
恥ずかしい時、悔しい時、モヤモヤする時……思わずネガティブな気持ちになったときこそ、読書で心をやすらげてみませんか? あの人・この人に聞いてみた、落ち込んだ時のためのブックガイド・エッセイです。
第5回:マッチョな上司の圧がつらい時
案内人 西口想さん
2022年01月15日
最初の就職先でマッチョな上司の圧がつらかった時、読み返して励まされたのは労働問題についての本ではなく、『書きあぐねている人のための小説入門』だった。

保坂和志/著 (中公文庫)
人間の思考というのは、どうしても直接の経験を拠りどころにしているため、それを乗り越えられないという欠点というか限界がある。
私たちは、“私”“人間”“世界”というものを誰も見たことがない。
人間が人間として心の底から知りたいと思うことは、すべて外から見ることができない、つまりその外に自分が立って論じることができない。それを知ることが哲学の出発点であり、これは小説もまた完全に同じなのだ。
私の「つらさ」の半分くらいは、目の前の人間関係とプレッシャーに自分が完全に囚われてしまっていること、心が死んでいくのが分かりながらそこから抜け出せない体の重さ、開かれた存在としての「私」が失われる感覚だったと思う。そんな時期に本書のⅡ章を読み、目の前のひどい上司や仕事にすべての気力を奪われているのは、それが私の経験しているものだからであり、私のダメさや貧しさゆえではないのだと知った。
私は私の生の外側に立つことはできない。一見救いがない言葉のようだが、つらい自分もたしかに自分であると肯定された気がした。すると、次の行動のための力が少しずつ出てきた。小説を書くつもりのない人にこそ薦めたい。
あなたの直面している「圧」は、令和の現在では裁かれるべきハラスメントかもしれない。まずはスマホでの録音やメール・LINEなどの記録をとっておくと役に立つ。もしのちに証拠として使う際も、無断で記録しておいて問題ない。
そして「おかしなことに声をあげる」というイメージがつかめない時は、『彼女の名前は』を読むとよいと思う。

チョ・ナムジュ/著 小山内園子、すんみ/訳 (筑摩書房)
日本ではいまだに、声をあげる個人や集団が物語上でステレオタイプに表象され、どこか冷笑的に、匿名化され他者化されている。
だが、現実に目の前の理不尽に声をあげているのは、誰かの母親だったり、隣に住むおばあちゃんだったり、あるいはもう後輩を同じ目に遭わせたくないと決心したあなたのような人だったりする。『82年生まれ、キム・ジヨン』の著者が書いたこの短編集では、声をあげる人びとにも多様な物語があり、表情があり、名前があることを実感できる。
プロフィール
-
西口 想 (にしぐち・そう)
1984年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社勤務を経て、現在は労働団体職員として勤務する。著書に『なぜオフィスでラブなのか』(堀之内出版)がある。
新着コンテンツ
-
インタビュー・対談2025年08月18日インタビュー・対談2025年08月18日
篠田節子×高橋明也「自分が立てたコンセプトに押し潰されず、歳を取るに従って自由度が増していく」
篠田節子さんと長きにわたる親交があり、美術史家で東京都美術館館長の高橋明也さんをお招きし、最新作についてたっぷり語っていただきました。
-
お知らせ2025年08月16日お知らせ2025年08月16日
小説すばる9月号、好評発売中です!
待望の新連載は、京極夏彦さんと月村了衛さんの二本立て! 篠田節子さん、渡辺優さんの新刊刊行記念対談も必読!
-
インタビュー・対談2025年08月16日インタビュー・対談2025年08月16日
渡辺 優×齋藤明里(女優/読書系YouTube「ほんタメ」MC)「世の中は恋愛至上主義なのか?」
渡辺優さんの作品を愛読している読書系YouTube「ほんタメ」MCの女優・齋藤明里さんと、最新作について語っていただきました。
-
連載2025年08月15日連載2025年08月15日
【ネガティブ読書案内】
第45回 川上和人さん
無人島でピンチに陥った時
-
インタビュー・対談2025年08月06日インタビュー・対談2025年08月06日
桜木紫乃×大竹まこと「情熱と分別の先にある、男と女のいい関係」
常に桜木さんの創作意欲を刺激する大竹まことさんと、創作について、また人生の後半に入った男女の幸福について語っていただいた。
-
お知らせ2025年08月06日お知らせ2025年08月06日
すばる9月号、好評発売中です!
注目は古川真人さん、石沢麻衣さん、上田岳弘さんの新作小説3本。桜木紫乃さん×大竹まことさんの対談も見逃せません。