『フェスタ』連載スタート記念 馳星周 × 蛯名正義スペシャル対談「凱旋門賞 ~ホースマンたちを魅了し続ける夢舞台~」

世界最高峰のレースと呼ばれるフランス・凱旋門賞。
日本競馬界の悲願に挑むホースマンたちの生きざまを描く、
馳星周の新たな競馬小説『フェスタ』がついに開幕!
連載開始に先立っておこなわれた対談で、
騎手時代に二度の凱旋門賞2着を果たした蛯名正義を馳星周が徹底取材!?
聞き手・構成/平松さとし 撮影/露木聡子
凱旋門賞への挑戦
――本日は「小説すばる」で新しい競馬小説の連載をスタートされる馳星周さんと、昨年騎手を引退され、このたび調教師として厩舎を開業された蛯名正義さんにお越しいただきました。
馳 よろしくお願いします。次の作品は凱旋門賞をテーマにした小説なんです。実際に凱旋門賞で騎乗された蛯名さんとはぜひお話ししてみたいと思っていました。
蛯名 こちらこそよろしくお願いします。馳さんが競馬好きというお話は伺っています。
馳 はい。特にステイゴールドの大ファンでして、『黄金旅程』というステイゴールドをモデルにした馬が登場する小説も書きました。競馬ではその血統の馬券ばかりを買っています(笑)。
蛯名 僕はステイゴールドの産駒(子ども)のナカヤマフェスタで凱旋門賞に挑んだことがあります。ナカヤマフェスタも父親のステイゴールドに似て、とても扱いが難しい馬でした。
馳 実は、今回の作品はそのナカヤマフェスタの産駒で凱旋門賞を勝ちたいと願うホースマンたちの物語になる予定なんです。今日は蛯名さんから凱旋門賞の裏話をいろいろとお聞かせいただきたいと思っています。
蛯名 そうなんですね。どうぞ何でも聞いてください。
馳 蛯名さんの凱旋門賞挑戦は、ナカヤマフェスタより前のエルコンドルパサーが初めてだったと思いますが、まずはそのお話から伺えますか。
――エルコンドルパサーは一九九九年に騎手時代の蛯名さんが騎乗して凱旋門賞で2着となった名馬ですね。
馳 エルコンドルパサーは凱旋門賞の前哨戦を含め、フランスで4戦しましたよね。長期にわたって現地に滞在したと伺ったのですが、蛯名さんはその間、日本とフランスを行ったり来たりされていたのですか。
蛯名 ええ。馬は半年間ずっとフランスにいたのですが、僕はあくまで日本での騎乗がベースでしたから何往復もしました。
馳 エルコンドルパサーのレースに合わせて現地へ向かうのでしょうか。
蛯名 レースはもちろんですが、調教で乗るためだけに行くこともありました。日本でレースが終わったらフランスへ渡って、調教だけ乗ってすぐに帰国。それから日本でレースに乗ってすぐまたフランスへ行き、今度は調教とレースに乗ってまた帰国。そんな生活を続けていました。
馳 それは大変ですね。
蛯名 エルコンドルパサーなら凱旋門賞でも好勝負ができると信じてやっていましたから、僕自身はつらくはなかったです。現地で半年間ずっと馬と一緒に生活していたスタッフはいろいろと苦労をしたみたいですけどね。
――言葉は通じないし、食生活も違いますからね。
蛯名 ええ。フランスと言っても滞在していたシャンティイという町はかなり田舎なので、おいしい日本食店もないし、下手したら英語も通じないケースさえあります。そこで半年間過ごして、エルコンドルパサーを怪我させないように調教してレースに向けて仕上げなくてはいけない。少しずつ慣れてはいったかもしれないけれど、スタッフのプレッシャーは相当だったと思います。
馳 海外挑戦の事例が多くなった現在ならノウハウも蓄積されているかと思います。でも、当時は情報も少ない時代ですよね。そういう意味でも苦労が多かったのではないでしょうか。
蛯名 そうですね。できる限り日本と同じ環境を作るのが良いと考えて、馬に与えるための水や食べ物を日本から大量に持って行くなどして万全を期していました。ただ、そうすると検疫が大変なんです。だから、向こうで同じクオリティのものが手に入るとわかってからは、現地で調達するようになりました。
馳 蛯名さんも凱旋門賞はこのときが初めてだったわけですよね。心構えや手応えはどうだったのでしょうか。
蛯名 最初にフランスの調教場で乗ったときは馬場に脚をとられて日本でのように上手く走れませんでした。ハロン棒(ゴールから1ハロン=約200メートルごとに立てられた標識)すらないただの草原のような場所での調教ですし、施設についてもわからないことだらけで手探りの状態でした。当然、レースも半信半疑だったわけですが、凱旋門賞前の初戦でいきなり2着と好走できました。エルコンドルパサーは約半年ぶりの実戦にもかかわらずそれだけやれたので、ここで初めて手応えを感じましたね。
馳 では、凱旋門賞でも良い勝負ができると考えていたわけですね。
蛯名 出走メンバーは一段と強くなるし、簡単に勝てないことはわかっていました。ただ、大変なのは間違いないけれど、好勝負にはなると思っていましたね。
馳 しかし、最後の最後で差されての2着。相当悔しかったのではないですか。
蛯名 勝利がすぐそこまで見えていましたからね。最後の直線は「もう少し手前にゴールが来てくれないかな」という気持ちで追っていました(笑)。

世界最高峰の舞台へ再び
――それから十一年の時を経た二〇一〇年。いよいよ今回の馳さんの小説に関わるナカヤマフェスタで再び凱旋門賞に挑むことになります。蛯名さんの当時の心境はいかがでしたか。
蛯名 騎乗させてもらえることが決まったときは、ああ、またあの舞台に戻れるんだな、とすごく嬉しかったのを覚えていますね。
馳 ナカヤマフェスタはエルコンドルパサーに比べると、ずいぶん扱いが難しい馬だったと聞いています。
蛯名 なんて言ったって、あのステイゴールドの子ですからね(笑)。人間の言うことを聞かず、ランドセルを放り投げてすぐに遊びに行っちゃう子どものようなタイプでしたから。
馳 そんな日本にいても難しい馬が、突然海外へ連れて行かれるとどうなってしまうんですか。
蛯名 実はこれがちょっと意外でして。ナカヤマフェスタにとっては初めて訪れる場所なので、どこへ行けば帰れるのかもわからないから、嫌々ながらも大人しくしていたんです。日本で見せていたような扱いづらさもあまりなく、調教も普通にできていましたね。
馳 慣れない環境というのが逆に良かったんですかね。ステイゴールド自身もそうでしたが、ステイゴールド産駒って、海外に行くと日本で見せたことのないようなすごい走りをするじゃないですか。環境が変わると、悪さをするタイミングもなくなっちゃうみたいなことなんですかね。
蛯名 馬の防衛本能なんだと思います。草原に放たれた馬がライオンに襲われないようにいつも緊張感を持っていないといけないというのと同じで、新しい環境に置かれると集中していなければならないという意識が働く。特にその本能に長けているのがステイゴールドの血統の特徴なのかもしれません。
馳 それはおもしろい話ですね。スタッフのみなさんはエルコンドルパサーで挑戦されたときよりも現地の環境に対応できていたんですか。
蛯名 ええ。引き受け先の厩舎も同じで、競馬場内でもどこに何があるかというのがわかっていましたので。そういう意味では初めて挑戦したときと精神的にはかなり違ったと思います。結果は2着でしたが、日本ではGⅠ勝ちが一つだったナカヤマフェスタが好走したことで、日本の競馬界が凱旋門賞に積極的にチャレンジするようになる一つのきっかけを作れたんじゃないかと思います。
――翌二〇一一年には再びナカヤマフェスタで凱旋門賞に挑むことになります。
蛯名 ナカヤマフェスタは頭の良い馬でしたから、二年目の挑戦のときはもう環境に慣れてしまっていました。調教場の出入り口がどこにあるかも完全に覚えていて、調教中にいきなり帰ろうとするんです。反抗して動かなくなることもあったし、どこかへ行ったまま戻ってこないこともあった。乗り手を振り落とすこともあって、実際、僕も落とされました。
馳 本当に頭が良いんですね。蛯名さんはもちろんですが、その調子だとスタッフの苦労も並大抵じゃないですよね。
蛯名 調教するコースを毎回変えるなど工夫はしていたのですが、二年目にはもう行き尽くした感もあって、ますます調教ができなくなりました。だから、仕上げるのも難しくて、結果は11着と大敗でした。
馳 そんなナカヤマフェスタも引退して年齢を重ねた今ではずいぶん穏やかになったと聞きましたが。
蛯名 僕もそう聞いて牧場へ見に行ったことがあるんですが、いきなり立ち上がっていましたね。騎手時代の僕を覚えていて、鞭で叩かれると思ったのかもしれません(苦笑)。

まだ見ぬ勝利を夢見て
馳 いまだ日本馬が勝つことができていない凱旋門賞ですが、レースの舞台となるパリロンシャン競馬場の馬場は日本とはずいぶん異なると言われています。実際はどうなのでしょうか。
蛯名 明らかに日本の馬場とは違いますね。脚が埋まっちゃうというか、スタミナが奪われていくというか。とにかく重くて軽快には走れないという感じです。
馳 それだけに蛯名さんが騎乗されたエルコンドルパサーにしてもナカヤマフェスタにしても接戦の2着というのは価値があるし、他にもナカヤマフェスタと同じくステイゴールド産駒のオルフェーヴルが二〇一二年、二〇一三年と二年連続で2着になっている。これだけステイゴールド産駒が結果を出しているのには何か理由があるのでしょうか。
蛯名 彼らの持つ馬場適性もあるとは思いますけど、エルコンドルパサーにしてもオルフェーヴルにしてもそもそもの能力が高かったというのは大きいですね。ナカヤマフェスタは気性の問題もあって安定して走れる馬ではなかったですが、自分の力を発揮したときにはすごい走りを見せた。やはり絶対的なポテンシャルの高さが重要になるのは間違いないでしょうね。
馳 なるほど。日本の競馬では一流になれなくても、とにかく道悪(状態の悪い馬場)だけはすごく得意というような馬で挑戦したらどういう結果になるのかな、という考えを素人なりに持っていたんです。そのあたりのお話も小説の参考にさせてもらいます。
蛯名 あとは金銭面でのハードルもありますね。そこを馬主さんに理解してもらわなければいけない。
馳 お金はかかりますよね。だけど、大枚をはたいてでも挑戦したくなるような夢が凱旋門賞にはあるわけですね。蛯名さんは調教師という立場になられたわけですが、やはり海外にも挑戦したいという思いはありますか。
蛯名 もちろんありますね。いつかはあの舞台に戻りたいと考えています。
小説を通して広がる競馬の魅力
――さて、競馬の話でおおいに盛り上がりましたが、小説のことも少し伺わせてください。今回、馳さんは凱旋門賞をテーマに小説を書かれるというお話でしたが、競馬を題材にした作品としてはすでに『黄金旅程』を出版されています。
馳 タイトルの「黄金旅程」というのはかつてステイゴールドが香港へ遠征したときの現地での馬名なんです。
蛯名 はい。ピンと来ました。
馳 これが何ともかっこよくてタイトルにしたのですが、当時から見ている競馬ファンもやはり覚えていて、タイトルに反応して買ってくださった方もいるようです。
――逆に、馳さんの小説のファンのなかには、競馬には全然興味がなかったけれど、この作品を読んでその魅力を知ったという方も多くいらっしゃるようですね。
蛯名 競馬ファンの拡大にご協力いただきありがとうございます(笑)。
馳 いえいえ、むしろ普段は小説を読まないという競馬ファンの方々から『黄金旅程』で初めて僕の小説を読んだという声もいただけて嬉しかったです。蛯名さんは小説をお読みになることはあるのでしょうか。
蛯名 正直、騎手時代はあまり読みませんでした。もともと勉強が嫌いだったし、机にじっと座っているのも苦手で、それこそランドセルを放り投げてすぐに遊びに行ってしまうステイゴールドみたいなタイプだったので(笑)。それに僕の場合、レースで騎乗するときは可能な限り裸眼で乗りたかったので、小さい活字を読んで視力が落ちるのが怖かったということもあります。騎手のなかには読書好きな人もいますけどね。
馳 調教師になられてからはいかがですか。
蛯名 騎手時代に比べて電車での移動が増えました。トレーニングも騎手のときみたいにハードにすることはなくなったので時間の使い方がずいぶん変わりました。読書をする時間も取れるようになったので、馳さんの新連載もぜひ読ませていただきます。
馳 ありがとうございます。今回はナカヤマフェスタ産駒の話を書くと言いましたけど、他にも地方競馬の厩務員さんを主人公にした物語なんかも書いてみたいんです。
蛯名 良いですね。有名な騎手や調教師だと何かと光が当たることがあるけれど、馬が走るのは厩舎のスタッフがいてこそですからね。そういう人たちを小説で取り上げていただいて、競馬の奥深さをたくさんの人たちに広めていただきたいですね。
馳 ええ。目標は馬事文化賞ですから。
蛯名 馬事文化賞ですか?
馳 そうです。直木賞よりも馬事文化賞のほうが嬉しい(笑)。何年か前に知人の作家が馬事文化賞を受賞したのですが、そのおかげで競馬場の来賓席に入れるようになったと聞いて、俄然欲しくなりました。
――(一同爆笑)。
蛯名 本当に競馬がお好きなんですね。コロナが収束したらぜひうちの厩舎にもいらしてください。実際に見てみると、またいろいろな発見があって小説に生かしてもらえることもあるかもしれません。
馳 ぜひ伺いたいです。これからは蛯名厩舎の馬も応援します。僕の大好きなステイゴールド一族の馬もぜひ入れてくださいね(笑)。
蛯名 ありがとうございます。探しておきます(笑)。
「小説すばる」2022年7月号転載
プロフィール
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馳 星周 (はせ・せいしゅう)
1965年北海道生まれ。横浜市立大学卒業。96年『不夜城』でデビュー。翌年に同作で第18回吉川英治文学新人賞を受賞。98年『鎮魂歌 不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年『漂流街』で第1回大藪春彦賞、2020年『少年と犬』で第163回直木賞を受賞。他の著者に『約束の地で』『雪炎』『ソウルメイト』『神奈備』『雨降る森の犬』など多数。
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