インタビュー

今野敏

今野 敏「幕末、国のために奔走した若き“官僚”たち」

書評

知られざる幕末外交官たちの奮闘

細谷正充

 警察小説の雄として知られる今野敏だが、その作風は幅広い。アクション・SF・伝奇・格闘・ガンダム小説など、多彩なエンターテインメント作品を発表しているのだ。そんな作者の持ちジャンルのひとつに、歴史格闘小説がある。一九九七年に刊行した『そうかくろう』を皮切りに、『やまあらし』『ちんけん』『武士猿ブサーザールー』など、実在の格闘家を主人公にした物語を書き続けているのである。
 さらに二〇二〇年には、格闘家から離れ、かんりんまるの太平洋横断に測量方兼運用方として参加したともろうを主人公にした歴史小説『天を測る』を上梓。本書『海風』は、その作品と同時代を扱っている。直接登場することはないが、友五郎の名前も何度か出てくる。主人公が、友五郎たちが第一期生となった長崎海軍伝習所の設立に尽力した、幕臣のながなおゆきなのだから、当然といっていい。また二冊併せて、歴史小説家としての作者の関心がどこにあるのか、窺い知ることができて興味が尽きない。
 とはいえ物語に登場した時点の永井は、暇を持て余している小姓組番士だ。大名の子だが、旗本・永井家の養子になる。部屋住みでやることもないので勉学に励み、しょうへいざか学問所の大試に甲科合格したのだから非常に優秀だ。
 しかし永井は、昌平坂学問所の学頭だったはやしじゅつさいの孫で、大試に乙科合格したいわただなりの方が優秀だと思っている。今の岩瀬は、昌平坂学問所の教授方だ。
 その岩瀬の従兄弟いとこが、大目付を父親に持つほりとしひろである。仲のよい三人の中で堀の出世が一番早く、今は目付だ。永井と岩瀬が話しているところに、永井が二番組かちがしらになるという情報を携えてやって来た堀。そのまま三人で、黒船が来航した現在の状況を話題にする。
 永井たちは、徳川幕府の若手エリートといえる。三人の遠慮のないやり取りから作者は、当時の様子や、幕府側の人々の意識を、明快に読者に伝えてくれる。だから歴史に詳しくなくても、スルッと物語に入っていけるのである。
 かくして江戸城に詰めるようになった永井は、老中首座の伊勢守いせのかみに見込まれ目付となり、さらにかいぼうがかりも兼任させられる。岩瀬と堀も一緒だ。黒船の再来航に日米和親条約の締結と、時代の流れは慌ただしい。さらにアメリカ以外の国の船も訪れる。そのような状況を経て、永井は長崎に派遣される。外交の最前線である長崎の独自性や、癖のある長崎奉行・みず筑後守ちくごのかみに戸惑いながら、永井は鍛えられていくのだった。
 本書を読んで驚いたのが、阿部伊勢守を始めとする幕府の重臣たちの軽い口調だ。えっ、こんなに砕けた話し方でいいのと、初めは戸惑った。しかし、そこに作者の狙いがある。とにかく読みやすいのだ。分かりやすいのだ。気安い上司と部下とでもいえばいいのか。黒船艦隊を率いてきたペリー提督を皮切りに、次々と訪れる諸外国への対応や、複雑きわまりない世相が理解できる。作者のファンだから、歴史に興味がなくても、本書を手にする人もいるだろう。そんな読者も楽しく読めるようにした工夫が、砕けた会話の多用に繫がったのではないか。エンターテインメント・ノベルのプロフェッショナルだからこそ選択できた、大胆不敵な技法なのである。
 しかも登場する人物が魅力的だ。最初はじょうに傾いていた永井だが、長崎表取締御用になり、水野筑後守(愉快なキャラクターである)の下で働き始めると、さまざまな現実を受け止めるようになる。オランダ商館長とのやり取り、やくにんつうとの付き合い方、長崎ならではの犯罪の対処、来航したイギリス人との交渉……。慣れない土地で右往左往しながら、何度も現実にぶつかるうちに永井は、外交のエキスパートへと成長していく。そして時代の変化を踏まえて、長崎海軍伝習所の設立に尽力するのである。伊勢守や筑後守といった癖のある上司に酷使されるが、それが永井の成長を促し、魅力的な人間にさせたのである。
 また、尚志に焦点を合わせているために詳しく書かれていないが、に行った堀や、江戸やしもで奔走した岩瀬も、それぞれの場所で成長したようだ。時代の中で一所懸命に働く永井たちの姿が輝いているのである。
 縁の下の力持ち的立場が多かった永井の知名度は、幕末史の有名人の中ではいささか落ちる。だが、彼らのような有能で実直な役人の存在は、いつの時代でも欠かせない。本書を読んで、そのことをあらためて納得した。警察庁のキャリア官僚(後に警察署長)のりゅうざきしんを主人公にした警察小説「隠蔽捜査」シリーズなどと通じ合う、作者ならではの歴史小説なのだ。

「小説すばる」2024年9月号転載