刊行記念インタビュー

書評

家という出口のない檻に黒い闇が立ち込める

評者・杉江松恋(文芸評論家)

 

 どこにも行けず塀の内側で立ちつくすしかない。

 家族という社会の最小単位を伊岡瞬はたびたび題材としてきた。累計三十万部突破のベストセラーとなった二〇一七年の『悪寒』に代表される諸作である。最新長篇『朽ちゆく庭』は、その系譜に連なる作品だ。扉を閉ざせば、誰もその家の中を覗くことはできない。幸福な思い出の数々を積み上げられている家族ばかりではない。憎しみの感情が渦巻く家もあるだろう。そして、みなが自分の部屋に閉じ籠り、互いに本当の顔を見せずに暮らしている家も。

 本書の舞台は朝陽ヶ丘ニュータウンという新興住宅地だ。富裕層が多いセレブタウンとして有名だったが、バブル経済崩壊後は平均的な所得の世帯が多くなった。初期住人たちは、そうした新参者たちに白い目を向けているのである。この寒々しい街の一角に夫婦と中学生の息子一人という山岸家は引っ越してきた。住み始めてから日が浅く、街にはまだ溶け込んでいない。家という船で海を漂っているようなものだ。では家族という乗員たちは互いに協力し合っているのか。どうやらそうではないらしい、ということが次第にわかってくる。

「おれはいつだって、いろいろなことを考えている」が口癖の夫・陽一はゼネコン社員で家を留守にしがちである。税理士事務所の職員として働く妻の裕実子は、自分でも出所のわからない不安を抱えながら日々を過ごしている。花でいっぱいにするはずだったのに、今は草むしりに追われるだけの対象となった庭は、彼女の心理状態を象徴するモチーフでもある。夫婦共通の悩みは、中学受験の失敗が尾を引いてか不登校気味の息子・真佐也だ。いや、正確に言えば裕実子は、夫がこの問題に正面切って向き合わないことに不満を抱いている。今では彼女も、家にいつも息子がいるという事態そのものを疎ましく思い始めている。

 こうした状況が最初に示される。本書では家族が互いに向き合わないための食い違いがところどころで起きるが、重要な一つが序盤で描かれる。真佐也の視点になった途端、読者は小さな違和感を覚えることだろう。親である裕実子が抱いている不登校児像とはずれが生じているからだ。息子をきちんと見ていないのである。では真佐也はどういう日常を送っているのか、ということに読者の関心が移るため、作者は彼の周囲にあるものを細かく描写していく。何を食べているのか。何を見ているのか。家の外とはつながっているのか、いないのか。その描写の中に、物語中盤から浮上してくるミステリー要素の伏線が撒かれているのである。山岸家の全体像を読者が思い描けるようになったとき、事件が起きる。

 伊岡瞬の、ミステリー作家としての特徴はフーダニット、つまり犯人当ての要素をおろそかにしない点にある。予見を与えないようにぼやかして書くが、本書は中盤以降、容疑者が極めて限定されたフーダニットになる。それをやれた人間はごくわずかしかいないのだ。この人しかいない、という犯人がまず提示される。だが、読者はそれを半信半疑で受け止めるだろう。山岸家の人々がお互いをきちんと見ていないことを序盤の展開から承知しているからだ。穴がたくさん開いた仮説を示されているのではないか、と感じながらページをめくることになる。この先に疑念を晴らしてくれるものがあるに違いない、という期待が物語を読ませる原動力になっている。それに応えるようにして後半では、死角の多かった山岸家の、それまでは見えなかった部分が詳らかにされていく。すべてが明らかになる瞬間まで、緊張感が途切れることはないのである。この密度がミステリーとしての魅力だ。

 家族のありようについて、そして人と人とのつながりについて考えさせられることになるだろう。哀しい事件が描かれる。それは悪意というよりは、人間の弱さが生み出したものなのだ。誰の心の中にも人には見せられないような部分があり、それに執着したり、他人から隠そうとしたりすることで愚かな振る舞いに出てしまう。そうした行為の連鎖が生み出した悲劇の物語なのである。自分はそうならない、と胸を張って言える人は、果たしているのだろうか。物語を読めば、思わず自身を顧みたくなるのではないだろうか。だからこそ本書は怖いのである。足元が崩れていくような感覚を味わうことになるから。物語の最後、真佐也の瞳に映ったであろうものを、ぜひ多くの人にも見てもらいたい。

初出「小説すばる」2022年7月号

 

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