【書評】不器用さを抱えた人びとの姿にとびきりの愛とユーモアを込めて

評者 倉本さおり

じゃじゃ馬。おてんば。はねっかえり。
子供の頃はそうした言葉が自分に対して使われると誇らしかった。だからシェイクスピアのその題目を知った際は当然のごとくイラっとし、なぜだかひどく塞ぎこんだ。
この本を読んだ今ならわかる。当時の私は「ならす」という言葉から垣間見えてしまった社会のありように傷ついていたのだ。
本作は、シェイクスピアの名作を当代のベストセラー作家たちが「語りなおす」シリーズの第三弾にあたる。下敷きにしているのは『じゃじゃ馬ならし』だ。気性が荒いせいで行き遅れ、父親の悩みの種だった娘が、資産目当てに近づいた求婚者の調教によって飼い慣らされ、従順な妻へと変貌する(!)――現代の常識では「性差別的」だと指摘される点も多いシェイクスピア作品の中でもきっての問題作といえるだろう。
一方、本作の「じゃじゃ馬」にあたる主人公・ケイトはというと――植物学者を志していたものの、率直すぎる性格が災いして大学を中退。二十九歳となった今は実家でくすぶっている。そんな彼女のもとに、科学者の父が縁談を持ち込んだことで物語が動き出す。海を越えてアメリカにやってきた優秀な研究助手・ピョートルに永住権を与えるため、自分の娘と結婚させてしまおうというわけだ。
ケイトは見かけこそ男性並みの高身長でデニムばかり穿いているものの、無自覚にへまをやらかしては落ち込んでいるし、伯母のシルマには常に頭が上がらない。なによりケイトは十四歳のときに母を喪って以来、研究以外はまるでダメな父親と、ひと回り以上歳の離れた妹のためにずっと家庭内でケア労働に従事してきた。一方、ピョートルも屈託がなさそうに見えるが、実際は自分の人生をコントロールすることに四苦八苦している。
作者のアン・タイラーは、誰かが誰かに「飼い慣らされる」過程を描くのではなく、むしろケイトやピョートルのような不器用さを抱えた人びとの姿にとびきりの愛とユーモアを込めて物語を立ち上げていく。翻って、それは人びとの生き方を都合よく「均そう」とする社会に対する痛快で真っ当な反駁なのだ。

くらもと・さおり●書評家

(『青春と読書』2021年10月号より)