【書評】物語の渦の中に怪物が現れる 
評者:沼野充義

 2005年のバグダードを舞台とした小説。幻想的でグロテスクな要素をはらみながらも、現実の生活を描く細部は驚くほどリアルだ。歴史や宗教的背景に支えられているが、いまを生きる巷(ちまた)の人々の姿が生々しく浮かびあがる。著者は一九七三年、バグダード生まれの気鋭のアラビア語作家である。

 自爆テロや対立する勢力間の戦闘があいついでいた時期のバグダードで、ある古物商が町にごろごろしている死体の様様な身体部位を拾い集め、それをつなぎ合わせて「きっかり一人前の遺体」を作り出す。そこに死者の魂が入り込み、遺体は新たな命を得て、古物商の手を離れて動きだす。フランケンシュタインの怪物の現代バグダード版というわけだ。複数の死体から構成されたこの「名無しさん」は、自分に死をもたらした者たちへの復讐を開始する。町のあちこちで奇怪な殺人事件が起こり、当局も占星術師の力を借りて捜査に乗り出す。

 SFというよりは、現代アラブ社会のほら話と言ったほうがいいだろうか。実際、古物商は、カフェに腰を据え、話術で人々を楽しませる「ほら吹き男」であり、その話をあるジャーナリストが聞き、彼のICレコーダーには他ならぬ「名無しさん」の告白が吹き込まれ、さらにそれらの資料を託された「作家」が書こうとした小説などが絡み合って語りは錯綜し、何が本当なのか分からない物語の渦に読者を巻き込むのだ。ちなみに、よく誤解されることだが、メアリー・シェリーによる元祖フランケンシュタインは怪物を作り出した科学者の名前であって、怪物のことではない。本書の場合も、本当の主人公は死体から作られた怪物ではなく、むしろ、それを生み出した、現代の市井に生きる多種多様な、したたかで、いこじで、悲劇的であると同時に愉快な人々である。彼らの集合的な欲望と絶望と希望が、怪物を作り出したのだ。多種多様な人々の寄せ集めというこの奇妙な存在は、複雑な要素が絡み合ってできたイラクという国そのものの縮図でもあるのかもしれない。

(『青春と読書』2020年11月号より)

【訳者Q&A】
柳谷さん、「イラク小説」って何ですか?
『バグダードのフランケンシュタイン』をもっと愉しむ6つの質問

Q. 本書の魅力、読みどころを教えてください。

柳谷  サッダーム・フサイン政権崩壊直後、爆破テロが頻発する、非常に不安定な時期の「死に侵された」都市バグダードを描いた作品です。爆殺死体の寄せ集めから生まれた「名無しさん」が駆け巡り、理不尽な死の気配が霧のように街全体を覆っていく。強烈な死の存在感と、死から生まれた「名無しさん」にまず惹きつけられました。

この本には、全体的に占星術や予言などオカルトへの傾倒ぶりが色濃く見られるのですが(「予言の書」を読みながら晩酌する人物も出てきます)、実際に(イラクに限らず)中東諸国の書店には結構この手の本が多くて、先行き不安な社会情勢の中でひそかに人気を集めています。世の中の何もかもが不確かでうさん臭さと非情さをまとっている。時代の雰囲気を鮮やかにとらえつつ、2005年のバグダードという街を具体的に、車の車種や酒のメーカーなどの細部まで描いているところも見どころだと思います。

 

Q. 本書は群像劇として、ほら吹きの古物屋ハーディーや悪徳ブローカーのファラジュ、若き雑誌記者マフムードなど、個性的なキャラクターがたくさん登場します。柳谷さんがお気に入りの人物はいますか?

柳谷 お気に入りは、非力ながらも矜持を見せた「ウルーバ・ホテル」オーナーのアブー・アンマールです。一番気になるのは、「運命の女」とも言うべきナワール・ワズィールですね。読み終わってから気づいたのですが、本作で描かれている彼女は実はすべてマフムードというフィルターを通して現れたイメージなんです。だから、もしかしたら何もかもが誤解かもしれない。最後までよくわからない人なんですよ。

 

Q. 怪物「名無しさん」が近況を独白する章がとても印象的でした。寓話的な雰囲気もありますが、現実社会と何かリンクしているのでしょうか。

柳谷 「名無しさん」が崇拝される根底には、新生イラクへの希望とイスラーム的な終末思想という相反する考えが見られます。始まりなのか、終焉に向かっているのかという希望と絶望が入り混じった状況は、外力によって前政権が打倒され、新たな政権が立ち上げられたばかりの当時のイラクの混乱を反映していると思います。

 

Q. ある人物が「自分の血筋が実はアラブ(人)ではなかった!」とショックを受けるシーンがあります。イラクで生きる人々にとって「アラブである」もしくは「アラブではない」ということは、どういう意味合いをもつのでしょうか。

柳谷 (第一次大戦後に寄せ集め的に造られた)イラクという国で、イラク国民としてのアイデンティティはいまだに不安定な状態にあります。それぞれの人にとって、自分が何者かという拠り所は、血縁や信仰や言語による結びつきが大きいです(この本でも、部族社会が力を持っている様子がうかがえます)。その安心感が揺らいだ、しかも無縁だと思っていたマイノリティと繋がっていたと知った驚きは相当なものだっただろうと思います。

 

Q. 柳谷さんいわく本書は「イラク小説」だそうですが、具体的にどういうことですか?

柳谷  本書の登場人物の動向は、2005年のバグダードで実際に起きた事故や出来事ともリンクしていて、当時のバグダードの世相や事物をリアルに感じさせてくれます。また、ばらばらなパーツを寄せ集めた「名無しさん」には、当初、寄せ集め的に建国されたイラクの不安定さと重なる部分があると思いました。登場人物のそれぞれが「名無しさん」に死の恐怖をおぼえたり、激動の歴史の中で失ったものを取り返すきっかけを見出したりする経緯にも、イラク社会の苦難の側面が見出せます。

 

Q.「このことを知っていると、この本はもっと面白くなる!」という豆知識があれば教えてください。 

柳谷  登場人物の設定が面白く、深読みを誘われます。物語を通して登場する老猫に、メソポタミア神話の知恵と書記の神の名(ナーブー)がつけられていますが、猫の名前としてはちょっと珍しいと思います。単なる名前かもしれないし、運命を石板に刻む役割を担うと言われるこの神とどこか重なるのかもしれない。聖ゴルギース(グレゴリウス)の殉教譚など昔の話と現代の事象との取り合わせも巧みで、重層的な読みを展開したくなります。予備知識なしで十分楽しい作品ですが、イラクの歴史や社会に関心を持ちながら読むとさらに面白いと思います。

 

どうもありがとうございました!