エッセイ

嘘を渇望する人々

香月夕花

 どんな人の人生も可能性に満ちている――そんなから約束をあてにしなくなったのは、いつのことだったろう。
 当人の資質だとか、育つ環境だとか、生きる上でとても大切なのに生まれたときに決まってしまう動かしがたいもので、誰もががんじがらめだ。賢い人そうでない人、丈夫な人弱い人、陽気な人静かな人、背が高かったり低かったり、足が速かったり遅かったり。心も身体も、無数のバリエーションで人は生まれてくる。
 とはいえ、訳も分からず放り込まれたこの世界は、「かくあるべし」の規範にあふれて窮屈だ。はみ出したりこぼれ落ちたりしながら、それでも人は懸命に生きようとする。
 不利でも大変でも諦めずに闘え、みんなそうしているのだから。そんな声が見物席から降ってくる。でもそれは決して簡単なことじゃない。他人が背負った荷の重さを、人はわざわざ推し量ろうとしないものだ。だから潰れてしまった誰かのことを、自己責任だ、と恐ろしく軽い言葉ではやし立てたりもする。

 仮にあなたが、自分の身体より大きなリュックサックを背負って、ぺしゃんこにされる恐怖と闘いながら、ひとりで坂道を登っているとして。
 ふらつくあなたのかたわらに、突然、優しそうな誰かが現れ、「私の言うとおりにすれば、その荷物は消える。あなたは別人になって、今日とは全く違う、素晴らしい明日を手にできる」と語りかけたなら。
 あなたはそれを無視できるだろうか。助けて下さい、と飛びつかずにいられるだろうか。その言葉が噓だと分かっていても、なけなしの希望を買うためなら、大金だって払ってしまうかもしれない。
 そんな詐欺まがいの甘い声が、ちまたには溢れている。言うとおりにすれば仕事が手に入る、結婚できる、困難が去る、辛い心が救われる、等々。様々なエサをちらつかせて、彼らは重荷によろめく者達の渇望につけ込み、対価を得ようとする。

 甘い言葉を仕掛ける側は、一体何を考えているのだろう? 彼らの狙いは、本当にお金だけなのだろうか。
 それを知りたくて、信じさせる、、、ことを生業なりわいとする人々に取材を試みた。対象は、名の通った宗教団体の責任者から、一時間数万円で知りたいことをなんでも当ててみせると主張するエキセントリックな業者まで、様々だ。
 意外なことに、彼らに共通していたのは、注目されたい、自分がここにいることを認めて欲しい、という、とても無邪気で切実な欲求だった。
 誰かの気を惹こうとするなら、相手にとって都合の良い噓を語ってみせるのがいい。そうして一度拍手をもらえば、噓をつくことをやめられなくなる。賞賛は甘い水だ。他人を救える自分は決して空っぽではない、という自己価値感は、お金よりももっと人を酔わせるものなのかもしれない。
 信じさせる側もまた、自分を認めて欲しい、という渇望の中にいるのだ。

 『あの光』の主人公・たかおかべには、決して他者を愛することがない美貌の毒母・に心を削られながら、それを自覚することなく生きている。
 汚部屋清掃を得意とする、腕利きの掃除業者だった紅は、ひょんなことから「お掃除で開運して人生を激変させる方法」を教えるセミナー講師に転身する。毒母譲りの美貌とべんぜつで人を惹きつけながら、「お掃除のやり方次第で仕事も恋愛も手に入る」と偽りの希望を吹き込み続ける彼女。人生の行き詰まりに悩む人々の注目を集めて、大きな人気を得た紅が行き着く先は――。

 噓を提供するものにも、噓を欲しがるものにも、それぞれの渇望がある。
 けれども、渇望で繫がった先に、はたして未来はあるのだろうか。

 これは、人生を変えようとしてもがく人々の物語。
 自分には何もない、どうしようもなく無力だ、そう思い込んでしまった人々が、自分だけの光を取り戻すまでの物語だ。噓でごまかす必要などないくらいに、確かな光を。
 本当は、誰の承認も助けも必要ない。一人自分に拠って立つ力を、誰もが持っている。もしもあなたがそのことを忘れているのなら、この本を読んで、是非思い出して欲しい。

「青春と読書」2023年10月号転載