エッセイ

たった独りの貴方に

花村萬月

 ぼっちですか。
 そうですか。独りぼっちですか。
 独りは、いいですね。
 たまりませんね。
 他には何もいらないくらい、独りがいい。

 担当Sのメールに、こんな文章があった。

 子供は夏休みもたまに学校に行きますが、駅から徒歩15分くらいかかるので、こう暑いとなかなか命がけのようです。

 私のところも夏休みだというのに娘たちが部活だなんだと学校に出向くので、朝の喧噪がおさまると、カーテンの隙間から委細かまわず忍び込んでくる澄んだ夏の朝日に触れられながら二度寝、ということになります。そうか。小娘たちは命がけか。
 たまに病院に出向くために外出しますが、なんですか、この温度。正気じゃないね。空があまりに青すぎて黒く感じられるじゃないですか。ショーワの引きこもり老人にとって現実の暑さとは思えない。
 ずーっと地球温暖化といった概説をバカにしてきたわけです。これで騒いで、人々の不安をあおって飯を喰おうとしている卑しいやからがいる――と。小説家という私の職業柄、なんとなく透けて見えてしまうのです。
 時代小説を書いていると、とりわけ資料にアタマをやられてきます。体感もやられてくるのです。家に閉じこもって現実よりも江戸に遊んでいる時間が長くなると、ずいぶん実際より夏の気温を低く推測する。半地下の仕事場の床に拡げた資料という史実の描きだす絵には雪が膝小僧あたりまで積もり、両国川が青みがかった危うい色に完全に凍結したりしているのだから。
 江戸時代の資料に描かれた江戸時代(すばらしい悪文だが、開き直ろう)は、とても冷たいのです。凍えているのです。
 さて――。
 二〇二〇年を過ぎてもまだ小氷期は終わっていないはずだから、地球温暖化もへったくれもない! という頑迷(もう、なにも調べていないのです)も、市バスに乗るためにゆらゆら東山の麓からくだっていくうちに、簡単に霧散崩壊してしまいます。言い方を換えると、体温超えの暑さに負けるのです。
 そして「俺がガキのころは、あがっても三二度くらいで、三三度になったら大騒ぎだったぞ」という昭和の人間の呪いの決まり文句を、誰にも悟られぬよう市バス一番後ろの席で呟きます。
 車道と歩道の境に整列させられている炎天下の植物は水分を抜かれつつあり、背骨を曲げられて奇妙な陽光の反射の仕方で身悶えをあらわしている。
 私はといえば、最後列にっくりかえって横目で天下を睥睨しながら、天井からの冷風を首筋に浴びています。態度は大きいけれど愉しくない人の見本ですね。
 このエッセイの締め切りは五日ほど前でしたか。仕事でも近ごろはこうして平然と締め切りを守らない、約束を破る。態度は大きいけれど、愉しくない人の見本です。
 四日も五日も締め切りをほうりだされたら担当Sだって、たまったものじゃありません。催促のメールを一瞥して、こうして取り留めのない文章を打ち出しはじめました。
 冒頭に引用したSの文は、原稿督促メールからです。ふわっと絵が見えたのです。
 リビングに座って前屈み、ゲームか、書物か、夢中になっている。駅に向かっている。ずいぶん、うんざりしている。子供たち、荷物多すぎ! ただでさえサイズが合わないシャツですが、蛍光染料の光輝あふれる白が汗と共同して膨張させています。
 貴重なる少年の不変なる単調な一日。
 Sの『子供は夏休みもたまに学校に行きます』って、じつにいいですね。胸に沁みわたってくる。文章は不可解だ。巧緻を極めようとするとSのこの文章に含まれているもっとも大切な文学性をうしなってしまう。なにを言っているのかといえばSの今回のメールからはずっと背が見えていたのです。
 おいおい花村の野郎、自己保身にはしって担当編集者をヨイショしはじめたぜ――といった嘲笑が聞こえそうだな。
 仕事からもどったら、足裏が痛くて溜息ばかりでた。上司は細部にこだわるのが信条だけれど、大局という言葉が読めない。どうにか一番遅いバスに乗ってもどったけれど、もう動けないし動きたくない。
 楽じゃありませんよね。愉しくない。
 じゃあ、内緒でそろそろ私の側へどうぞ。虚構の側に立つ人間の居場所へ。他の誰でもない、たった独りの貴方のための場所へ。

「青春と読書」2023年10月号転載