日ごろ日本食食べたさのあまり、せっせと納豆や梅干し代わりの杏干しを作っている私ではあるが、ポルトガルに住んでいるからには当然ポルトガル料理も食べる。それも喜んで。

 日本ではほぼ知られていないポルトガル料理だが、なにが素晴らしいかといえば、なんといっても魚介類が豊富なことだ。

 20年以上住んでいたドイツは肉の国だった。肉類の種類は豊富だが、魚介は残念ながら、沿岸部を除けば「普及していない」とさえ言えるレベルだった。値段も肉に比べてはるかに高く、贅沢品だ。

 そんなドイツで暮らしてきた日本人にとって、ポルトガルはまさに天国だ。さすがは海洋国、私たちが暮らすのは海まで車で1時間以上かかる山奥だというのに、スーパーにはちゃんと鮮魚コーナーがあるではないか。週に一度立つ市にも魚屋が来る。魚の種類は豊富で、値段も手ごろ。おまけにポルトガル人はエビは当然のこと、タコやイカ、貝類、魚の肝、そしてなんと魚卵まで食べるのである。

ポルトガルではタコやイカもよく食される。写真は「ポルヴォ・ア・ラガレイロ(タコのオーブン焼き)」

 ドイツではもともと食べないのでタコとイカの区別がつかない人が多いし、魚を開いて卵があれば捨ててしまう。しかしここポルトガルでは、焼き魚はちゃんと卵つきで出てくる。初めて卵つきの焼き魚が目の前に出てきたときの感激は忘れられない。思わず「うわああっ卵だっ」と日本語で歓喜の声をあげたものだ。そして「……げ、卵」とドイツ語でうなったドイツ人夫の分を無言で奪って食べた。

 

 さて、魚介が豊富なポルトガルで、特別なステータスを誇る魚がある。それがタラだ。ポルトガル語では「バカリャウ」という。

 生のタラではない。ポルトガルでバカリャウといえば、それは塩漬けタラのことだ。50センチはありそうな巨大なタラの開きに、身が見えないほど分厚く塩がまぶしてある。魚屋やスーパーで、雪をかぶったかのような真っ白なタラの開きが山積みになっているさまは壮観だ。鮮魚コーナーにはこのバカリャウを骨ごと切り身サイズに切断するための巨大な機械があり、客は買ったバカリャウを好みの大きさに切ってもらう。

 バカリャウはいたるところで売っている。鮮魚コーナーがない小規模スーパーでも、個人経営の小さな食料品店でも、すでに切り身サイズに切ったバカリャウが売られている。

バカリャウの塩漬けは市場でも大量に売られている

 バカリャウを使った料理は無数にあり、なんでも昔は、1年を通して毎日異なるバカリャウ料理を作れるようになって初めてお嫁に行けると言われたそうだ。代表的なのは、バカリャウと揚げたジャガイモの千切りを卵とじにした「バカリャウ・ア・ブラシュ」、タラとジャガイモのクリームグラタン「バカリャウ・コン・ナータシュ 」あたりだろうか。(どちらにもジャガイモが使われているのは、タラと同様ジャガイモもまたポルトガル人のソウルフードだからだ。)

「バカリャウ・ア・ブラシュ」。レストランで食べ切れず家に持ち帰った

 友人グラシンダのバカリャウグラタンは、ベシャメルソースを使った彼女のオリジナルで、私の大好物だ。あるとき、グラシンダは私たちにこの料理を出してくれたものの、「昨日の残りがあるから」と言って、自分は小鯵のフライを食べていた。

 私がバカリャウを褒めるつもりで「自分で肉派だって言うけど、グラシンダの作る魚料理すごくおいしいよ」と言ったら、「食べて食べて」とフライを勧めてくれた。

「いや、バカリャウのことだけどね……」と、ちゃっかりフライも取りながら私が言うと、

「でもいま魚って」とグラシンダ。

「バカリャウって魚だよね?」

「バカリャウはバカリャウよ」

 少なくともグラシンダにとっては、肉、魚に加えてバカリャウという独自の食材カテゴリーが存在するようだ。バカリャウはそれほど特別なのだ。

 バカリャウを塩漬けにしたのは、かつては保存のためだった。だが現在、ポルトガル人がわざわざ塩漬けを買うのは、うまみが凝縮されているからだろう。近所に住むイギリス人が、冷凍庫のある現代にバカリャウを塩漬けにする意味なんてない、ポルトガル人は時代遅れだ、と笑ったことがあるが、おそらく彼は水分が抜けた魚のうまみを知らなかったのだろうと私は踏んでいる。

 そういうわけで、バカリャウ料理において最も重要かつ難しいのは塩抜きである。料理の腕はバカリャウの塩抜き加減でわかると言われるほどだ。実際、レストランでも運が悪いと食べられないくらい塩辛いバカリャウが出てくることがある。

 一般的には、水を張った鍋などにバカリャウの切り身を漬けて、途中で水を替えながら2日間置くそうだが、家でやってみてもどうもうまく塩が抜けない。一方グラシンダは昼間は仕事に出ているため、そんなに頻繁に水を替えられないというのに、彼女のバカリャウの塩加減はちょうどいい。おまけに塩抜きには1日か1日半しか必要ないという。根ほり葉ほり尋ねても、皮を上にすること以外特にコツもないそうだ。

 悩む私を見かねて、ある日夫が「バカリャウ塩抜き器」を作ってくれた。材料工学の研究者であることが関係あるのかないのか、こういう器械を考案するのが得意なのだ。特にバカリャウ好きでもないので、きっと器械を考案すること自体が楽しいのだろう。

 器械といっても大層なものではなく、仕組みは簡単。やはり夫自作の庭の灌漑システムを利用して、我が家の豊富な湧水をホースに誘導し、それをバケツに注ぎ入れるだけだ。バケツには水の出口として穴を開けておく。こうすればバケツのなかの水はいわば源泉かけ流しとなり、ここにバカリャウを浸せば、溜めた水に浸けておくよりよく塩が抜けるだろうという理屈だ。

 こうして我が家のバカリャウの切り身たちは、2日2晩流れる水のなかを泳ぐことになった。

夫自作のバカリャウ塩抜き器

 おまけに夫は「身はこうついていて、骨はこうなんだから、XX法則からして水は……」などとなにやら計算まで始めた。これが始まると私の脳は自動的にスリープ状態になるので途中経過は不明ながら、そのうち「よしっ切り身はこちら向きに入れるんだ」と結論が出た(ここで再び脳が起動する)。物理法則を味方につけたからには塩抜きの成功は約束されたも同然であった。

 ところが、3日目に満を持して作ったバカリャウのオーブン焼きはいまだに塩味が強すぎたのである。理由はわからない。失望のあまり私たちはその後一度もこの塩抜き器を使っていない。

 いままで食べたなかで最高のバカリャウは、S村のアントニオが作ってくれたものだ。妻だったグラシンダが出ていってからまもなく、独りになって寂しかったのか、「バカリャウを食べにこい」と誘ってくれた。行ってみると、キッチンのシンクに水が張られていて、なかにバカリャウが、使い終わった食器か何かのように無造作にぽんと置いてあった。夫作の塩抜き器の対極をなす、いかにもやる気のなさそうな塩抜きだ。これはしょっぱいぞ、と覚悟したが、皮をむいてぶつ切りにしたジャガイモと、殻付きの卵まるごとと一緒に大鍋に突っ込んでぐつぐつ茹でて、最後に自前のオリーブオイルを皿の上に池ができるほどどばどばとかけて食べたバカリャウは、身がふっくらぷりぷりしていて、塩加減もほどよく、とんでもないおいしさだった。

 あれ以上においしいバカリャウにはいまだに出会っていない。

 魚介が多いこと以外にも、ポルトガル料理には日本の家庭料理との共通点が割とあるような気がする。

 たとえば、ポルトガル人はよく米を食べる。タコやアンコウのリゾットや、カモの炊き込みご飯など、「ポルトガル料理」として有名な米料理も多いが、地味に嬉しいのは、肉や魚の付け合わせとして米が出てくることだ。ヨーロッパでは付け合わせの炭水化物といえばジャガイモと決まっていると思っていたが、ポルトガルでは特に魚料理には米が添えられることが多い。それも、豆や菜の花を炊きこんであったり、トマトやパプリカのリゾットだったりと、それだけですでに一品料理として食べられそうなおいしさである。最寄りの小さな町の定食屋では、魚料理にはだいたいニンジンの炊き込みご飯がついてくる。私がその店に行くときは、たいてい魚そのものより、むしろそのご飯が目当てである。

魚料理には米を合わせることが多い。写真はなんとサクランボのリゾット。タコのオーブン焼きの付け合わせ

 すべての基本となるのがニンニクとオリーブオイルという和食とはかけ離れた食材であることを考えると不思議なのだが、日本の家庭料理と味の似た料理もある。

 その最たるものが、私が密かに「赤い肉じゃが」と呼んでいる「ジャルディネイラ」だ。ジャガイモと牛肉(または豚肉や鶏肉)、タマネギ、ニンジン、グリーンピースなどを煮込んだ料理で、ニンニクもオリーブオイルも当然使われているし、トマトやパプリカも入っているのでスープは赤い。にもかかわらず、調味料が主張しすぎない調和の取れた優しい味はまさに肉じゃがなのである。

「赤い肉じゃが」ジャルディネイラ

 ほかにも、葉物野菜が多いところも日本を思い出させる。春にはカブの葉や菜の花を食べられるのが嬉しい。茹でたり、炒めたり、スープに入れたり、炊き込みご飯の具にしたりと大活躍だ。

葉物野菜も多い。市場で近隣農家のおばさんから買った菜の花

 カブの葉といえば、日独葡で売り方に違いがあって面白い。ドイツでは葉は捨ててしまう部位だ。いわゆる「意識の高い」オーガニックの市場でさえ、葉つきのカブを買った後、店の人が親切で葉をちぎって捨てようとするのを慌てて止めることが何度もあった。

「葉なんかどうするの?」と訊かれて「食べる」と答えたら、あきれ顔で「人間はウサギじゃないよ」と言われたこともある。

 日本ではカブは葉つきで売っている。

 そしてポルトガルでは、なんと葉は別売りという商魂たくましさである。カブ本体と葉は最初から切り離して、別々に売られているのだ。しかもカブよりも葉のほうが値段が高い。

 逆に日本とポルトガルの大きな違いは、一人前の天文学的な量である。

 個人的好みで魚のことばかり書いてきたが、ポルトガル料理には当然肉もある。私たちが暮らしているのは山奥なので、村人はほぼ全員が魚より肉派だ。鶏や豚、牛のみならず、飼っているヤギやウサギも食べる。冬の狩猟期には日頃畑を荒らす憎き猪を捕らえて、やはり食べる。

 ポルトガルの肉料理には、ニンニク、パプリカペースト、ワインなどでしっかり下味がついている。初めて地元のヤギ肉のオーブン焼き「シャンファナ」が出てきたときには、その黒っぽい見た目にひるんだものだが、下味のおかげか臭みはまったくなかった。いまではヤギ肉料理は好物だ。

 しかし量が半端でない。昔の村では、皆がヤギ、豚、鶏を飼っていたにもかかわらず、肉はもちろん卵さえ現金や別の物に換えるための売り物であって、普段の生活では口に入らなかったという。肉を食べるのは年に2度、クリスマスと村祭りのときのみだった。鶏肉と卵も、食べられるのは病人と妊婦だけだった。だからこそ、田舎ではたくさん食べることが豊かさの象徴であり、「よい食事」とは「大量の食事」のことなのだ。

 ポルトガルに限らずヨーロッパではどこも食事の量は多いが、近年、都会ではそうでもない。ドイツから来た私たちがポルトガルの食事の量に驚くのは、引っ越し先が田舎だからなのか、それともポルトガルという国全体に、どこか時代をさかのぼったようなところがあるからなのか。

 さて、我が家では食い意地が張っているのは日本人である私のほうで、ドイツ人である夫は気に入ったものなら毎日同じで平気だ。要するに食に執着がないのだ。

 外食が好きなのも私のほうだ。まだベルリンに暮らしていて、ポルトガルの家が別荘だったころには、限られた時間でドイツでは食べられないもの(特に魚介)をいろいろ食べなくては! と、私はそれこそ血眼であった。(ドイツ在住の日本人ならわかってくれるだろう。)市場で魚介を買うのもレストランに行くのも真剣勝負である。

 一方の夫は、やはり限られた時間で庭の自動灌漑システムを構築しなくてはと、こちらも血眼だった。

「今日は○○にあるレストランに行ってみよう」と、庭で穴を掘っている夫に提案したら、

「そんなことより俺にはもっと大事な仕事があるんだ!」と土まみれの顔で返され、喧嘩になったこともある。どちらも必死だった。

 夫がそんなふうなので、料理をするのは必然的に〇〇が食べたいという欲がある私となる。夫は後片付け担当だ。

 そんな夫が唯一熱心に作るのがケーキである。好みは酸味のある果物を使った伝統的なドイツのケーキだ。

 夫の焼くケーキとは正反対に、ポルトガルの菓子は甘い。カステラなどポルトガル由来の日本の菓子からもわかるように、こちらでは菓子といえばカスタードクリームなど卵をたっぷり使ったものが主流だ。砂糖もおしみなく使う。グラシンダが村の夏祭りのためにケーキを作る際、1キロの砂糖袋をどばっと全部ボウルにあけたのを見て、思わず「ひいいっ」と声が出たこともある。

ポルトガルのスイーツとして有名なエッグタルトはどのパン屋にもカフェにもある

 肉と同様、かつての村では砂糖は高級品で、甘いものは滅多に食べられなかった。ただ妊婦だけは好きなだけ菓子を食べてよかったそうで、グラシンダによれば、昔は皆が子沢山だったのはそのおかげだということだ。村の年配の人々は、気が遠くなるほど甘いケーキを焼くことで、甘いものを好きに食べられなかったかつての恨みを晴らしているのだろう。

 とはいえ、バナナを生地に練り込んで砂糖を極限まで減らした夫のヘーゼルナッツケーキは、グラシンダと子供たちはもちろん、基本的には見知らぬものを食べないグラシンダのお母さんアセニョーラにまで大好評で、グラシンダは夫に熱心にレシピを訊いていた。その後、彼女の作るケーキやプリンは甘さが控えめになってきたような気がしないでもない。

 逆に夫の焼くドイツのケーキにも、ポルトガル菓子の影響が及びそうだ。ベルリンにいたころは、季節になると友人や親族から「今年はいつ焼くの?」と催促の電話があるほど人気だった、夫オリジナルのルバーブケーキ。ポルトガルの山奥ではルバーブが手に入らないのだが、ケーキ食べたさに、夫はドイツから持ち帰ったルバーブを庭に植えた。 

 育ちつつあるルバーブを見ながら、来年には食べられるかもしれないケーキに思いを馳せていたら、ふと、あの酸味の強いケーキには、生クリームよりも、ポルトガルの菓子に多用されるカスタードクリームが合うのではないかと思いついた。思いついたらもうそれ以外の組み合わせは考えられない。

 料理っていうのはこうやって異国の要素を互いに取り入れながら発展していくんだなあ――レストランで食べ切れずに持ち帰った茹でバカリャウに醤油を垂らしながら、そんなことを考える。

 しかし、グラシンダが出してくれる料理の量が減る気配だけは、いまだにない。

 

(つづく)