久しぶりにジーンズを買った。入らなかった。

 悲しい自由律俳句みたいな書き出しになったが、つい先日そんなことがあった。

 GAPの広告に推しが出ているので、選択肢の中で一番上のサイズを通販で買ってみたが、ファスナーが上がらない。おかしいな。記憶にある腹囲なら、いけそうだったのに。腹囲が、氷河みたいに拡大している。

 服が入らないとき、文字通り「規格外」とされる感覚がある。「おめーの席ねぇから」じゃないけれど、この世にいる資格がないようにさえ思える。我が身をえうなきものに思わせてくる、内面化したファットフォビアにルッキズム。ついでにエイジズムも参戦してきて、私の内面はもうぼろぼろだ。

 悩ましい。だけど! 悩みたくない。健康的にはともかく、内面化したアレコレは虚像だ。仮にも今、特に大きな問題なく動いていて、どこまでも歩いていけるマイボディ。それを体脂肪の増減だけでしか見られないだなんてもったいない。

 とはいえショックはショックで、部屋の片隅の読書ソファに逃げこんだ。手に取ったのは、『夜明けまえ、山の影で エベレストに挑んだシスターフッドの物語』(シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド著、多賀谷正子訳/双葉社)。

『夜明けまえ、山の影で』書影
『夜明けまえ、山の影で エベレストに挑んだシスターフッドの物語』シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド /著 多賀谷正子/訳(双葉社)

 本書は、性暴力のサバイバーであり、オープンリーレズビアンであるペルー人女性登山家が、同じく性暴力のサバイバーである女性たちと共にエベレスト山頂を目指した回想録。登頂への道と、過去の記憶が交互に語られる。幼少期の性暴力、父の支配、母への複雑な思慕、アルコールやセックス依存症、恋人の自死——。今も膿んで血を流しているような生傷、ぼろぼろの心身を、彼女は丸ごと山頂へと運ぶ。山の影を歩き、奈落のようなクレバスに梯子を渡して前に進み、彼女が登ったのは、自分自身の山だ。

 もう一冊、能楽師の安田登先生の『日本人の身体』(ちくま新書)を読み始めた。古い日本語では「からだ」という言葉は死体という意味だった。生きている身体は「身(み)」と呼ばれ、心と魂と一体のもの。自分自身と身体は、本来切り離したり、誰かに委ねたりできない。

『日本人の身体』書影
『日本人の身体』安田登/
著(ちくま新書)

 自分のからだを単に「肉体」として切り離すとき、ジーンズが入るようにと自分に鞭打ち、運動や食事制限をさせて、管理可能なモノのような扱いをしてしまう。エベレストも、自分の身体も、征服するものではない。仮にも数十年生き抜いてきた自分の身体。サイズばかり気にしていないで、歩いてきた道と自分に思いを馳せて良いはずだ。心の赴くまま、面白がって歩き回ろう。楽しくやっているうちに、このジーンズも私にフィットするかもしれない。この原稿を書いている今は、まだその時は来ていないが……。くすん。