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エッセイ

今も昔も不機嫌な青春

壁井ユカコ

 青春小説を書くにあたり、私は「子どもの怒りを忘れない」ことを胸に刻んでいる。その年ごろに抱える生きづらさ、自分を取り巻く家庭や学校、あるいは自分自身に対する苛立ち、怒り、疑問を、「そのくらいのことで」とスルーしたり、「知識がないからだ」「社会を経験すればわかる」と冷笑して済ませるだけではいけないと、どうしてもうっかりすると大人の感覚で軽んじて考えてしまうときもあるので、意識して心がけている。


 とは言いつつあらためて考えると、「子どもの怒り」の正体とはなんだろう?


 十年以上前に上梓した自著『イチゴミルク ビターデイズ』(角川文庫刊)で巻末解説をご寄稿くださった書評家の吉田伸子さんが、『イチゴミルク ビターデイズ』を表して「青春小説は不機嫌小説である」と語られたのが長く頭に残っている(吉田さんご自身は伊藤比呂美さんのエッセイ『伊藤ふきげん製作所』に影響を受けたとのことだ)。吉田さんのこの言葉に着想を得て、今回の新刊を『不機嫌な青春』と題した。


 二〇一〇年代前半に出版各社にお声がけいただき、文芸誌、アンソロジー、当時黎明期だったウェブ文芸と、各種媒体で発表しながら単著に収録されていなかった読み切り三編に加え、新たに一編を書き下ろして、「作家デビュー二十周年記念」(二〇二三年が二十周年だったので正確には一年過ぎてしまった)の短編集として上梓できる運びとなったのが『不機嫌な青春』である。


 実は私自身は近年「機嫌が悪い」ということがほとんどない。もともと鈍い性格なせいもありそうだが、思うに今の自分に「守らなければならないもの」が「ない」からではないかと自己分析している。子どももいないので愛犬が唯一最大の「守るもの」だったが、その愛犬を三年前に見送ってからは新しい犬も迎えていない。高齢の犬の介護が一番たいへんだった時期は犬の体調の心配はもちろん、週に何日も通う動物病院、昼夜を問わない投薬や自宅点滴などの看病で心身の疲労が蓄積し、夫婦間の意識の相違で互いに苛立つこともときにはあった(それでもうちは圧倒的に夫婦喧嘩をしない家なのだが)。


 不機嫌や苛立ちは、「守らなければならない大切なもの」があるとき、それが損なわれる危機感・不安感から生まれる攻撃的な感情であることが多いのではないか。犬を見送ってからなんの心配事も切迫感も急になくなり、よい意味では平穏な、悪い意味では生きる張りあいがなくなって怠惰な日々を過ごすうちに、そんな考えが頭に浮かんだ。


 この文章を書いている今は真夏なのだが、犬がいた三年前までと比べても異常な暑さになっている。こんな猛暑で家に犬を残して外出したら、留守番中に停電したりエアコンが故障したりしないかと気が気じゃなかっただろうと思うと本当に……犬……大好きだし犬がいる暮らしは愛と幸せに溢れていたしまた飼いたい思いはあるけれど、命を預かる責任の重さに怯んで一歩を踏みだせずにいる。前の犬と同じくらい長生きしてくれたとして、十年十五年後に医療費がかさむ高齢犬になった頃に私が筆で稼げている保証もないので(いや頑張りなよそこは、と言いたいところだけど本当にこの職業、水物なので……)、前の犬と同じようにできる限りの時間とお金を費やせる確信もない。十分なことをしてやれる余裕がなかったらきっと焦燥感で苛々してしまうだろう。


 閑話休題。「子どもの怒り」の正体――思春期の人たちにとっての「守るもの」とは、芽生えたばかりでまだ確立しきっていない自我・自意識なのではないだろうか。友だちとの関係であったり、学業や部活や家庭の問題であったり、あるいはネットで目にする情報であったり、日々心をさいなむさまざまな外的要因に、まだ不安定な自己の内面を脅かされることへの恐れが思春期の不機嫌さに繫がっている部分があるのではないかと考えるのだ。


 『不機嫌な青春』は私自身の子どもの頃の時代背景も投影した、全体的にノスタルジーが漂う短編集になっている。拾った風船からはじまる文通、不良少女のタイムスリップ、感覚が繊細な思春期ゆえに不思議な力が発露してしまう超能力ものなどの四編を収めている。


 情報技術の革新的な進歩にともない特に若い人たちのコミュニケーション方法は様変わりした。子どもを取り巻く家庭環境・学校環境、差別やジェンダーなどに関する意識にも変化があった。自分が育った環境とでは隔世の感があり、青春小説を瑞々みずみずしく書くのが難しくなってきて苦悩することも、正直多い。ただ、人間の心身の成長過程が大きく変わったわけではないので、思春期に誰もが抱える生きづらさは今も昔も共通しているはずだと思っている。今も昔も、多くの人が「不機嫌な青春」に身を置いた経験があるはずだ。

「青春と読書」2024年10月号転載