「半年ぶり二回目」

 私がそう口にすると、対面でスマホを弄る雪穂は「うーん?」と間延びした相槌らしきものを寄越してきた。相変わらず画面に視線を落としたままで、亜麻色の長い髪が俯きがちな顔を覆い隠している。そのいっぽうで、春色ネイルの施された人差し指はいっさい動きを止めていない。右に左に忙しなくスワイプを繰り返している。

 「なにがー?」

 「いや……」

 こういうとき、いつも私は溜め息をつきたくなる。あのさあ、人が話しているときはせめて形だけでも聞く姿勢をとったら? さすがにスマホばっかり見ているのは失礼じゃない? 言いたいけど、言えない。細かいことに目くじらを立てて、二人の関係をギクシャクさせたくないからだ。

 雪穂との出会いは大学一年の春、必修の語学クラスでのこと。初回の講義でたまたま隣の席になったのがきっかけだった。

 ─初めまして。

 ─こちらこそ、よろしくー。

 なんとなく声をかけ、そのまま当たり障りのない身の上話に花を咲かせていると、いくつも共通点が見えてきた。互いに上京組でこっちにはまったく知り合いがいないとか、仕送りだけでは厳しいからアルバイトを始めたいのだけど、なにがいいのかよくわからないとか、とある韓流の女子アイドルグループを箱推ししていて、その影響で大学ではダンスサークルに入ろうと思っているとか。

 ─これもなにかの縁だね。

 雪穂は涼やかに微笑み、それ以来、常に二人で行動するようになった。履修登録は丸被りだし、教室や講堂ではいつも横並びだし、空きコマの間は学食や近くのカフェで暇を潰すのがお決まりだ。

 もちろん、新入生として新歓コンパにも連れ立って参加した。興味のあるところ、ないところ分け隔てなく─あるいは見境なく─できる限り顔を出し、最終的に二人とも学内で最大規模の『Evolve』というダンスサークルに入部を決めた。

 ─雪穂はどう思う?

 ─むしろ、琴音はどうなの?

 相手の意向を尊重し合いつつ、二人とも既に心は決まっていた。ダンスより飲み会が主体の「なんちゃってサークル」も数多く存在する中、そこはどこよりもガチで、それでいて「初心者大歓迎」なアットホームな空気も漂っていた。ちなみに、私も雪穂もダンス未経験だ。

 ─じゃあ、決まりね。

 先輩たちの熱血指導の甲斐あって、二年生になったいまでは二人ともダンスは経験者たちと遜色ないレベルまで上達したし、最近は次の公演に向けて同じユニットのメンバーとして夜遅くまで練習に励んでいる。

 とはいえ、雪穂以外にまったく友達がいないわけじゃない。サークルの同期とは基本的に全員仲良しだし、サークル以外にも気付いたら勝手に成立していたコミュニティはいくつかある。そういうメンツで飲みに行ったり遊びに行ったりもするし、その中に雪穂がいることもあればいないこともある。

 でも、やっぱり私にとって雪穂は特別だった。大学で初めての友達という思い入れもあるけれど、なにより彼女の醸す空気が心地よいのだ。ふわふわと陽だまりみたいな笑顔を振りまき、いつも「まあなるようになるでしょ」みたいな緩さ、あるいは余裕を漂わせていて、大学生という生き物にありがちな”必死で背伸びしている感”がない。ゆえに隣の私も背伸びする必要がない。等身大の、ありのままの自分でいられる。それがすこぶる居心地がいいし、だからこそ些細なことでひびを入れたくないのだ。私は誰かと一緒にいるとき極力スマホを弄らないようにしているけど、それを雪穂にも求め、強いるのは違う。というか、いまはもうそれが当たり前の時代で、私が細かすぎるだけかもしれない。そう割り切るようにしている。

 「謙介が浮気してる」

 さらっと告げると、ここでようやく雪穂はスマホから顔を上げた。

 「は? マジで?」

 信じられない、許せない、不愉快極まりない─という表情をこしらえつつ、全身から抑えきれない好奇心が迸っている。でもまあ、こればかりは仕方ないと思う。こういう話題はいつだって私たちの大好物だから。

 「たぶんね」

 「たぶん? 証拠を押さえたんじゃなくて?」

 テーブルにスマホを置くと、雪穂はぐっと身を乗り出していた。

 「問題はそこ」

 声を落とし、周囲に視線を巡らせる。昼の学食は大勢の学生で賑わっており、誰一人私たち二人に注意など払っていない。いや、正確には何人かの男子学生のチラチラと盗み見るような視線を感じていないわけではないのだけど、鬱陶しいコバエが顔の周りを飛び回っているのと同じで、無視できるレベルの話である。

 「前回の一件がどうやって落ち着いたかは言ったよね?」

 「うん、聞いた」

 いまから半年前─私は謙介の浮気に気付いた。きっかけは、彼が私といる間もやたらとスマホを弄るようになったことだった。

 謙介との出会いは一年の春、新歓を兼ねた『Evolve』の合同練習会でのこと。冷やかしも含めてたくさんの新入生が体育館に集う中、ひときわ目を惹く男子学生がいた。スラッと背が高くて、ベリーショートの髪はアッシュっぽい金色で、服装もお洒落なロンTにサルエルパンツとばっちり決まっていて─あまりの垢抜け具合に、てっきり初めは先輩だと思い込んでいた。

 距離がぐっと縮まったのは、最初の夏合宿だった。三日目の夜に行われた肝試しで謙介とペアになったのだ。宿舎を出て、近くの雑木林の奥にある古井戸まで行き、証拠としてツーショット写真を撮り、そのまま来た道を戻る─というありがちなやつで、うちのサークルでは新入生に対して毎年行われる一種の通過儀礼的なイベントなのだとか。ペアリングは男女にするのが基本で、これをきっかけに毎年何組かのカップルができるらしい。そうした事前情報もあってか、現場にはどこか浮ついたような落ち着かない空気が流れていた。

 私たちの番が来て、懐中電灯を片手に宿舎を出る。手を繋ぐわけでも腕を組むわけでもない。いざというときすぐに触れられるくらいの絶妙な距離を保ちつつ、鬱蒼とした雑木林を突き進む。まあ、こんなもんだよね─といっさい怖がらない私とは反対に、謙介は死ぬほどビビり散らかしていて、夜風に木々が揺れるだけで大騒ぎする始末だった。

 ─琴音ちゃん、マジ強えな。

 帰り道に半泣きで言われ、私は素直に「かわいいな」と思った。踊っているときは誰よりも格好いいけど、そうじゃない面もあるんだなって─その一面を私だけが知っているんだなって、むず痒いような、こそばゆいような、フワフワした気持ちになった。それまで単に〝気になる存在〟だったのが、このとき明確に〝好きな人〟になった。

 そこからの展開はあっという間だった。二人で飲みに行き、二人でディズニーに行き、互いに相手の好意を肌で感じていた。

 ─琴音のそういうところ、好きだなあ。

 大学一年の冬、三回目のデートのときに謙介は言った。私が「誰かと一緒にいるときはできるだけスマホを弄らないようにしている」と語った直後のことだった。

 ─じゃあ、俺も琴音といるときはそうするわ。

 ─彼氏として。

 サラッと言われ、数秒遅れてそれが告白であることに気付く。

 ─え、なんかいま妙な単語が聞こえたんだけど。

 ─「彼氏」って、まだ私は許可してなくない?

 照れ隠しに言ってみると、謙介は「えー」と悲しそうに眉を寄せた。いつかの肝試しのときよりも切実で哀愁が漂っていた。

 ─冗談だよ。

 ─あぶねー、ビビったー。

 こうして私たちはカップルになり、宣言通り、その日から彼は私といる間スマホをまったく弄らなくなった。

 それもこれも「半年前までは」の話だけど……。

 もちろん、長く一緒にいることで変わってしまうことは多々あると思う。当初の約束が徐々に効力を失い、形骸化してしまうのは珍しいことじゃない。でも、だとしても当時の彼は明らかにおかしかった。私からスマホの画面が見えないよう絶妙に角度を付けたり、私が視線を送ると同時に画面を消したり、確実に私の目を避けていた。そうした些細な仕草の一つひとつから、私は徐々に確信を強めていった。浮気している。間違いない。が、私はあえて素知らぬふりを決め込むことにした。なにも気付いていない、バカな女を演じてやることに。

 実家住まいの彼は、一人暮らしの私の家で半同棲のような生活を送っていた。

 ─シャワー浴びてくるね。

 ある日の晩、彼はスマホをベッドに放り、そのまま浴室に向かった。扉が閉まり、シャワーの音がし始めたのを確認すると、私はベッドに放り出されていた謙介のスマホに手を伸ばした。おそらく油断していたのだろう、スマホの画面は点いたままで、ロックはかかっていなかった。まっさきにラインのアプリをタップし、トーク画面を開くと、そこには見知らぬ女との破廉恥なやりとりがしこたま残っていた。

 やがて鼻唄交じりに浴室から出てきた彼に、私は詰め寄った。

 ─あかりんって誰?

 スマホの画面を見せつけ、そのまま彼の足元に投げ捨てる。ドンと鈍い音がし、フローリングの床でバウンドしたスマホが私たちの間に転がった。

 彼は全裸にバスタオルを巻いただけというあられもない姿で、すぐさまその場に土下座した。ごめん、本当にごめん。俺が悪い。俺が全部悪い。言い訳の一つもなく、全面的に非を認め、最後は泣きながら許しを乞うてきた。もうしない。約束する。絶対に。

 曰く、その女とは高校時代の友人が開いた飲み会で出会ったという。男女三対三で、外形的には紛れもなく合コンなのだけど、事前にその旨は知らされておらず、現場に行って初めて”そういう会”だと悟ったのだとか。で、なんやかんや意気投合し、酔った勢いもあってそのまま一晩を共にし、それから”そういう関係”が続いているとのこと。

 まっさきに「噓だろ」と思った。事前に知らされていなかったわけがないし、〝そういう会〟だと承知の上で、ほいほい足を運んだんだろうが。そう察しつつ、鬼に徹しきれない自分がいた。怒り心頭だったのは間違いないけれど、生まれたままの姿で泣きじゃくる彼のことを、心のどこかで「愛おしい」と思ってしまった。

 ─琴音ちゃん、マジ強えな。

 あの日の半べそが脳裏にちらついて、胸がきゅっと締め付けられた。絶対許しちゃいけない、どうせまた同じことをする。そう頭ではわかっていながら、一度だけ信じてみようかな、という気になった。たぶん、私にはダメ女の素質があるんだと思う。

 結局、いくつかの条件付きで交際を続けることにした。

 一つ、スマホ本体にもラインアプリにもロックをかけないこと。

 一つ、位置情報アプリで常に私に居場所を開示すること。

 むろん、一つ目に関してはいかようにも偽装工作を施せる。私と会う直前にトーク履歴を削除してしまえばやりとりの証拠は残らないし、連絡が来たらマズいと思われる相手は私と一緒にいる間だけブロックすればいい。そんなことは百も承知している。とはいえ、最低限の抑止力にはなるだろう。

 ─もちろん、なにもかも言う通りにするよ。

 そうして、この一件は無事に終息した……はずだった。

 「でも、なんか最近妙なんだよね」

 私がぼやくと、雪穂は「妙?」と首を傾げた。

 「夜な夜な、とあるマンションの一室にいるの」

 それは決まって夜の十時以降─滞在時間は短いと一時間ほど、長いときは朝までのこともある。マンション名は『ボヤージュ三田』で、調べたところ、ほとんどの部屋がエアビーに使われているらしい。エアビーというのは、空いている部屋・使っていない部屋を貸したい人と、それを借りたい人をマッチングさせるサービスで、私もサークルの仲間たちと何度か鍋パやクリパの会場として利用したことがある。

 「は? なにそれ? めっちゃ怪しいじゃん」

 「でしょ?」

 当然ながら、私は即座に問い質した。

 なにしてんだ、また浮気してんのか、と。

 ところが、彼は平然とこう言い返してきたのだ。

 ─違う、違う。ビーバーイーツの配達だよ。

 スマホを掻っ攫い、念のためラインを確認してみるも、残っているやりとりはサークル関連やバイト仲間とのものだけだった。

 ─な? 違うんだって。信じてよ。

 たしかに、彼は前からビーバーイーツの配達員をしていた。好きなときに好きなだけ働けばよく、上司や先輩の顔色を窺う必要もなく、やり方によっては月に二桁万円を稼ぐことも不可能ではない。シフトに縛られることなく、それでいて普通のバイトより稼げる可能性があるのだから、すこぶる魅力的な働き方なのは間違いないし、実際、私もやってみようかなと真剣に検討したことがある。まあ、東京の地理には詳しくないし、なんだかんだ面倒臭さが勝ってしまって行動には移していないけど。

 「さすがに言い訳としてもひどくない?」

 私が語気を強めると、雪穂は気圧されたように「まあ」と頷いた。

 配達員をしている以上、どこかのマンションに出入りする必要はあるし、それをいちいち報告してほしいとも思わない。が、配達先に何時間も滞在する理由があるだろうか。玄関で商品を引き渡すだけなんだから、たった一分で済む話ではないか。というか、私に位置情報が筒抜けなのに、どうしてそんな疑われるような行動を取っているのか。

 「でも、ひたすら一点張りなんだ」

 ─マジで、信じてほしい。

 ─詳しくは言えないんだけど、あくまで配達なんだ。

 埒があかないと思った私は、先日、彼が配達員として動き始めたのを位置情報アプリで確認すると、例のマンション近くで張ることにした。本当に配達なのか。配達にかこつけて─いや、かこつけるにしても下手くそすぎるのだけど、とにかくそれを理由にまた浮気しているのではないか。その真偽を見極めるために。

 雪穂は目を丸くし、すぐさま「よくそこまでやるよね」と苦笑した。ええ、おっしゃる通りです。自分でも信じられない行動力だと思います。でも、そこまで駆り立てられるくらい彼の言動が不自然極まりなかったのも事実なのだ。

 問題はここからである。

 「そしたらね、来たの」

 「来た?」

 「配達員の格好で」

 レンタサイクルに跨り、やたらと前歯の大きいコミカルなビーバーが描かれた配達バッグを背負い、彼はマンションの前に現れた。慣れた様子でエントランス脇の駐輪場にチャリを停め、そのままエントランスに消えていく。物陰から窺っていた私は、拍子抜けしつつも首を捻ってしまった。

 「おかしくない? 配達先に何時間も滞在するのって」

 「まあ、それはそうだね」

 実際、その日も彼は二時間ほどマンションに滞在していた。出てきたところを問い詰めてやろうと息巻いていたのだけど、再び姿を見せた彼は一心不乱に駐輪場へ向かうと、そそくさとチャリを発進させてしまう。

 機を逸した私は、仕方なくその後も位置情報アプリで彼を追うことにした。すると、彼は六本木に到着し、またもや一か所に不自然に留まっていた。調べてみると、そこにあるのはなんの変哲もない雑居ビルのようだった。

 「どう思う? これ、浮気かな?」

 「うーん」

 唸りながら、雪穂は天井を仰いだ。

 すこぶる怪しい─という点については彼女も同意してくれているはずだ。ただの配達員が、なぜ配達先に何時間も逗留する必要があるのか。浮気以外に合理的な説明がつけられるか。彼女なりに知恵を絞っているに違いない。

 雪穂は私に視線を戻すと、おずおずと口を開いた。

 「さっぱりわからないし、さすがに怪しすぎると思うけど……」

 「うん」

 「もし、どうしても気になるなら依頼してみる?」

 「依頼?」

 「噂で聞いたんだよね。面白い店があるって」

 「店? なんの? なんていう?」

 雪穂は曖昧に笑い、意味深に続けた。

 「店名はあるとも言えるし、ないとも言える」

 「は?」

 「ゴーストレストランなんだって」

 「ゴーストレストラン?」

 なにそれ?

 「どう? 興味ある?」

 ピーンポーン、と我が家のチャイムが鳴る。

 「あっ」と私が扉の方を見やると、傍らの雪穂は「うん」と顎を引いた。

 その日の夜、時刻は十一時半過ぎ。

 私は玄関に向かい、念のため覗き穴から来訪者の出で立ちを確認する。

 立っていたのはごく普通の青年だった。年恰好は私たちと同じくらい。おそらく大学生か専門学生だろう。背中に大きな配達バッグを背負い、右手に白色無地のポリ袋を提げている。いまだに雪穂の話を信じきれてはいなかったけれど、少なくとも人畜無害そうな配達員なのでひと安心する。

 解錠し、扉を開くと、青年は恐縮したように肩をすくめながら言った。

 「お待たせしました。ビーバーイーツです」

 「ああ、どうも」

 ポリ袋を差し出され、いちおう形式上受け取る。内容物は「梅水晶、ワッフル、キーマカレー」のはずだけど、別にどれもいま食べたいものではない。なんなら梅水晶は苦手な部類に入るだろう。が、これを注文するのがルールだというから仕方がない。

 「あの……その……お邪魔しても?」

 伏し目がちに、青年は恐る恐る尋ねてくる。

 「ええ、もちろん」

 どうぞ、と招き入れる。

 青年は軽く頭を下げ、靴を脱ぐと部屋に上がってきた。この部屋に謙介以外の男を入れるのは、これが初めてのことだ。

 「で、ご相談というのは?」

 私、雪穂、青年の三人で丸テーブルを囲むように腰を下ろすと、青年は開口一番に問うてきた。思わず「本当だったんだ……」と呟くと、青年はやや緊張がほぐれたのか、ふっと相好を崩した。

 「まあ、にわかには信じられないですよね。こんな”店”があるなんて。えーっと、つまりこの”店”をご存じだったのは─」

 「私です」と雪穂が会話の接ぎ穂を拾う。

 「噂で耳にしたことがあって、琴音の─ああ、この子、琴音って言うんですけど、琴音の話を聞いてたら、ぴったりなんじゃないかなって思って」

 「琴音? あ、やっぱり……」

 「知ってます?」と雪穂。

 「はい。僕も同じ大学なんで。去年、ミスコンに出てましたよね?」

 青年に目顔で尋ねられ、私は「ええ、まあ」と肩をすくめる。

 たしかに、私は昨年の学祭でミスコンに出場した。正直一ミリたりとも興味はなかったし、なんなら「時代錯誤も甚だしい下品な催し」として冷めた目で見ていたくらいなのだけど、どこかの誰かさんが推薦してくれたらしく、サークルの仲間たちも「ミスコンメンバーがいるのは来年の新歓で宣伝になるから!」と鼻息を荒くしていたので、渋々引き受けることにしたのだ。

 当然ながら、雪穂には事前に相談した。

 ─いいと思う。やりなよ。

 ─たった一度の学生生活、謳歌しないと損でしょ。

 いつも通りスマホの画面に視線を落としたまま、いつも通り熱量低めのトーンで言われた。これが最後のひと押しになった。なるほど、実はそこまで肩肘張るようなイベントでもないのかもしれない。だったらまあ、お気楽に出てもいいかな。サークルの宣伝を買って出たと思うことにしよう。

 結果は六人中五位。なにを投稿すればいいのかよくわからず、途中から面倒になってしまったせいで告知用のSNSアカウントは開店休業状態だったし、全然やる気があるように見せていなかったから妥当な結果ではあるんだけど、それでも学内ではある程度知られた存在になり、現に今日の日中も学食でチラチラと男子学生たちからの好奇の視線に晒されてしまった。いずれにせよ、同じ大学だという目の前の彼が私を知っていても、なんら不思議ではないことになる。

 「まあ、それはいいとして」と青年は居住まいを正した。やたらとミスコンの話に深入りしてきたり、大学生男子特有の下心ありありの視線を送りつけてきたりせず、あくまでビジネスライクな姿勢に好感を持つ。

 「こちらを注文されたということは、〝浮気調査〟ということで間違いないですか?」

 「そうです」

 雪穂曰く、その”店”には変わった特徴があるのだという。

 いわゆる”ゴーストレストラン”─客席を持たず、デリバリーのみで料理を提供する飲食店で、アプリ上には様々な店名があたかも別個の店であるかのように掲載されているが、実際はすべて同一の調理場で作られたもの。そして、数ある店の中から”ある特定の商品群”を注文すると、”店”に対して様々な依頼をかけることができるのだとか。例えば「サバの味噌煮、ガパオライス、しらす丼」で”人探し”、「ナッツ盛り合わせ、雑煮、トムヤムクン、きな粉餅」で”謎解き”みたいな。今回の「梅水晶、ワッフル、キーマカレー」は”浮気調査”を依頼する”隠しコマンド”なのだという。

 それらを注文すると、通常のフードデリバリーサービスと同様、まずは配達員が指定の場所に商品を届けに来る。が、これは一種のカムフラージュで、実際はその場で行う”事情聴取”が本題である。どんな依頼なのか、どんな経緯で依頼に至ったのか─そうした情報を根掘り葉掘り聞きだし、配達員はすぐさま”店”に舞い戻る。と、あら不思議。その”店”のオーナーが、ものの見事に依頼者の悩みを解決してくれるのだとか。

 ちなみに、少々─いや、かなり懐には痛手を被ることになる。先の「梅水晶、ワッフル、キーマカレー」は単品でそれぞれ一万円なので、三つ同時に注文すると総計三万円になるのだ。しかも、これはあくまで”着手金”にすぎず、なんなら”成功報酬”はさらに高額になることもざらなんだとか。

 当然、私は難色を示した。いくらなんでも前金で三万円なんて払えっこないし、ましてやそんな得体の知れない”店”に頼るなんて正気の沙汰じゃない。絶対、詐欺に決まってる。さっさと消費者センターに通報したほうがいい。いや、こういう場合は警察? 知らんけど。そうやって熱弁を振るってみせると、雪穂は「気持ちはわかるけどさ」と苦笑しつつ、こんな提案を寄越してきた。

 ─じゃあ、こうしない?

 ─まず、私が言い出しっぺとして注文する。

 ─で、実際にその目で確認して、琴音が納得できたら後で折半にする。

 ─どう?

 まあ、それならいいかな……と思えた。むしろ、そこまで親身に、真剣に私の悩みと向き合ってくれていることが嬉しかった。人が話している最中にスマホを弄るような不躾な面はあるけれど、やっぱりなんだかんだいって大学で一番の親友だ。半額の一万五千円でも貧乏学生には相応の痛手だが、雪穂との新たな思い出をその金額で買ったと思えば受け入れられないわけでもない。そんなこんなで雪穂がアプリから注文し、私の家を配達指定先にし、こうしていま、三人で私の部屋に集っているというわけだ。

 「正確には”浮気”かどうかも怪しいんですけど……」

 煮え切らない調子で、私は学食で雪穂にした話を繰り返す。半年前に浮気した彼が、最近また怪しい動きを見せていること。夜な夜なビーバーの配達と称してマンションの一室に足?く通っていること。ただの配達であるはずなのに長時間滞在することもざらにあること。そして、マンションを辞去するや否や一心不乱に六本木を目指したこと。

 「─だいたいこんな感じです」

 私が話を締め括ると、配達員の彼は微妙な笑みを口元に浮かべた。

 ええ、はい、そんな顔にもなりますよね。あなたの気持ちもよーくわかります。くだらない?をつくバカな男だと思っただろうし、一度目の浮気が発覚した時点で別れなかった私も同じかそれ以上のバカに違いない。

 「あの……」と彼は躊躇いがちに切り出した。

 いまから自分が話す内容を吟味するかのようにいったん口を噤み、やがて決心がついたのか、こう続ける。

 「気付きませんか?」

 「はい?」

 「いまのお話とほとんど同じことを、僕がしてるってことに」

 「へっ─」

 眼前に立ち込めていた霧が薙ぎ払われ、いっきに視界が晴れ渡り、雲間から覗いた青空に稲光が走る。まさに青天の霹靂というやつだ。

 「その彼氏さんも、僕と同じ仕事をしているのでは?」

 「なるほど……」

 たしかに、それならすべての辻褄が合う気がする。

 事実、彼は謙介の不可解な行動に一つひとつ説明を付けていく。

 「まず、”店”の営業時間は夜の十時から翌朝の五時まで。依頼内容によっては─例えば”謎解き”の場合には、内容の聴取に一時間以上かかることもざらにあります」

 謙介が”妙な動き”を見せるのは決まって夜の十時以降。滞在時間は短いと一時間ほどで、長いときは朝までのこともある。それはすなわち、依頼内容の軽重によって生じている差ではないか。

 「また、素性がバレるのを嫌って、自宅ではない場所を配達先に指定する依頼者さんも一定数いらっしゃいます」

 例の『ボヤージュ三田』はほとんどの部屋がエアビーに利用されている。つまり、そこを配達先に指定すれば、依頼者側は配達員に対して身バレするリスクを極力減らすことができるというわけだ。

 「毎回『ボヤージュ三田』を利用する常連さんがいるか、もしくは『ボヤージュ三田』が界隈で知られているのかもしれません。”店”から近くて、落ち合うのに最適なマンションとして」

 ばらばらに偏在していた疑問の小島に、次から次へと橋が架けられていく。

 筋は通っているし、いまのところツッコみどころはない。

 「それに、配達員はオーナーから直々に釘を刺されているんです。『この”店”のことを口外したら命はない』って」

 「はい?」

 思わず鼻で笑ってしまうが、表情を窺うに、どうやら彼はその言葉を信じ込んでいるようだった。子供騙しでしょ、というか、子供騙しにすらなっていないでしょ─とは思うものの、いずれにせよ、そうだとすれば謙介の頑なな姿勢も頷ける。

 ─マジで、信じてほしい。

 ─詳しくは言えないんだけど、あくまで配達なんだ。

 命がないかもしれないなら、言えなくて当然だ。

 「で、マンションから出てきた彼氏さんは、そのまま一目散に六本木へ向かったんですよね?」

 「そうです」

 「僕もこの後、六本木の”店”に舞い戻らないといけません」

 「私の依頼内容を報告するために?」

 「はい。まあ、もはや報告する必要あるんだろうか……と思っちゃいますけど」

 「たしかに」

 それとなく視線を送ると、傍らの雪穂は必死で笑いを堪えているのだろう、眉根にぎゅっと力を入れているように見えた。笑っちゃ申し訳ないけど、でも、このあっけないオチはなに─部屋にいるのが私たち二人だけなら、そうやって大口開けて爆笑したに違いない。

 そこから部屋の空気は見る間に弛緩し、肩の荷が降りた私は、いくつか興味本位で彼に尋ねてみることにした。いや、正確には完全に肩の荷が降りたわけではなく、むしろ一抹の違和感を抱き始めてもいたのだけど、いったん棚上げすることにした。

 「ちなみに、儲かるんですか?」

 彼は困ったように眉を寄せつつ、まあ、はい、と頷いた。

 「具体的な金額は言えない─というか、言っていいのかどうかわからないので言いませんけど、普通のバイトよりは格段に」

 「へえ、いいなあ」

 「僕もこの近くで一人暮らしをしてるんですけど、親からは学費以外の援助を絶たれてしまっていて。でも、生活費とか交際費とか、いまは特に困っていません」

 「すごい、そんなに……」

 だったら、私もやってみようかな。実家からの仕送りは、少なくはないけど十分ではないし、かといって無制限にかじり続けられるほど太い脛でもない。もう二十歳になるわけだし、ある程度は自分の力で稼いで、いろいろ工面しないといけないのかも。

 あ、そうそう。

 全然関係ないけど、もう一つ訊きたいことがあったんだ。

 「もしこれが”謎解き”の依頼だと、もっと高額になると聞いたんですが」

 いまのところ使う予定はないけど、もしかしたらこの先あるかもしれない。

 興味津々の視線を送りつけると、彼は「ええ」と顎を引いた。

 「そうですね。単品で二万五千円の商品を四つ─ナッツ盛り合わせ、雑煮、トムヤムクン、きな粉餅という地獄の食べ合わせの四品を頼む必要があるので、”着手金”だけで十万円になります」

 「ひえー」

 眩暈がする。いったい、どんな大富豪なら注文できるのだろう。それとも、世の中にはそれくらいの出費も厭わないほどの悩みを抱えた人が案外多くいるのだろうか。

 と、ここで「あっ」と彼は声を上げた。

 「ちなみに、今回の”着手金”はどうされたんですか?」

 「はい?」どういう意味だ?

 「いや、三万円って、普通の大学生が気軽に払える金額ではないじゃないですか」

 「ああ」そういうことね。

 「割り勘にしたんです」と雪穂が久しぶりに口を開く。

 「正確には、まず私が全額支払って、琴音も納得がいったら最後に割り勘するって。この子、『そんな”店”怪しいに決まってる!』『絶対詐欺だ』って決め付けてたんで」

 「なるほど、お二人は仲良しなんですね」

 その流れで、私と雪穂、私と謙介の馴れ初めを搔い摘んで話すことにした。いつどのように出会い、いまに至るのか。正直「蛇足だよなぁ」とは思ったけれど、彼はときおり私の発言をスマホにメモしながら、ふむふむ、と頷いている。いわゆる”傾聴力”ってやつだ。大好きな雪穂に、唯一欠けている部分。

 彼は納得したように頷き、というわけで、と居住まいを正した。

 「どうしましょうか。普通ならこの後、合言葉を決めるんですが─」

 曰く、”店”からの解答は、その合言葉を冠したメニューを注文することで依頼者側に届けられる仕組みになっているらしい。掲載されるのは『汁物 まこと』という店の商品ラインナップの一番下で、「合言葉+○○スープ」となるのがお決まりだという。

 すかさず雪穂がスマホを取り出し、なにやら検索し始める。さすがの機動力だ。

 「あ、これか」

 雪穂が「見てみ」とでも言いたげに、スマホをさし出してくる。

 たしかに『汁物 まこと』という店は実在していた。そして、これまたたしかに、ラインナップの最下部あたりに妙な名称のスープがいくつも並んでいた。例えば「去る者は追わずのオニオングラタンスープ」とか「乾坤一擲フカヒレスープ」とか「異常値レベルの具だくさんユッケジャンスープ」とか。値段はオーナーの気まぐれで決まり、言い値がそのまま本件の”成果報酬”となるらしい。

 「え、これとか百万円って書いてありますけど!」

 私が指さしたのは「異常値レベルの具だくさんユッケジャンスープ」だった。あまりに信じ難かったので、何度も「一、十、百、千─」と数え直してしまうが、何度数えても金額は百万円のままだ。

 「まあ、そういう場合もあります」

 彼は当たり前みたいに言い、で、どうします? と首を傾げた。

 「ほとんどこの場で解決してしまったと言えそうですが、それでもいちおう、通常の流れ通り”合言葉”を決めますか?」

 「うーん」

 雪穂にスマホを返すと、私は腕を組み、天井を見上げる。

 さすがに今回の相談内容で”成功報酬”が百万円になることはないだろうけど、その他のスープを見る感じ、少なくとも万単位の金額になるのは間違いなさそうだ。金額次第では払えないこともないけれど、払わずに済むならそれに越したことはない。

 私が黙考していると、隣の雪穂が「あの」と口を挟んだ。

 「”合言葉”を決めないっていうのもアリなんですか?」

 「まあ……」と彼は自信なさげに首を捻る。

 「前例はないですが、それがご希望ならそれでもいいかな、と」

 「じゃあ、それでいいんじゃない?」

 雪穂が私に視線を移す。当然の提案だ。いや、”提案”というより”懇願”─あるいは”勧告”に近いかもしれない。なぜって、二人で割り勘にすると約束した以上、”成功報酬”も当然その対象になるからだ。仮に”成功報酬”が五万円だとしたら”着手金”の三万円と合わせて一人四万円。次の公演に向けてこれからスタジオ代やら衣装代やら出費も嵩むことが予想されるし、財布に大打撃を被るのは間違いない。

 「あの……」と今度は私が尋ねる。

 「いちおう”合言葉”を決めたうえで、実際の金額を見てから注文するかどうか決めるのも、それはそれでアリなんですよね?」

 「まあ、それはいいと思います」

 「じゃあ、そうします」

 ちらっと視線を送ると、雪穂は「マジ?」と怪訝そうな目で私を見ていた。その割り勘には絶対加わらないよ─と言いたいのかもしれない。まあ、そうなったら割り勘は”着手金”だけでも構わない。金額次第では、私が一人で”成果報酬”を払おうと思う。

 正直なところ、私はオーナーとやらの解答に興味があった。

 見たこともない”彼”の出す答えが知りたかった。

 どうしてそんな気になったのかはよくわからない。できるだけ出費を抑えたいのは本心だし、謙介の妙な行動にもいちおう納得のいく説明が付いたと思っている。であれば、これにて一件落着と言っていいはずなのだ。

 が、なにかに引っ掛かりを覚えているのも間違いなかった。完全に肩の荷が降りたわけではなく、一抹の違和感が胸の奥で燻っていた。

 こんなスムーズに解決するんだろうか、って。あまりにも都合よすぎやしないか、って。

 理屈ではなく、あくまで直感にすぎないけど。

 「それじゃあ、問題の”合言葉”ですが─」

 「”浮気男と間抜け女”でお願いします」

 「承知しました」

 彼は眉一つ動かさずに言うと、おもむろに立ち上がり、配達バッグを手に取った。

 「あ、それと……」なにかを思い出し、彼は動きを止める。

 「なんでしょう?」

 「あくまで”店”のルールだからお願いするんですけど……」

 やたらと歯切れが悪い。

 「なんでしょう?」ともう一度繰り返す。

 「追加で質問すべきことが出てきた場合に備えて、できたら連絡先を─」

 「ああ」そういうことね。「もちろんいいですよ」

 私はスマホを取り出し、ラインのQRコードを画面に呼び出す。

 たしかに、彼が躊躇する理由もわかる。同じ大学で、なおかつ私にはミスコンの出場歴もあって、そんな相手に連絡先を聞いたら「はい出た! 下心あり!」という烙印を押されるかもしれない。そんなふうに彼が危惧しても不思議ではない。が、ここまでのやりとりを通じて、私は彼を「信用に値する」と判断していた。それに、もしもこれから折に触れて”お誘い”が来るようなら、そのときは即ブロックすればいいだけの話だ。

 連絡先を交換し、玄関まで見送りに出ると、私の一歩後ろを付いてきていた雪穂が最後にひと言、妙なことを尋ねた。

 「ちなみに、オーナーが『もう解決した』と判断したら、例の『汁物 まこと』に”合言葉”を冠したメニューが載らない可能性もあるんですか?」

 彼は足を止め、怪訝そうに私の背後を見やる。

 「いや……どうなんでしょうね。少なくとも、僕は経験がないです」

 「なるほど、そうですか。でも、ありえなくはないですよね?」

 「まあ……ないとは言い切れないと思いますが」

 どうして? と彼の顔には疑問符が浮かんでいた。

 たぶん、私も同じ顔をしていたと思う。

 なんでそんなこと気にするわけ? 

 いったいその質問にどんな意味があるわけ?

 「これ以上びた一文払いたくない」という気持ちは理解できるし、実際、ここから先は雪穂に払わせるつもりなどまったくないけど─

 「とりあえず、諸々オーナーに報告してみます」

 颯爽と彼は去っていき、部屋には私と雪穂の二人が残された。

 微妙に気まずい、どこか?み合わないチグハグな空気とともに。

 ピーンポーン、と我が家のチャイムが鳴る。

 数日後の夜、時刻は十時過ぎ。

 私は玄関に向かい、念のため覗き穴から来訪者の出で立ちを確認する。

 立っていたのは、先日やって来た配達員の彼だった。事前に『お一人でいるタイミングに確認したいことがある』と連絡を貰っていたので、そのまま解錠し、扉を開ける。

 「夜分遅くにすいません」

 彼は頭を下げ、すぐに「このまま立ち話でいいんで」と付言した。いくら一度「信用に値する」と判断した相手とはいえ、自分一人のときに男の人を家にあげるのは抵抗があったので、ほっと胸を撫でおろす。

 「で、確認したいことというのは?」

 私が水を向けると、彼はしばし口を噤んだ後、やがてこう尋ねてきた。

 「琴音さんは、彼氏さんをどうしたいですか?」

 「はい?」

 「つまり、もし浮気だったとしたら、どうしたいですか?」

 瞬間、背筋に悪寒が走った。

 ぽかんと口を開けたまま、まじまじと彼を見つめることしかできなかった。

 間違いない。

 こう訊いてくるからには、やっぱりあれは浮気だったのではないか。

 やっぱりあの日の直感は正しかったのではないか。

 ─こんなスムーズに解決するんだろうか。

 ─あまりにも都合よすぎやしないか。

 例の疑念が再びむくむくと鎌首をもたげ始める。

 「もし浮気だったら、許しません」

 ドアに手をかけたまま、私はきっぱりと断じる。

 本来であれば”一度目”の時点で別れるべきだったのだ。それなのに、私は甘やかしてしまった。条件付きで情けをかけてしまった。それでもなお謙介が裏切るのなら、今度という今度は許さない。単に別れるだけじゃなく、なんらかの制裁を与えてやらないと気が済まない。まあ、「どんな制裁があるんだ?」と問われると困ってしまうけど。

 「なるほど」彼は頷き、さらに一段と声を落とした。「浮気相手に対しては?」

 「え?」

 「浮気相手のことはどう思いますか?」

 「そりゃまあ……ムカつきますけど、謙介に彼女がいると知らなかったなら、それは仕方ないかなと思います」

 ムカつきますけどね、と念押しのように繰り返す。

 「じゃあ、もし知っていたら?」

 「殺します」

 間髪容れずに答えた。

 子供じみた返しだし、実際殺せるはずもないのだけど、それくらいの心意気なのは間違いない。

 「わかりました」

 彼は頷き、では、と続ける。

 「一つ提案があります。理由はまだ聞かないでください」

 その凍てついた声音に、ぞわっと全身に鳥肌が立った。こちらを見据える二つの瞳はまるで”洞”のようで、底知れない”虚空”に通じていた。この人……本当にこの前と同じ人? 本当に大学生? 本当に同じ大学の、同世代の男子? そう疑問に感じてしまうくらい、全身から言い知れぬ殺気が漂っている。いったいぜんたい、これまでにどんな修羅場を潜ってきたのだろう。”店”に持ち込まれる依頼の数々は、ごく普通の大学生にこんな空気を纏わせてしまうくらい苛烈で凄惨なものなのか。

 身震いする私をよそに、彼はその”提案”とやらを口にした。

 「─してください」

 「は? どういう意味ですか?」

 「いかかでしょう?」

 まっすぐに射竦められ、私はまた首筋の産毛が逆立つのを感じる。

 どういうこと? 

 なんでそんなことをする必要が?

 私の困惑を察したのか、彼は「決定打です」と言った。

 「これが、決定打になる可能性があるんです」

 いったいなんの?

 というか、どうしてこれが?

 疑問符の海で溺れながらも、私はその”提案”に応じることにする。

 ありがとうございます、と目礼しつつ、彼は「ちなみに」と補足した。

 「このことは誰にも言わないでください」

 「え?」

 「いいですか?」

 有無を言わさぬ空気に、私は「わかりました」と頷くほかなかった。

 「僕からは以上です。では、メニューが掲載されるまでお待ちください」

 この前と同じく、彼はそのまま颯爽と身を翻した。

 一人ポツンと取り残された私は、やがて思い出したように扉を閉め、すかさずスマホを取り出す。

 雪穂からラインが来ていた。

 『その後どう? 彼から連絡はあった?』

 『いちおうあれから毎日見てるけど、まだメニューには載ってないね』

 耳の奥では、先ほど彼が遺していった言葉がいまだに反響し続けている。

 ─このことは誰にも言わないでください。

 そしてその声に、聞いたこともないオーナーとやらの声が重なる。

 ─この”店”のことを口外したら命はない。

 すぐさま雪穂に返信する。

 『連絡はない』

 『忘れられちゃったのかな(笑)』

 すぐに既読が付き、「やれやれ」と呆れ顔の熊のスタンプが返ってきた。

 『そっか』

 『まあ、あれで解決ってことだね!』

 いや、そうじゃない。

 絶対、この一件には裏がある。

 でも、仮にそうだとしても、彼の”提案”の意味がまったくわからない。

 ─理由はまだ聞かないでください。

 「まだ」ということは、いずれ詳らかになるのだろう。

 当事者であるはずの私は蚊帳の外に置かれ、ただひたすらその日を待つしかない。

 彼の二度目の来訪以降、またいつもと同じ毎日の繰り返しだった。講義に出て、空きコマは雪穂と時間を潰して、その後はダンスの練習に励んで、同じユニットのメンバーたちと飲みに行って─唯一変わったことと言えば、謙介がやたらと私の家に入り浸るようになったことくらい。最近は互いに忙しく、彼が私の家に来るのは週二回程度まで減っていたのに、なぜかここにきて毎日べったり離れようとしなくなったのだ。

 ─”会いたい期”なんよ、ちょうどいま。

 とかなんとか適当な言い訳をしていたけれど、私の読みでは、たぶん雪穂がなんらかの入れ知恵をしたのだと思っている。サークルの同期だし、雪穂と謙介も当然ながら親交がある。ねえ、あんた最近妙な動きしてるでしょ? 琴音が怪しんでたよ、もう少しちゃんとしなって─みたいなおりがあったのかもしれない。というか、このタイミングでのこの変わりようはそれ以外に考えられない。

 そんなわけでこの数日、私は常に誰かと一緒にいた。日中は雪穂や同じユニットの仲間たち、夜は謙介。とはいえ、その合間に『汁物 まこと』のページを確認するのも怠らなかった。もちろん、相手が席を外しているタイミングや、一人でトイレの個室に籠った瞬間を狙ってだ。

 お値段百万円の「異常値レベルの具だくさんユッケジャンスープ」だけは相変わらず掲載され続けていたものの、それ以外のスープは瞬く間に消え、また別のスープがすぐさま姿を現した。どんだけ盛況な店なんだよ─と苦笑してしまうが、なんにせよ、いっこうに「浮気男と間抜け女の○○スープ」が掲載される気配はない。

 「完全に忘れられてるね」

 雪穂も気にかけてくれていたようで、折に触れては私の面前でスマホを弄り、眉を八の字にした。

 「だね」と首肯しつつ、それでもやっぱり、タイミングを見計らって『汁物 まこと』のページに飛び続けた。

 動きがあったのは、彼の二度目の来訪から五日が経過したある夜のこと。

 スタジオでの深夜練が終わり、身支度のついでにスマホを開いた私は、ついにその商品を見つけてしまったのだ。

 『今度こそ許すまじ春野菜といんげん豆の冷製スープ』

 お値段、なんと二千円─一杯のスープとしてはいささか高値だけど、予想していたよりもはるかに安い。本当にこの値段で良いのか、と逆に不安になってしまう。いずれにせよ、これならいまの私でも─割り勘でなく私一人だとしても払えない金額じゃない。

 私は迷わず「注文」をタップした。

 「お待たせしました」

 学食の隅の一席で待っていると、やがて配達員の彼が姿を見せた。シンプルなパーカーにシンプルなデニムという、雑踏に紛れたら二秒と経たずに見失いそうな装いだった。少なくとも、この前我が家の玄関先で見せた異様な気配は微塵も感じられない。ごくごく普通の、まったく特徴のない男子大学生にしか見えない。

 彼は私の対面に掛けると、なんとも微妙な表情で私を見つめてきた。

 『すみません、明日の昼、学食で会えませんか』

 彼にこのようなラインを送ったのが、昨日─『今度こそ許すまじ春野菜といんげん豆の冷製スープ』を注文し、配達員がそれをうちまで届けに来て、商品と共に梱包されていた怪しげなUSBメモリを自分のノートパソコンにぶっ挿し、その内容に目を通した直後のことだった。

 USBメモリには、ファイルが一つだけ入っていた。

 『調査報告』というシンプルで味気ないファイル名が、すこぶるよそよそしくて不気味だった。

 貪るように視線を走らせ、やがて読み終えた私は、しばらくの間放心するあまり身じろぎ一つできなかった。衝撃的で、怒りが湧いてきて、なにより悲しかった。

 その後、三人に相次いでラインを送った。謙介と雪穂、そしていま目の前に座っている彼に、だ。

 「報告資料、読みました」

 「なるほど」

 彼は曖昧に頷きつつ、それ以上は語を継がなかった。あくまで私が続けるのを待っているのだ。

 「信じられませんでした」

 「でしょうね」

 「まさか、謙介と雪穂が浮気していたなんて」

 報告資料には、そのカラクリが克明に記されていた。

 「まさか、あの日の注文が最初から仕組まれていたなんて─」

 そのカラクリというのは、次の通りだ。

 謙介と雪穂は、例の『ボヤージュ三田』の一室で短時間ながら頻繁に逢瀬を果たしていた。彼の位置情報を把握している私は当然のように疑いを持ち、まずは謙介に詰め寄る。が、彼は「配達の一環だ」という主張を崩さない。業を煮やした私は雪穂に相談を持ち掛け、雪穂は「それなら依頼してみる?」とあの”店”のことを話題に出す。渋々ながら応じた私は、その後やって来た配達員から「その彼氏さんと同じことをいま自分がしています」と指摘され、納得する─という筋書きだったのだ。

 むろん、いま目の前に座っている配達員の彼は、謙介・雪穂の二人と結託していたわけではない。なにも知らずに届けに来て、相談内容を聴取したなら─”店”に出入りする配達員であれば、誰もがすぐにピンと来るはずなのだ。

 ─気付きませんか?

 ─いまのお話とほとんど同じことを、僕がしてるってことに。

 ─その彼氏さんも、僕と同じ仕事をしているのでは?

 そうして、私はまんまと納得してしまった。少なくとも「辻褄は合うな」と思わされてしまった。

 逢瀬の際、私自身、あるいは共通の知人が目撃している可能性を危惧し、あえて謙介は配達員の身なりをしていたという。また、私が位置情報アプリで逐一追っている可能性を考慮して、逢瀬の後はわざわざいったん六本木まで舞い戻ったらしい。こうして、謙介は外形上「”店”に出入りする配達員」とまったく見分けがつかなくなったわけだ。

 報告資料によると、実際、謙介は”店”に出入りしていたとのこと。だからこそ、こういう形での浮気を着想したのだ。あえて私に疑いを持たせ、自然な成り行きで”店”に誘導し、ランダムに割り当てられた配達員という第三者の手で”無実”を証明する。いったん証明してしまえば、今後は気を揉む必要もない。位置情報アプリで場所を握られていようが問題ない。そうして、謙介と雪穂は密かに手を組んで私を欺いたのだ。

 「ただ、いまだに納得がいっていないこともあります」

 私が首を捻ると、彼は「でしょうね」とでも言いたげに眉を下げた。

 「オーナーは、どうして見抜いたんですか?」

 彼はしばし黙考し、やがて静かに口を開いた。

 「きっかけは二つあります。一つは、お二人が注文に至った経緯です。現場でおっしゃってましたよね? 最初はいったん雪穂さんが全額立て替えることにしたって─」

 「ええ、まあ」

 たしかに、あの場で雪穂は言った。

 ─割り勘にしたんです。

 ─まず私が全額支払って、琴音も納得がいったら最後に割り勘するって。

 「オーナー曰く、それはいささか不自然だろう、とのことでした。友人の彼氏が浮気していて、それに憤るのは自然だとしても、だからってそこら辺の大学生がぽんと三万円を立て替えるだろうか─後で割り勘にするとしても、一万五千円を気安いノリで支払えるだろうかって」

 「たしかに」

 いまになってみれば、私もそう思う。というか、当時から「公演を控えていて今後しばらくサークル絡みの出費が予想される中、よくそこまで身銭を切ってくれるな」と思ってはいた。しかも、別に雪穂はお金に困っていないわけではない。その証拠に、出会った日に「仕送りだけでは厳しいからバイトを始めたい」というやり取りで意気投合したではないか。

 もう一つは、と彼は声を潜める。

 「最後の雪穂さんの質問です。覚えてらっしゃいますか?」

 「もちろんです」

 ─オーナーが『もう解決した』と判断したら、例の『汁物 まこと』に”合言葉”を冠したメニューが載らない可能性もあるんですか?

 あれには私も困惑を隠せなかった。どうしてそんなことを尋ねるのか、その真意はどこにあるのか。いや、まず間違いなく「これ以上びた一文も払いたくない」という意思表示なんだろうとは思ったけど、それにしても異常な執着と私の目には映った。

 「あれは、あなたに『そういう可能性もある』と刷り込むのが目的です」

 「はい?」

 どういう意味だ?

 「注文が入った以上、オーナーはどんな案件であれ絶対に答えを出します。気まぐれで解答しないなんてことは、絶対にありえません。必ず”答え”を提供するんです」

 なんせシェフですから、と彼は言い添えた。その声音には、尊敬と畏怖の念が半分ずつ同居していた。

 「ただ、そのことを一見さんのあなたは知る由もありません。だから、そういう可能性もあるかな、と思うのが当然です」

 「ええ、まあ……」

 たしかに、あのとき「そんなわけないでしょ」と抗弁できるほどの材料は私の手元にいっさいなかった。すこぶる怪しい”店”だし、瞬く間に謎を解決するオーナーシェフというのも随分といかがわしいし、だからこそ有耶無耶のまま立ち消えてしまう可能性もゼロではないのかも、と思った。

 「さて、ここからは雪穂さんの身になって考えてみましょう。謙介さんと今回の作戦を立案し、まんまとあなたを嵌めることに成功し、だけど最後に一つだけ障壁があるのに気付きますか?」

 「障壁?」

 なんだろう。

 にわかに思い付かない。

 一拍の空隙を挟んだ後、彼はきっぱりと断言した。

 「オーナーです」

 「え?」

 「依頼を受けた以上、オーナーは謎の解明に向けて動きます。どんな謎もオーナーの手にかかればすぐに丸裸にされ、未解決のまま終結することはありえません。つまり、この依頼が”店”に持ち込まれると、オーナーは『謙介さんと雪穂さんが浮気している』という彼らが隠蔽したいはずの結論に辿り着いてしまうんです」

 「ああ、なるほど……」

 そうなると、その報告は”合言葉”を冠したメニューとして『汁物 まこと』に掲載されることになる。そして、もしそれを私が注文してしまったら、いっさいの計略が白日の下に晒されてしまう。

 「でも、それでは本末転倒です。”店”を利用して浮気を隠蔽するはずが、逆に”店”のせいでその事実が暴かれてしまうわけですから。よって、雪穂さんと謙介さんはなんとしてでもあなたより先に『浮気男と間抜け女の○○スープ』を注文しなければならなかったんです」

 言われて、思い出したことがある。

 ─”会いたい期”なんよ、ちょうどいま。

 謙介はここ最近、ずっと私にへばりついていた。いつもは週二日くらいなのにもかかわらず、毎日のように私の家に入り浸っていた。

 なぜか?

 ─じゃあ、俺も琴音といるときはそうするわ。

 ─彼氏として。

 私にスマホを弄らせないためだ。誰かと一緒にいるとき、私は極力スマホを弄らないようにしている。つまり、私と一緒にいることで、自然と私をスマホから遠ざけることができるのだ。日中はずっと雪穂と一緒にいるから、謙介はその間『汁物 まこと』に目を光らせることができる。反対に、夜はずっと謙介と一緒にいるから、雪穂はその間『汁物 まこと』を監視することができる。そうして私に先んじて『浮気男と間抜け女の○○スープ』を頼んでしまえば、どうなるか?

 ─完全に忘れられてるね。

 雪穂は折に触れてこうぼやいていた。あのとき、もしかすると既に彼女たちは注文を終え、密かにほくそ笑んでいたのかもしれない。これで永遠に真相は闇の中だ、と。残念でした、すべて平らげてしまったよ、と。

 「だからこそ、あの提案を持ち掛けたんです」

 ─一つ提案があります。理由はまだ聞かないでください。

 あの日、私は彼から次のような提案を受けた。

 ─他の”合言葉”を指定してください。

 有無を言わさぬ勢いで「このことは誰にも言わないでください」と念押しされ、とどめに「これが決定打になる」とも言われた。その意味がようやくわかる。

 「雪穂さんの知らない”合言葉”である必要があったんです」

 それは、一種の”罠”だった。

 まず初めに、オーナーは「浮気男と間抜け女」を”合言葉”に据えたスープを『汁物 まこと』のメニューに掲載したという。お値段なんと五万円─「今度こそ許すまじ」の二十五倍という法外な値段だったが、それにもかかわらず、掲載からものの数分と経たないうちにそれはオーダーされたらしい。当然、私はそのスープが掲載されていた事実を知らない。折に触れて『汁物 まこと』のページには飛んでいたけれど、一度もそのスープの存在は目にしていない。つまり、私が確認する前にどこかの誰かさんが先んじて注文したことになる。じゃあ、それはどこの誰なのか? そんなの火を見るよりも明らかだ。

 「案の定、注文者は雪穂さんだったようです。その配達を請け負った配達員にオーナーが確認したので、これは間違いありません」

 そして、その後すぐに”本命”のスープが掲載されたわけだ。

 『今度こそ許すまじ春野菜といんげん豆の冷製スープ』─私の新たな”合言葉”を冠した商品が。雪穂も謙介もこれが新たな”合言葉”だとは知らないので、当然ながら気に留めるはずもない。すべてうまくいったと胸を撫でおろしていたことだろう。

 「オーナーの手心ですかね」

 眦を下げながら、彼は呟いた。

 「手心?」

 「”成功報酬”の回収は『浮気男と間抜け女』に任せて、被害者である琴音さんからはほんのお気持ち程度頂戴することにしたんでしょう」

 「それは……」

 ありがとうございます、と蚊の鳴くような声で絞り出す。

 いずれにせよ、と彼は居住まいを正した。

 「こうしてオーナーは、”店”のルールを応用することで、雪穂さんと謙介さんが黒幕だと明らかにしたわけです」

 「なるほど……」

 凄い、と唸るしかなかった。

 些細な言動から相手の思惑を読み解くだけではなく、”店”のルールを熟知しているであろう相手だからこそ、あえて”店”のルールを利用して真っ向勝負を挑んだのだ。

 で、見事に勝った。

 雪穂と謙介の謀を暴き、そして─

 「二人はどうなったんですか?」

 実を言うと、これこそが本日の本題だった。オーナーがどうやって二人の企みを見抜いたのかも疑問だったけど、それ以上に、どうしてもこの点をはっきりさせないわけにはいかないのだ。

 なぜか?

 報告資料に目を通した後、私は雪穂にラインを送った。罵詈雑言を投げつけるのではなく、ただ『どうして?』とだけ。そうして返ってきたのが、次の連投だった。

 『ごめん。本当にごめん』

 『羨ましかったんだ』

 『ミスコンにも選ばれるくらい可愛くて、みんなの人気者で』

 『一番の友達だけど、誰よりも嫉妬してたんだ』

 『だから、つい』

 『本当にごめんね』

 瞬間、いつかの雪穂の姿が脳裏にちらついた。

 ─いいと思う。やりなよ。

 ─たった一度の学生生活、謳歌しないと損でしょ。

 いつも通りの仕草、いつも通りの熱量─それに私は安堵し、実際それが最後のひと押しになった。でも、実はあのとき雪穂の胸中ではまったく異なる感情が渦巻いていたのだろうか。それを表に出すまいと、あえていつも通りを貫いていたのだろうか。

 なんにせよ、この返信以降いっさい音沙汰はない。

 続けざまに送り付けたメッセージには既読もつかないし、なんなら大学にも顔を出していない。

 謙介も同様だ。

 『謝罪の言葉もない。ごめんなさい』

 それっきり返信はなく、既読もつかなければ、大学に顔を出してもいない。

 サークルの仲間たちも心配し、あの手この手で接触を試みているけれど、いっこうに足取りは掴めないという。

 「最初の晩に、言いましたよね」

 彼は神妙な面持ちで、口を開いた。

 「僕たちは皆、オーナーから釘を刺されているって」

 刹那、あの日の子供じみたひと言が鮮明に蘇った。

 ─「この”店”のことを口外したら命はない」って。

 ゾワッと全身が寒気に襲われ、わなわなと唇が震え始める。

 が、彼は淡々とした口調を崩さない。

 「少なくとも、そのルールに謙介さんは違反したことになります」

 たしかに、そういうことになる。私を欺くために”店”のルールを利用し、それを雪穂にも伝えたのだ。まさしく「口外」以外の何物でもない。

 「謙介さんは、オーナーを甘く見ていたのかもしれません」

 彼は私から視線を外し、遠くを見るように目を細めた。

 「冗談、戯言、子供騙し、しょせん口だけ─そんなふうに高を括っていたのかもしれません。実際、僕も初めのうちは『嘘だろ』って思ってましたし」

 でも……とは続かなかったけれど、その視線の先には「やっぱり噓ではないのかもしれない」と思わざるをえない、なんらかの決定的な”光景”が映っている気がしてならなかった。

 「生きてますよね?」

 私はあえて声に出して聞いてみた。こんなことを実世界で言う日が来るなんて、夢にも思っていなかった。

 「ショックなのか、反省の意なのか……とにかく、塞ぎ込んで単に連絡を絶っているだけですよね?」

 彼は眉を下げ、首を横に振るばかりだった。

 同意とも否定ともつかない、曖昧な仕草だった。

 胸騒ぎ、焦燥感、そして一抹の罪悪感が私の胸に充満し始める。

 ─もし、どうしても気になるなら依頼してみる?

 ─噂で聞いたんだよね。面白い店があるって。

 ねえ、雪穂。答えて。無事なの?

 あなたのしたことは許せないけど、でも、せめて返事だけはして。

 お願いだから。

 一生のお願いだから。

 ─浮気相手のことはどう思いますか?

 ─謙介に彼女がいると知らなかったなら、それは仕方ないかなと思います。

 ─もし知っていたら?

 ─殺します。

 まさか、そんなわけないよね? 依頼者である私の意向を尊重したなんて、そんなバカなことありえないよね?

 でも、そんなバカみたいな”店”はたしかに実在したではないか。

 その”店”を司る、得体の知れないオーナーとやらも。

 ─ゴーストレストランなんだって。

 ─どう? 興味ある?

 食堂のざわめきを縫って、あの日の雪穂の声が遠くのほうから聞こえた気がした。