担当編集より

人生の行き止まりから逃げ出した人々がたどり着く、とある郊外の古い借家──。かりそめの暮らしの先に見えた世界を描く、彩瀬まるの最新作『さいはての家』がこのたび刊行されました。
家族を捨てて逃げてきた駆け落ちカップルを主人公にした「はねつき」、新興宗教の元教祖だった老婦人の暮らしを描く「ひかり」…など、全五編の連作短編集。
卓越した人間描写に定評のある彩瀬さん。今作も、人生の苦みを織り込みつつ、人の痛みに寄り添う作品集となりました。
刊行にあたり、女優で作家の中江有里さんによる書評と、著者からのメッセージを掲載します。

【書評】「家に選ばれる、逃げてきた人々」 評者:中江有里(女優・作家)

 家は人が選ぶもの、そう思っていたが、本当は人が家に選ばれているのかもしれない。
 そう思ったのは、ある家で暮らしていた頃のことだ。自分の意志でどこへでも出かけられたのに、なぜか家に閉じ込められている気がしていた。思い切ってその家から離れた時、解放感でいっぱいになった。わたしはあの家に選ばれなかっただけ……今もそんな風に思う。
 本書の「家」も住む人を選ぶ。ふたつの和室と台所、風呂にトイレ、南向きの小さな庭がついた古びた一軒家。
 家に選ばれるのは、どこからか逃げてきた人々だ。一編ごとに住人は入れ替わる。その誰もが自分の居場所を求めて、この家にたどり着いた。
「はねつき」の「私」と野田さんは、かけおちしてこの家で暮らし始めた。小さな庭にトマトやナスの苗を植えてみたが、夏の収穫までここにいられるのか「私」は不安になる。
 これまで人に裏切られ、利用されてきた「私」。一方、かけおちは周囲の人を裏切り、迷惑をかける行為だ。そうしてでも二人は何もかも投げ捨てて逃げたかった。
 後悔も罪の意識もないわけではない。「私」がされたこと、してきたことに無自覚を装うのは、生きるための術なのだろう。
 もしも自分の本心に気付いてしまったら、おそらく正気でいられない。ラストに向けてそれに気付き始めた「私」の変化が恐ろしく迫ってきた。
「ままごと」で逃げてきたのは、実家にお見合いを強いられた満と、その妹だった。見た目しか取り柄のない姉を、気が強くて賢い妹の「私」は冷ややかに見ていた。
 まるでままごとのような姉の生活が、いつしか実感を持ったものへ変わっていくとき、「私」も本当の自分に目覚める。
 本書の庭は、時に古びた家屋よりも存在感を示す。樹木や雑草、住人が植えた野菜の苗やハーブ類、虫やへびなどの生物など生命が絶え間ない。庭は前の住人の気配を残しながらも、自由に生い茂っていく。
 そして見ているはずだった庭から住人は見られ、やがて自身の心の中を覗き込む。そこに自分の居場所を見つけていく。そう、さいはての家は最終地点ではない。ここから再出発する人々の家だ。
 人間は人生の三分の一を眠って過ごすというが、ここに逃げてきた人々はやたらと眠る。眠って現実から逃れているのか、これまで得られなかった安堵をむさぼっているのか……どちらにせよ、安全だと思えるから眠れる。そうして眠りから覚めるのは、これまでと違う世界─。本書という夢を読み終えたあと、どうやら違う世界に覚醒したみたいだ。

(「小説すばる」2020年2月号に掲載)

著者からのメッセージ

 それから、町で彼(もしくは彼女)の姿を見た者はいない──。
 こんな一文を最後にいなくなる脇役の人、いますよね。登場人物が多いドラマティックな長編の中盤、なんらかの騒動の後にほんのり印象的なセリフを残して物語から退場する、あの人たちです。
 子供の頃から、彼らが物語から退場するたび「どこに行ったんだろう」と気になっていました。居づらくなって、罪を犯して、もしくはなにかに反発して、それまで所属していた場所を捨て、他の土地へ向かう人たち。物語の作者が退場していく彼らではなく、その場に残る他の誰かを主人公に据えているということは、きっと彼らのその後は大してドラマチックでも、面白いわけでもないのだろう……と自分を納得させていた時期もあったのですが、本当だろうか。
 ここではない場所へ向かった彼らは、もしかしたらとても個人的な冒険を経て、他の誰も見たことがない、静かで自由な場所に辿り着いたのかもしれない。そんな予感から、五つの物語が生まれました。
 それぞれのさいはてを、見届けてください。

──彩瀬まる

集英社文芸の公式noteで、『さいはての家』所収の一編「ゆすらうめ」を、試し読み公開しています。逃亡中のヒットマンと、事情を知らない元同級生の奇妙な同居生活を描くスリリングな物語。ぜひ合わせてお読みください!