篠田節子『青の純度』ハワイ島取材記-歩いた 調べた 泳いだ-
1 元祖マリンアートを探す
手元に古びた画集がある。タイトルは『海からのメッセージ』。表紙はおなじみ、イルカの戯れる青い水中画。ページを開けば、緑の陸と青い水中に上下二分割された画面。水中では色とりどりの珊瑚礁を背景にイルカが泳ぎ、飛び跳ねている。
黙って見せれば、100人中99人は「ラッセン!」と言うだろう。
残念。マリンアートの先駆者、ロバート・リン・ネルソンの絵だ。目を凝らせば、ハワイ全体で量産され、土産物のように売られているパターン化された海の絵との違いに気づくだろう。どことなくワイエスを思わせるタッチも垣間見えるし、古典絵画の趣を感じさせる作品もある。
この画集が出版された1992年、日本ではラッセンが大ブームだったが、ネルソンの名を知る人々は、当時も今もほとんどいないだろう。
ハワイで大量に作られ売られている土産物用アートの作者の中で、日本ではなぜラッセンだけがあれほど人気を博したのか。
答えを求めるなら、売り出した会社のスターの見つけ方と販売戦略の巧みさということに尽きるだろう。
しかしそれならラッセンと他のマリンアート制作者を差別化するものがどこかにあるのか、あるいはそんなものは容姿とプロフィール以外どこにもないのか。
そんな疑問から、おそらく私は当時、先駆者と言われるネルソンの画集を入手したのではないかと思う。
30年も昔のそんな疑問を、今更小説に仕立てるきっかけになったエピソードは、すでにあちこちのインタビューで答えているので省く。
ラッセンを始めとする、あのつるっとした肌合いのマリン絵画(版画や印刷物ではなく原画)は、どこでどんな風に作られて売られているの? 彼らはどこでその技法を学んだの?
2022年、小説『青の純度』の舞台となったハワイ島で、最初に目指したのはギャラリーだった(公設の美術館の類いはハワイ島にはない)。しかし島内のいくつかのギャラリーを訪ねても展示されているのは伝統工芸品が中心で、絵画はグラフィック調の絵が多く、マリンアートを置いているところはない。
ようやくみつけたのは、海岸沿いの土産物屋の立ち並ぶ一角だった。
そうした土産物絵画ギャラリーのうちの一軒では、展示パネルの巡らされた店内の奥で、白人の男が制作中だった。大雑把に絵の具が塗られた上に筆跡が残らぬように細筆で描き込んでいる最中で、傍らから突き出した金属製の台に肘を置いて筆先を細かく動かしている。
金属台はルネサンス絵画などでもおなじみの腕鎮と同じ役割を持ち、腕を支えて細部を描き込むための道具だ。マリンアートの筆跡のない画面の、あのリアルなタッチはそうした気の遠くなるような細かい作業で作り出されるものだ。
絵を描いていた男性に話を聞くと、店内に展示されている絵は、彼自身が目にした周辺の海の風景を写したものだと言う。
「この岩に、月の光が当たって本当に美しかったんだ」と夜の岩場に波が砕ける絵を指差す。日曜画家でさえキャンバスにプロジェクターで写真を投影し、直接絵の具をのせてしまう者がいるというのに、土産物ギャラリーの主の意外なほど真摯な口調と、根気のいりそうな作業が印象に残った。
ここのギャラリーは、彼と義父の絵画を展示しているそうで、義父でこのギャラリーの名前にもなっているロバート・トーマスは夕刻以降に店に出てくる、という話だった。二人で交代で店番をしつつ、絵を制作しているのだろうか。
ちなみに版画でも印刷物でも、アクリル絵画でもない、これら紛れもない油絵の値段は、70センチ×90センチくらいの大型の油絵で1590ドル。日本円にして23万円くらいだ。小さな絵では7、8万円台からある(なおプリント作品の値段は50ドル程度)。ラッセンのインクジェットプリンターによる作品と無意識に比較し、ついふらふら手が出そうになるのを、自制心で止める。
海岸沿いの道には他にもいくつかギャラリーがあって、外光の差し込む明るい店内には、どこも似たような絵が展示されている。ロバート・トーマスギャラリーのようにオーナー自身が作品を売っているところもあれば、地域のいろいろな画家の作品を取り扱っている店もある。類似の店は、オアフ島にもマウイ島にもある。ゴッホよりラッセンが好きで、部屋に一枚、と考えるなら、こんなところで推しの作家をみつけるのもいいかもしれない。
2 日系移民の町
母方の遠縁にハワイのコーヒー園経営で成功した者がいる。終戦から10年近くが経過した頃、トランク一杯のコーヒー豆と札束を抱えて東北の生家を訪れ、当時中学生だったという私の義理の従兄弟に向かい、「おい、ボーイ、わしと一緒にハワイに行かんか、コーヒーは儲かるしハワイはいいところだぞ」と誘ったらしい。当然、義理の従兄弟は、そんな知らない国に行くことなど考えられず、長じて公務員となり川崎で所帯を持つことになるが、「そのコーヒーというものを飲ませてもらったが、苦いだけでぜんぜんうまくなかった」と語っていた。
その後、親類のコーヒー園がどうなったのか知らないが、リゾート地として有名になるはるか昔から、ハワイには日系移民の歴史が刻まれている。
明治元年からサトウキビ労働者や自作農として、多くの日本人がハワイに渡り、厳しい労働に耐え、原野を切り拓き、家族を持ち、近年、日系人はハワイ全体でも最大の民族集団となっている。
日本人の美点である勤勉さによって、多くの日系人がそこそこの成功を収めたものの、1941年の真珠湾攻撃によってその生活は暗転する。ある者は収容所に送られ、あるものは苦労の末に築いた幾ばくかの財産や店などを没収され、あるものは合衆国への忠誠を示すために、第二次世界大戦でももっとも過酷な戦場に送られた。
戦後に東北の生家を訪れた遠縁の者とその一族も、自作農として現地に入った後、世代を超えての苦労と紆余曲折を経て終戦を迎えたものと思われる。
そうして現在、ハワイの日系人は、その堅実なライフスタイルを反映してか、総じて高学歴で、公務員等のホワイトカラー、商店経営者など、社会で一定の地位を占める人々が多い、と聞いた。
明るく晴天の多いリゾート地ワイコロアとは対照的に、雨がちで緑豊かな町、ヒロはかつては広大なサトウキビ畑が広がっており、明治初期に労働者として入った日本人たちが契約終了後もここに定住し、新町と椰子島町の二つの日本人町を作ったことで知られる。
商店や寺、学校、工場などもあり、賑わっていた二つの町だが、1946年と1960年の二度の津波で壊滅的な被害を受けた。以後、人が住むには適さない土地として、現在は緑したたるワイロア川州立公園となって、カメハメハ大王像の背後に置かれた記念碑に、その繁栄を偲ぶだけだ。
しかしこの地に1907年に日系移民が創業した鮮魚店「スイサン」はワイロア川河口付近に再建され、地元の人々と観光客で賑わっていた。鮮魚と水産物加工品の他に、ガラスケースの中にはキハダマグロの刺身を蜂蜜やオレンジなど、味わいも香りも異なる様々なソースに漬け込んだ何種類もの「ポケ」が販売されている。
ご飯や他のおかずとともに弁当にしてもらい、公園の芝生の上で食べた味は絶品だった。

ハワイの日系移民について調べていて、とりわけ興味を引かれたのは、彼らとともに海を渡った宗教についてだ。
仏教についてはそれぞれの宗派が寺を建立し、僧侶を派遣していた時期もある。日本国内の菩提寺と檀家のシステムがそのままハワイに渡ったように見えるが、近現代の葬式仏教とはかなりその役割を異にしている。
共に移民してきた人々はそれぞれ講を結成して、苦しい生活を支え合った。仏事の他にも、頻繁に集会なども行い、僧侶は子供に読み書きを教え、寺はコミュニティセンターや学校の役割も果たしていた。さらに寺から離れて、住民の悩みを聞き、病を癒やすシャーマン的な存在になったという女性もいたそうで、その当時の日系人社会と宗教の関係など考えるととりわけ興味深い。
真珠湾攻撃を機に、合衆国の日系移民は敵性市民と見做され収容所に送られることになったが、ハワイの日系人に関しては、その数があまりにも多く、貴重な労働力でもあり、大半の人々は収容所送りを免れた。その中で領事館員、教員などと並び僧侶が収容の対象となったのは、宗教的な理由というよりは、教育や福祉、心の健康といった面で、コミュニティの中であまりに大きな影響力を持ち、日系人社会を支えていたからではないか、などと私は思う。
コーヒーで有名なコナ地区にある大福寺は、1915年に兒玉介石によって開山された曹洞宗の寺だ。

本堂の正面に立って啞然とした。入母屋破風のついた大屋根は、私たちが葬儀や法事で馴染んだ地域の菩提寺と変わらぬ造りだが、目にも鮮やかな真っ白なトタン葺きだ。かつての茅葺き屋根をトタンで覆った田舎の古民家を想起する。紛れもない寺社建築でありながら、明るい陽射しに映える白い屋根や白い柱と、現地の材木の赤褐色の壁の鮮やかなコントラストや、広々とした階段は、いかにもアメリカ的だ。
本堂に入ってびっくり。内装は明るく開放的な造りで、中央に祭壇があり、本尊の釈迦如来像が安置されている。木製の長椅子の並んだ様は、町のプロテスタント教会そのもので、地元の方々や観光客が訪れお参りしている。
建物は1994年にアメリカの文化財として登録されたということだが、盆踊りや座禅会など年間を通して様々なイベントが開催されているとのことで、現在も地域の文化センターとして機能している、生きた寺、だった。
大福寺から車で10分足らずのところにホルアロアの日系人墓地がある。海を見下ろす傾斜地に作られた墓地には、日本式の墓石が並んでおり、苔むした古いものも多い。
墓石には名前や享年も刻まれており、幼少、若年で亡くなられた方も多いことがわかる。
墓石はすべて海側、西にある日本の方向を向いているのだ、とガイドさんに知らされ、異国に骨を埋めた方々の望郷の思いに胸が詰まった(なお、日系人墓地の墓石が西を向いているのは、西方浄土を示すとも言われている)。

3 豪邸はどこにある?
海を見下ろす断崖絶壁の上にぽつりと建つ、白亜の邸宅。鉄製の門の内側には、イルカの彫像のある噴水。
これが『青の純度』に登場する、日本で大成功を収めた画家ヴァレーズがハワイ島に建てた豪邸の図、のはずだった。
しかし現地に着いたとたんに、私のベタな設定は、ガイドさんに一刀両断された。
ハワイ島に、「ぽつりと豪邸」はあり得ない。なぜなら溶岩の島の何もない景勝地に家を建てるなら、道路、電気、水道、などなどインフラのすべてを作らなければならないからだ。豪邸は、そうしたものが整備された地域にしか建たないらしい。
それではその豪邸街はどんな場所にあるのか?
断崖絶壁の上になどない。
海岸べりだった。家から裸足でビーチに出られるところだ。
いかにも楽しそうだが、ハリケーンの高波が来たらどうなるのか、そんな危険な場所に家を建ててどうするのか、という私の質問に、ガイドさんは、ふふっと笑った。
「波を被れば修理するのよ。壊されれば建て直すのよ。そういうお金持ちしか、そんなところに家は建てないし、海岸に家や別荘を建てるというのが、ステータスなんだから」
信じがたい思いで、まずはさるリゾートホテルの敷地の端まで歩いた。
その隣が、豪邸街で、中でも一番ステータスの高い豪邸が、自宅の庭をプライベートビーチとして建っているからだ。
ホテル前の砂浜は岩場に変わり、足元で波しぶきの上がる岩の間を行くと、確かに豪邸前のビーチがあった。しかし庭や家は見えない。当たり前だが、植え込みとフェンスでしっかり目隠しされている。フェンス越しに、二階か三階のテラスを巡らせたバルコニー風のものが望めるだけだ。

諦め切れずに、そのホテルに隣接した豪邸街の入り口から忍び込んでみたが、こちらも塀と植え込み、高い門扉などで、建物の全容は見えない。
あとは小説家の想像力といおうか、妄想力で描写するしかないか、と泣く泣く退散した。
しかし諦め切れず、その日の午後遅く、ハワイ島豪邸見学を一人で決行することにした。
同行してくれた編集者やガイドさんに知れたら、大目玉を食らう。危険な上に場合によっては犯罪行為?
私たちの泊まったホテルの砂浜から弧を描いた海岸の先に、建物が見えたのだ。
「あれは?」とガイドさんに尋ねると、「金持ちの家ですね」と言う。
そのとき次の行動が決まった。
水着に着替えてビーチに出て、ホテル内のレンタルコーナーでフィンを借りる。
シュノーケリング用のマスクはじゃまなので、持参したスイムゴーグルを装着し、海に入った。
後は弧を描いた海岸に沿って、豪邸前に出るだけだ。
水中は砂が巻いて視界が悪いが、陸側を見るには支障はない。
沖に出ると海水浴客はあまりいないが、サップや手こぎボートの観光客もいるので危険な潮の流れもなさそうだ。
フィンをつけたので、クロールはぐんぐん進む。徒歩で行くところを自転車に乗ったようなものだ。
後はひたすら泳ぐのみ。
ほどなく件の邸宅のあたりに着いた。
浜に向かって近づいていくと、邸宅の正面は全面ガラス張り。ためらいながら上陸する。
ガードマンが駆け寄ってくるのではないか、と心配したが、こちらは水着姿のおばさんでもあり、ホテルのビーチから流されたとでも言い訳するか、とフィンを脱いで砂浜から建物に向かって歩き出したとたんに、足裏の痛みに飛び上がった。
浜に優しい木陰を広げている木が、大量の実を落としていたのだが、それが小さな栗のようなもので、一帯に刺の生えたイガが散らばっていたのだ。
豪邸は海からの侵入者に備えてか、天然のマキビシを用意していた。
舌打ちしながら、建物をうかがい見ると、ガラスの向こうには、椅子の背がずらりと並び、天上からは豪勢なシャンデリアが下がっている。
何か様子が違う。建物の左端を見ると、何やら案内板らしきものがある。
そこにあるマークを見て、よろよろとその場に座り込んでしまった。
邸宅ではない。
某有名ホテル敷地内のバンケットホールだった。
4 病院、クリニック、救急車
海外取材の折には、必ず病院とクリニックと警察署の見学を入れる。
小説の登場人物は必ずと言っていいほど、事件や事故に巻き込まれ、無事では済まないからだ。
そんなことでハワイ島でも、空港からほど近いクリニックを見た。ちょうど休診の時間帯で中には入れず外観しか見られなかったが、低層の建物が並んでおり、診療科目からも規模からも、ちょっとした総合病院のようだ。
国民皆保険制の日本と違い、アメリカでの入院期間は一般に短い。ハワイ島でもそれは同じで、私が物語中で設定した脳梗塞などについても、急性期医療が終了するとすぐに退院となる。リハビリ施設のようなものはなく、患者はリハビリは通院で医師の指導のもとに行うが、医療費の高さもあって、大抵は自宅で自主的に行っているということだった。
また病院の数も専門医の数も少なく、病気によってはオアフ島の病院に行ったりもするらしい。ハワイ島の別名はビッグアイランドだが、そのあたりは離島に近いようだ。
うっかり病気にもなれないわね、ふうん、と聞き流していたところ、連日の張り切りすぎが祟ったか、疲労と冷えから膀胱炎を起こした。
マウイ島からやってきたガイドさんが言う。
「こっちの人は、膀胱炎はクランベリージュースで治しますよ」
さっそくスーパーマーケットでクランベリージュースを買って飲んでみた。口中の粘膜が縮み上がるような酸っぱさで当然、無糖。「水で割るのよ」と笑われた。
しかし夜になってから頻尿と痛みに加え、出血が始まった。
青くなっている私に、ガイドさんが告げた。
「救急車呼びましょうか。一回10万円ですけど」
旅行者だから、ではない。救急車は有料なのだ。そして公的医療保険がない。虫歯でも医者に行けば多額の出費となり、貧困層は治療を諦めざるをえない。アメリカのもう一つの現実で、それを何とかしようとしたのがオバマケアだ。
私の方は幸い旅行保険をかけてきたが、一回10万円で救急車に乗るのはさすがに抵抗がある。

そのとき同行してくれた担当編集者が自分用の薬を分けてくれた。地獄で仏。それで翌朝には出血は止まり、救急車は免れ、無事に帰国することができた。
常備薬は持っていたが、膀胱炎は想定外だった。
仕事の出張にせよ、観光旅行にせよ、現地で病気になりたくなかったら無理なスケジュールと無茶な行動は禁物。
海外に行くときは必ず保険をかける。
御守りは、神社のお札ではなく救急お薬セットを。
プロフィール
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篠田 節子 (しのだ・せつこ)
1955年東京都生まれ。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、09年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞、19年『鏡の背面』で吉川英治文学賞、2020年紫綬褒章を受章した。他の著書に、『夏の災厄』『弥勒』『ブラックボックス』『長女たち』『失われた岬』『セカンドチャンス』『四つの白昼夢』『ロブスター』など多数。
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マリオ・バルガス=リョサ 訳/柳原孝敦
ノーベル賞作家でありラテンアメリカ文学を牽引した巨匠による、喜劇と悲劇、そして音楽と本と祖国への愛に満ちた人間賛歌。