞかせながら、気づき、諦め、不安といったものが少しずつ積み重ねられ、何らかの決断に繋がる。といっても大きな人生の決断ではなく、衝動に近い。ただ衝動的に見えても、もはや絶対に以前には戻らないという確信を抱かせる。

タイトルの「百合中毒」とは、ユリ科の植物に猫が中毒を起こすことで、種によっては毒性が強く、葉を三枚食べただけで入院または死亡の例もあるという。些細な好奇心が命取りになるたとえで、各自の人生と響きあうけれど、印象深いのは「結局のところ愛したり恋したりする」行為は一種の病気で、本当の愛だとか偽物の恋だとかは「それが終わってからしか言えない」という感慨だろう。そう、ここには彷徨う心と体の軌跡がある。それを丹念に追い、愚かしくも愛おしい人生の輪郭として鮮やかに読者に提示している。生き生きとした手練の秀作だ。