内容紹介
迫られる攘夷か、開国か――。
嘉永六年(一八五三年)六月、浦賀にその姿を現した四隻のアメリカ軍艦。幕府は強大な武力をもって開国を求める艦隊司令長官・ペリーの対応に苦慮していた。
清国がイギリスとの戦争に敗れ、世界の勢力図が大きく変わろうとするなか、小姓組番士・永井尚志は、老中首座・阿部伊勢守正弘により、昌平坂学問所で教授方を務める岩瀬忠震、一足先に目付になっていた岩瀬の従兄弟・堀利煕とともに、幕府の対外政策を担う海防掛に抜擢される――。
迫り来る欧米列強を前に、新進の幕臣たちが未曾有の国難に立ち向かう。
現代へと繋がる日本の方向性を決定づけた重要な転換期を描く幕末歴史小説!
「隠蔽捜査」シリーズをはじめ警察小説の名手が、“薩長史観”に一石を投じる!
プロフィール
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今野 敏 (こんの・びん)
1955年北海道生まれ。1978年、上智大学在学中に「怪物が街にやってくる」で第4回問題小説新人賞を受賞。卒業後、レコード会社勤務を経て執筆活動に専念。2006年『隠蔽捜査』で第27回吉川英治文学新人賞を、2008年『果断 隠蔽捜査2』で第21回山本周五郎賞、第61回日本推理作家協会賞をダブル受賞。2017年「隠蔽捜査」シリーズで第2回吉川英治文庫賞受賞。空手有段者で、空手道場「今野塾」を主宰。
インタビュー
書評
知られざる幕末外交官たちの奮闘
細谷正充
警察小説の雄として知られる今野敏だが、その作風は幅広い。アクション・SF・伝奇・格闘・ガンダム小説など、多彩なエンターテインメント作品を発表しているのだ。そんな作者の持ちジャンルのひとつに、歴史格闘小説がある。一九九七年に刊行した『惣角流浪』を皮切りに、『山嵐』『義珍の拳』『武士猿』など、実在の格闘家を主人公にした物語を書き続けているのである。
さらに二〇二〇年には、格闘家から離れ、咸臨丸の太平洋横断に測量方兼運用方として参加した小野友五郎を主人公にした歴史小説『天を測る』を上梓。本書『海風』は、その作品と同時代を扱っている。直接登場することはないが、友五郎の名前も何度か出てくる。主人公が、友五郎たちが第一期生となった長崎海軍伝習所の設立に尽力した、幕臣の永井尚志なのだから、当然といっていい。また二冊併せて、歴史小説家としての作者の関心がどこにあるのか、窺い知ることができて興味が尽きない。
とはいえ物語に登場した時点の永井は、暇を持て余している小姓組番士だ。大名の子だが、旗本・永井家の養子になる。部屋住みでやることもないので勉学に励み、昌平坂学問所の大試に甲科合格したのだから非常に優秀だ。
しかし永井は、昌平坂学問所の学頭だった林述斎の孫で、大試に乙科合格した岩瀬忠震の方が優秀だと思っている。今の岩瀬は、昌平坂学問所の教授方だ。
その岩瀬の従兄弟が、大目付を父親に持つ堀利熙である。仲のよい三人の中で堀の出世が一番早く、今は目付だ。永井と岩瀬が話しているところに、永井が二番組徒頭になるという情報を携えてやって来た堀。そのまま三人で、黒船が来航した現在の状況を話題にする。
永井たちは、徳川幕府の若手エリートといえる。三人の遠慮のないやり取りから作者は、当時の様子や、幕府側の人々の意識を、明快に読者に伝えてくれる。だから歴史に詳しくなくても、スルッと物語に入っていけるのである。
かくして江戸城に詰めるようになった永井は、老中首座の阿部伊勢守に見込まれ目付となり、さらに海防掛も兼任させられる。岩瀬と堀も一緒だ。黒船の再来航に日米和親条約の締結と、時代の流れは慌ただしい。さらにアメリカ以外の国の船も訪れる。そのような状況を経て、永井は長崎に派遣される。外交の最前線である長崎の独自性や、癖のある長崎奉行・水野筑後守に戸惑いながら、永井は鍛えられていくのだった。
本書を読んで驚いたのが、阿部伊勢守を始めとする幕府の重臣たちの軽い口調だ。えっ、こんなに砕けた話し方でいいのと、初めは戸惑った。しかし、そこに作者の狙いがある。とにかく読みやすいのだ。分かりやすいのだ。気安い上司と部下とでもいえばいいのか。黒船艦隊を率いてきたペリー提督を皮切りに、次々と訪れる諸外国への対応や、複雑きわまりない世相が理解できる。作者のファンだから、歴史に興味がなくても、本書を手にする人もいるだろう。そんな読者も楽しく読めるようにした工夫が、砕けた会話の多用に繫がったのではないか。エンターテインメント・ノベルのプロフェッショナルだからこそ選択できた、大胆不敵な技法なのである。
しかも登場する人物が魅力的だ。最初は攘夷に傾いていた永井だが、長崎表取締御用になり、水野筑後守(愉快なキャラクターである)の下で働き始めると、さまざまな現実を受け止めるようになる。オランダ商館長とのやり取り、地役人や通詞との付き合い方、長崎ならではの犯罪の対処、来航したイギリス人との交渉……。慣れない土地で右往左往しながら、何度も現実にぶつかるうちに永井は、外交のエキスパートへと成長していく。そして時代の変化を踏まえて、長崎海軍伝習所の設立に尽力するのである。伊勢守や筑後守といった癖のある上司に酷使されるが、それが永井の成長を促し、魅力的な人間にさせたのである。
また、尚志に焦点を合わせているために詳しく書かれていないが、蝦夷地に行った堀や、江戸や下田で奔走した岩瀬も、それぞれの場所で成長したようだ。時代の中で一所懸命に働く永井たちの姿が輝いているのである。
縁の下の力持ち的立場が多かった永井の知名度は、幕末史の有名人の中ではいささか落ちる。だが、彼らのような有能で実直な役人の存在は、いつの時代でも欠かせない。本書を読んで、そのことをあらためて納得した。警察庁のキャリア官僚(後に警察署長)の竜崎伸也を主人公にした警察小説「隠蔽捜査」シリーズなどと通じ合う、作者ならではの歴史小説なのだ。
「小説すばる」2024年9月号転載
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