インタビュー

書評

死的不穏さのリアル

吉村萬壱

 新型コロナが五類になり、元の日常が戻ったような空気にはなってはいるものの、我々を取り巻く不穏さが一向に減少しない気がするのはなぜなのか? それは不穏さというものが我々の住む世界の本質だからだと、作者はそっと語りかけてくる。
 外から家の中に入ってくる不穏さを排除しても、家族そのものの持つ不穏さが残る。家族の不穏さを拭い去っても、自分自身に巣食う不穏さが残る。即ちどこまで行っても不穏さは消滅することがない。全てが元通りの平穏さに復帰するという淡い期待は、作者の冷酷な筆によって悉く薙ぎ払われる。このような恐ろしい現実から逃れるために、人は得体の知れない曖昧なものであっても、とにかく何かに縋りつこうとする。しかしそれが例えば一人の小説家の出身地を問うことであったりすると意味が分からず、ますます不穏さが増すのである。
「乙事百合子の出身地」の初子は、英会話教室で同じクラスだったミソノに電話で小説家・おつこと百合子の出身地を訊かれ、答えられない。そして疫病流行下にうっかり家に入れてしまった浄水器販売員の莉里に同じ質問をし、もし教えてくれたら契約してもいいと持ちかけ、莉里が答えられずにいると詐欺師呼ばわりして家から追い出してしまう。この質問のような意味不明なものが、我々の生活の中には満ち満ちていないか。答えても答えられなくても殆ど意味のない問い。そんな問いの遣り取りによって何とか成立しているわれわれの日常の、本当は恐ろしいまでの空疎さをこの作品は見事に炙り出している。
 この短編集は、虚無の深遠に墜落しないようにと我々が縋りついて離さない不気味な命綱のようなものを、次々と暴いてみせる。それは知らない女との架空のセックス経験であり、コミック本であり(「ぴぴぴーズ」)、「あたらしい日よけ」であり、性器の中の一万匹のみみずであり(「みみず」)、夫の本棚であり(「刺繡の本棚」)、結婚生活であり(「ケータリング」)、良き夫である(「フリップ猫」)。そしてこれら全てを象徴するものが「飲めば何の苦しみもなく、眠ったまま死ぬことができるという錠剤F」である。しかしこれらのものは、錠剤Fを含めて悉く崩れ去る。
 そもそも人は恒常的な幸せを手に入れられる存在なのか。作者は「自然食品店の粋」という名エッセイの中でこう書いている。
「私が退屈をむしろ憎むのは、退屈がこわいからで、それは(性格の悪さをべつにすれば)私が小説家であることと関係しているだろう」(『夢のなかの魚屋の地図』)
 想像力と刺激に満ちた地獄とは対照的な天国の、その地獄のような退屈さを作者は知悉しているに違いない。同じエッセイ集の中の「『カボチャ』」には、父・井上光晴が何より腹を立てたのは「仕立て上げられた『美談』だった」と書かれてある。予定調和的な方向に行きそうになっても絶対にそこに行かない作者の筆には、ありきたりな幸せを断固受けつけぬ独特の美学がある。
 一番身近な家族や恋人の心さえ、気が遠くなるほど自分の理解の外にあることを作者は執拗に描いてみせる。「あたらしい日よけ」の由加子にとっての中学生の息子の分からなさ、「ケータリング」のこうにとっての妻・真由の分からなさ、「フリップ猫」の「私」にとっての夫・よしろうの分からなさは、誰にとっても決して他人事ではない。誰もがある日突然、今まで聞いたことのない息子の声にゾッとさせられ、信じていた妻に裏切られ、ネットで誰かを誹謗中傷していた夫に気づいたりするのである。
 我々はそんな、自分にとって見たくないもの、知りたくない事柄を懸命に塗り潰しながら生きていると言える。
「墓」の主人公「俺」は思う。
「もうずっと長い間、なんなら生まれてから今までずっと、壁を塗り続けているような感じがやっぱりする」
「この世界全部が、外壁みたいな」
 しかし、この世界全体を自分にとって都合のよい色で完全に塗り尽くすことなど土台不可能なのである。寧ろ気がつくと、懸命に刷毛を動かしている自分自身が化け物化していたりするのだ。「みみず」の杏はセックスフレンドの俊樹さんに「杏ちゃんのここはみみず一万匹だね」と言われ、それを支えにして生きている。しかしみみず千匹ならともかく、一万匹というのは最早モンスターに他ならない。この一万匹のみみずは色々なものに置き換え可能だ。容姿、学歴、プライド、才能、財力……。これらを支えにしている自分が、いつの間にか化け物化しているかも知れないという恐怖。
 作者が描く日常性の裂け目を、例えば思想家・井筒俊彦ならこう表現するだろう。
「やがて、あちこちにぱっくり口を開けた恐ろしい亀裂から、暗い深淵が露出してくる。絶対に外には見せぬ宇宙の深部の秘密を、禁断を犯してそっと垣間見る、その不気味な一瞬の堪えがたい蠱惑!」(『ロシア的人間』)
 しかし作者は決して日常の不気味な裂け目に「宇宙の深部の秘密」を見出さない。この作者は決してトンネルの向こう側へ突き抜けないのだ。即ち神秘主義に向かわず、あくまでこちら側に止まり続けるリアリズムにこそ、この書き手の真骨頂があるのである。
「トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と言うとよ。トンネルが繫がってしまえば、切羽はなくなってしまうとばってん、掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」と語る小説『切羽へ』の主人公・麻生セイ。彼女の母親は古いトンネルの切羽からマリア像を持ち帰る。作者もまた、この世にぱっくり口を開けた薄暗いトンネルの中へと入って行き、切羽から何かを持ち帰っては物語を綴っているのだろう。
 この短編集にほんのりと死の匂いが漂うのは、切羽のすぐ向こう側があの世であり、井上荒野がそのギリギリまで行って戻ってきているからに違いない。

「すばる」2024年2月号転載