【書評】逃れられないウイルス、それとも恋

澤田直

 「ウイルスと愛は似ている」。これはヒロインの言葉。彼女、サワダ・マリエ、日本人の両親のもとにパリで生まれたアラフォーのバツイチ。フランス人の元夫との間に二人の娘がいるが、母トモコが全面的にサポートしてくれるお陰で、仕事に専念できる。仕事は映画のプロデューサー。華やかに思われるが、実際にはシネマという大きなからくりの調整役、地味で気疲れのする仕事だ。もちろん、生きがいでもある。どこかに愛を求める自分がいないわけではないが、10年前の離婚以来、男には少し懲りた、というところ。

 2019年秋、とつぜん夢のプリンスが現れる。男の名はアンリ・フィリップ、還暦をすぎた実業家、比喩ではなく文字通りのプリンス。ロシア系の貴族の末裔、それもロマノフ王朝の血筋を引く……らしい。なにかと謎の多い人物で、読んでいるこちらまでその魅力の虜(とりこ)になりそうだ。新型コロナウイルスの感染が拡大するパリで、十年のあいだ彼女のうちで眠っていた愛の遺伝子に突然スイッチが入る。だが、物語はゆっくりと進む。ロックダウンした街では恋でさえも緩慢になるのか。

 災厄(カタストロフ)は、しばしば小さな足音でやってくるが、ひとたび到来すると、誰も免れることができない。「以前」と「以後」。何かが変わってしまった、と感じざるをえない。物語はこの不安を背景に進む。それでもフランス人たちは生きることを諦めない。そして、彼らにとって生きるとは恋することにほかならない。

 たわいのない日常がどれほど簡単に指のあいだからこぼれ落ちてしまうものなのかを、パンデミックは私たちに教えた。連帯しなければいけないときに、分断を強いられることも。だが、閉じこもることが熟成のためには不可欠なのかもしれない。10年後を想って……。

 彼女の恋の行方についてここで明かすことはできないが、この小説の勘所に顔を出す極上のウイスキーのような芳醇な香りに、読者が酔いしれることはまちがいないだろう。


さわだ・なおフランス文学・哲学者、立教大学教授
(「青春と読書」2021年2月号に掲載)