今となってはどこの誰だったかも思い出せないが、ある時ある人が「これからはAIの時代だから、人間ができるのは変なことをすることくらいだよ」と言った。私はこの言葉に感銘を受け、その通りだなと思ったが、変なことをやるって難しい。

 私は写真家なので、自分が面白いと思うことをやろうとしているけれど、写真の知識が増すごとに発想がつまらなくなっていくことに気付く。文章一つ書くにしても、内面化された大衆の目を気にして、本音を抑えてしまう。気が付くと自ら型にハマり、人生を窮屈にしてしまうのだから、人間には平均であろうとする本能でもあるのだろう。

 そんな時、こんなのありなのか! と思わせてくれるのが、太宰治の「トカトントン」だ。『ヴィヨンの妻』に収録された短編小説の一つである。と言うと、まるで太宰の愛読者みたいだが、私は太宰にはまったく興味がなくて、この「トカトントン」だけが好きなのだ。

『ヴィヨンの妻』
太宰治/著(新潮文庫)

 物語は、某作家のもとに届いた読者からの手紙という形で描かれる。その手紙の送り主である青年は、終戦を伝える玉音放送を聴いた際、近所で釘を打つ音がトカトントンと聞こえたことをきっかけに、何か物事に感激し、奮い立とうとするたびトカトントンと幻聴が聞こえ、全てがしらじらしく感じてしまうという。「教えてください。この音は、なんでしょう」と、青年は切々と訴える。これに対する、某作家の返答が良い。

「拝復。気取った苦悩ですね」

 この一言の破壊力よ。小説だから、手紙の送り主も、某作家も、太宰の想像物だ。自分で書いて自分で答えていると思うと、私ももっとヤバいこと考えないとなと思うのだ。

 もっとも、私は小説はほとんど読まず、もっぱらノンフィクションだ。栗原康さんの『村に火をつけ、白痴になれ』を読んだ時は、こんなのありなのか! と驚いた。

『村に火をつけ、白痴になれ』
栗原康/著(岩波現代文庫)

 

 アナキスト伊藤野枝の評伝だが、野枝より栗原さんのインパクトのほうが凄い。特に、あとがき。疾走感ある文体で、自分の恋愛事情を綴っている。あとがきだと思って読んだ私は、ワンパン食らわせられた気分だ。そうか、これで良かったのか。なぜか自由を一つ手に入れた気分になる。

 私も、もっと解放されたい。