二十世紀最大の独裁者、ヒトラーがどのようにして生まれたのかを克明に描き出した佐藤賢一さんの『小説 ヒトラー』。
今月刊行する第Ⅲ巻「大戦篇」で遂に完結します。
監修者として本書に関わった東京女子大学教授の柳原伸洋さんと佐藤さんのお二人に、歴史小説家と歴史学者、それぞれの立場から二十世紀の歴史、そして本作の背景を語っていただきました。

構成/増子信一 撮影/上澤友香

事実を分析する歴史学と人間を書く歴史小説

――柳原さんには「小説すばる」の連載時から本作をお読みいただいていました。事実としての歴史と、フィクションが描く歴史との違いをどのように考えていらっしゃいますか。

柳原 私の研究テーマは「空襲・空爆」で、都市内部の民間防空団体の組織化・動員・活動を分析しています。研究では、誰々は何を食べたか、何を話したかといったディテールはないんですね。小説は、その辺りを台詞せりふとともに埋めていく。そこが決定的に違っていて、だから今回、こういう形で関わらせていただいて――私としては「監修」というのは畏れ多くて、コメントを出したに過ぎないのですが――、とても勉強になりました。
佐藤 結局、フィクション、小説というのは人間を書くものだと思うんですね。だから、歴史学者と同じ事実を出してきても、それを通してぼくが書きたいのは「人間ってこういうものなんだ」ということなんです。ヒトラーであれば、二十世紀の前半から中盤にかけて生きたわけですけれど、その時代を超えて、疎うとましいところ、嫌なところを含めて彼の人間としての普遍性を引っ張り出して書くというのが小説だと思っています。
 それに対して、歴史学でヒトラーあるいはエン・エス(ナチス)を扱う場合は、二十世紀の前半にこういう人物がいて、こういう組織があり、こういう時代があったという一回きりの事象を他の時代と比較しながら書くということだと思います。そこの違いは常に意識していますが、ヒトラーがその時代の状況の中でどういう行動をどうして取ったのかという歴史的なところも分かっていないと普遍的なところも書けない。ですから、歴史学の研究を常に拠よりどころとしています。
柳原 今おっしゃったことに関わらせると、歴史学で扱う過去は一回きりなんです。ただ昨今、日本の歴史教育が刷新されて「歴史的な思考力」が問われるようになってきました。歴史的な思考とは、史料を歴史の前後関係などから、いかに文脈づけるかという能力です。
 私たちがやっている歴史学というのは、まずは史料をたくさん集めてくることがベースになります。史料を一本一本の木にたとえると、木をたくさん集めてくれば林や森が出来上がる。ここまではコレクター、コレクションしてるだけです。けれども、その「森」にどこから入って、どこを通れば森の出口にたどり着けるのかという問いを立てる。その出口、つまり結論を出すために文脈化を行い、その中から歴史的な概念や傾向を引き出してくる。たしかに過去は一回きりなのですが、この文脈化によって普遍的な概念が引き出されることもある。
 サム・ワインバーグというアメリカの研究者が『歴史的思考 その不自然な行為』という本の中で、基本的に歴史的に思考できる人は人類のほんの一握りだと書いています。つまり、過去の事象を文脈づけて考える歴史的思考というのは極めて特異な思考法だということです。私は、この思考法を支えているのは、歴史的な想像力だと考えていて、さらに過去に関心をもつ動機の多くも、たとえば佐藤さんの小説から生み出される歴史的想像力だと思います。
 私はこれまで、まず史料を集めて、そこから論を立てて問いとそれに対する応答を書くということをずっとやってきたわけですけど、今回の小説を読むと、想像力が搔かき立たてられ、歴史学へのやる気が増幅されたのです。歴史的想像力と歴史的思考は車の両輪で、歴史的想像力がないと歴史的思考もできない。この点は研究でも教育でも見過ごされてきたと思います。つまり、感情的な過去への興味の入り口はやはり必要で、その感情を刺激してくれる存在として、この『小説 ヒトラー』があり、この点、本当に感動しましたし、関われてよかったです。

佐藤賢一×柳原伸洋対談
さとう・けんいち ◉ 68年山形県生まれ。93年『ジャガーになった男』で第6回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。99年『王妃の離婚』で直木賞を、14年『小説フランス革命』で毎日出版文化賞特別賞を、20年『ナポレオン』で司馬遼太郎賞を、23年『チャンバラ』で、中央公論文芸賞を受賞。小説に『ハンニバル戦争』『最終飛行』『釣り侍』、ノンフィクション・随筆に『英仏百年戦争』『よくわかる一神教』『王の綽名』など著書多数。

戦後のイメージを排し、当時の目線でヒトラーを書く

――佐藤さんご自身は、ヒトラーを書くに当たって、どこが出発点になったのでしょうか。

佐藤 ヒトラーが死んでから八十一年経たちますが、まだ過去になりきっていない過去だと思うんですね。非常に現代性が強いので、一面で書きやすくはあるのですが、他面では、歴史的な存在としてきちんと位置付けなくてはいけないという難しさもある。そういう意味で、今までやったどのテーマよりも距離の取り方が大変でした。
 ナポレオンも、長い歴史の中ではだいぶ近い時代の人ですが、やはり現代とは違う。ヒトラーというとホロコーストの話を避けることはできませんが、ナポレオンもかなり多くの人の命を奪っている。ただ、人の命を奪うという感覚が、ナポレオンとヒトラーの時代では違う。書く際にも、ナポレオンは違う感覚の持ち主だということで距離を置いて書けるのですけれど、ヒトラーだとなかなかそうはいかない。その近い時代の恐ろしさというか現実のシビアさというか、そこが書きどころでもあったし、難しいところでもありました。
柳原 その時代の距離と感覚の違いという点に関して、今回の小説ではヒトラーユーゲントから後に親衛隊に入隊するハンス・ノルトバウアーという青年の存在が重要です。ハンスは、フィクショナルな存在ですが、ハンスの視点があることで、ヒトラーを支持する人たちの心情なり、ヒトラーによって運命が大きく左右されていく個々人の心の動きがよく分かる。つまり、人が生きていく上で、さまざまな制度やパワー――権力とか暴力とかですね――が関わってくるわけですが、その権力と個人との関係が、ハンスとヒトラーを通してよく見えてくる。
 実は、今学期から東京女子大学で新しくパブリックヒストリーという講義を始めたんです。パブリックヒストリーというのは、専門家ではない人たちに歴史をどう伝えていくか、あるいは歴史が世の中にどう伝わっているかを実践・研究するもので、その際に、博物館や図書館、遺跡・遺物などを通しての歴史伝達の分析に加えて、小説、映画、マンガ、アニメなどで描かれた歴史も対象とします。この場合、歴史実践としてのフィクションが重要になってきます。簡単に言えば、フィクションがフィクションだと分かった上での歴史への接近も重要だということ。たとえば映画などであまりにもリアルな描写があると、現実とフィクションの境目が分からなくなってしまう。ハンスというのは、この作品がフィクションだと分かるための重要な役割を担っています。
佐藤 日本もドイツも、あるいはフランスやイギリス、アメリカもそうだと思いますが、戦後、第二次世界大戦についていろいろ語られたことには、割と「うそ」があるわけです。敗戦国の立場だったら自分たちは悪いと分かっていたようなことをいうし、戦勝国の立場なら自分たちの正しさは疑っていなかったという。しかし、そうした言葉は、後からつくられたものなんです。
 ドゥ・ゴールを書いたときに思ったのですが、フランスがドイツに占領された際に対独協力をした人たちが結構いたわけですけど、ドゥ・ゴールが帰ってきて新しい政権になると、まるでフランス人全員がレジスタンスをやっていたような雰囲気になる。でも考えてみたら、レジスタンスのような危険なことを誰も彼もがやるわけがなくて、レジスタンスに参加したのはほんの一部に過ぎない。にもかかわらず戦後のフランスは、国民が挙こぞってレジスタンスを行ったというフィクションの中でずっとやってきた。逆にドイツは、実はヒトラーは間違っていると思っていたんだとか、それこそ一九四四年七月二十日のヒトラー暗殺未遂事件を、国民全員が応援していたみたいな雰囲気になる。
 そういう戦後のうそを乗り越えていかないと、この『小説 ヒトラー』は成立しないというのは、意識していました。その中でハンスが非常に重要だというのは、ヒトラーだけではやはりヒトラーを書き切れないところがどうしてもあるからです。戦後につくられたイメージではなく、その当時、リアルタイムにこういうドイツ人がいた、特に悪い人間でもないし、いい人間でもない、普通の人として自分の人生を生きようとした人がいた。そこをきちっと書かないと駄目なんだろうというのは強烈に思っていました。
柳原 先ほどもいいましたが、フィクションだと分かっているからこそ伝わる歴史の本質というのがあります。たとえば十三世紀のモンゴル帝国の後宮を舞台とした『天幕のジャードゥーガル』(トマトスープ・著)や、太平洋戦争末期のペリリュー島を描いた『ペリリュー─楽園のゲルニカ─』(武田一義・著/平塚柾緒〈太平洋戦争研究会〉・原案協力)というマンガがありますね。どちらもかなりデフォルメされたキャラクターですけど、その描写がフィクションという前提を明確化してくれて、むしろ核心的な歴史上のメッセージを伝えています。
 本作でいうと、ハンスがナチズムの最新テクノロジーに感動しますが、ナチスの近代的技術の利用、そしてそれに魅了された人びとについて、歴史学的にも研究されています。それをハンスがフィクショナルな存在だという認知の上で、実際に当時の大衆がどういうふうに魅了されたのかが見えてくる、そこがパブリックヒストリー的には重要なのではないかと思います。
 括弧付きにはなりますが、ナチズムの「魅力」に関しては、田野大輔さんの『魅惑する帝国』など、いろいろな研究がなされていて、『意志の勝利』(編集部注:レーニ・リーフェンシュタールによる一九三四年の国民社会主義ドイツ労働者党の党大会の記録映画)を観て感動したといった証言や、逆に、動員の失敗についても研究・分析されています。ハンスというキャラクターから書かれるほうが歴史学の重要要素が浮き彫りになるということです。
佐藤 ヒトラーがなぜあれほど支持されたのか、遠目で見ると分からないところがあるのですが、ハンスという架空のキャラクターの目を通すと、親衛隊の制服がかっこよくて、男の子として惹ひかれるというのは当然あったと思う。それに、ドイツの車、バイク、戦車、飛行機はものすごく性能がいいので、ハンスがドイツ人でいてよかった、ヒトラー政権の下で生きられてよかったと思うのは、正直な実感としてあったでしょう。
 だからこそヒトラーはあれほど支持されたのでしょうし、後半になると、いつ失脚してもおかしくないような状態で、一部には彼を暗殺しようという動きもあったけれども、国民的な動きとしては、最後までヒトラーを廃そうということは起きなかった。実際にヒトラーが国民を魅了したという現実があったわけで、そこを書かないといけないとずっと思っていました。

近代が生み出したものは、大衆と民主主義

――一九三六年のベルリンオリンピックも、ハンスたち若者が憧れる要因のように思いました。

柳原 あのオリンピックでは、聖火リレーを始め、ヨーロッパ的な歴史の連続性を上手に利用しています。よく大学生に話すのですけど、ナチズムとムッソリーニのファシズムとが決定的に違うのは、ナチズムはハンスが感動した近代的な先進性だけじゃなく、「聖火」のような前近代的な魅力を混ぜていることです。イタリア・ファシズムのポイントは、テクノロジーや官僚制という「近代」によって全体主義を推し進めようというところにあるのですが、ナチズムは、先進的なテクノロジーに加えて古代ギリシャなどの前近代的な要素を入れたり、オカルティズムのような怪しげなものを混ぜ込んでいる。そこに一種の魅力があるわけで、あのオリンピックにもそれがもろに出ている。
 さらに、国際的にナチ体制が非難されないよう、オリンピックというスポーツイベントを利用したということも大きい。いってみれば、今回のサッカー・ワールドカップにおいて、アメリカのプロパガンダ政策の側面があるのと一緒です。平和の祭典を政治的に利用している。
佐藤 スポーツをああやってイベントにするというのも、ナチスが初めてですね。今ではスポーツの大会は、もう小さな地区大会からすごいショーアップされていますけど、それが始まったのはやはりナチスからのように思います。
柳原 それに、あのオリンピックの時期には、国際世論に配慮して反ユダヤ主義的な攻撃を一瞬、緩めるんです。ドイツはそこまでひどいことはしてない、だから平和の祭典をやっているのだ、と。
佐藤 ぼくはプロレスが好きでときどき観るんですけど、プロレスの入場のショーアップの仕方――最近はボクシングなんかもそうですけど――って、ナチスの党大会を想起させるんです。サーチライトで照らして、両選手、入場みたいなところは、親衛隊の入場や突撃隊の行進とそっくりです。
柳原 近代が生み出したものの一つは“大衆”で、高校の新科目「歴史総合」のテーマの一つです。この大衆をどのように動員するか、魅了するかが大きな課題になる。プロレスもそうですけど、ライブなども大衆の塊ですよね。その塊の中にいる自分は、塊の中にいるからこそ気持ちいいみたいな。
佐藤 大衆化ということでいえば、今はプロパガンダという言葉には悪いイメージがありますが、『我が闘争』などを読んでも、ヒトラーは手法の一つとして堂々と使っている。現代の政治家も、そうした悪いイメージを意識させないで、ある種プロパガンダ的な言葉を駆使している。そうしたヒトラーの現代性というのは、書いていても怖いというか、現代につながるさまざまな政治的なレトリックは、ここから始まったんだなというのは強く思いました。
柳原 近代のもたらした“民主主義”に関していいますと、ヒトラーが政権を獲得したときの得票率は約三三パーセント、三分の一です。これは日本の自民党よりもかなり低い。でもヒトラーは元首相のパーペンなどをうまく使って、独裁体制を確立させた。ここから考えられるのは、ヒトラーのような人物が出てくることで民主主義が簒奪さんだつされてしまうだけではなく、そもそも民主政はそうした危険性を常に孕はらんでいて、三割の支持でも独裁体制を成立させることができる仕組みだということです。
佐藤 民主主義というと、どうしてもイギリスやアメリカの二大政党制みたいなものをイメージして、どちらの党も五割・五割に近いところで競い合うような感じですが、実は二大政党制ではない小さい政党がたくさん集まっている国のほうが多いので、三割しか取れなくても他の小さい政党と連立すれば政権を取れてしまう。ひとたび新型コロナウイルスの蔓延まんえんといったような危機が起これば、非常事態だということで独裁体制を敷くことまで可能になる。
 日本人には、民主主義は絶対的な善だというイメージがありますが、民主主義といってもいろいろな形があるわけですし、常にベストなもの、あるいは理想として民主主義を採用しているわけでもない。現状では、民主主義に代わるシステムをまだ誰も思い付いていないので、次善のものとして民主主義を使って世の中を動かしているだけであって、絶対的に神聖視できるようなものではないのだということは、改めて考えなければならないと思います。
 特に戦後の日本でいえば、アメリカからの影響が強かった。かつてのアメリカには民主主義がうまく働いているイメージがあったのですが、近年のアメリカを見て、アメリカの民主主義が理想とはとても思えない。その意味では、そろそろ民主主義に対する通り一遍いっぺんの発想から抜け出す時期に来ているのかなとも思います。

佐藤賢一×柳原伸洋対談
やなぎはら・のぶひろ ◉ 77年京都府生まれ。東京女子大学現代教養学部歴史文化専攻教授。研究分野はドイツ・ヨーロッパ近現代史。著書に『はじまりのナチ強制収容所―歴史的思考の場としてのダッハウ』(近刊)、共編著に『探究・西洋史―レポート・論文のテーマを見つけたいあなたへ』、監訳書にジェームズ・ホーズ『超約 ドイツの歴史』、シビレ・シュタインバッハー『アウシュヴィッツの歴史』などがある。

歴史的想像力が戦争を止める言葉を生む

――歴史を知ることで、戦争が続く世の中の流れを変えていくことはできるのでしょうか。

柳原 先に歴史的想像力に関して、フィクションの役割が大きいといいましたが、たとえば過去を伝えるときに、そこには現在との時間的な距離があります。アライダ・アスマンという研究者がいうには、時間が経過するにつれて、コミュニケーション的記憶から文化的記憶に変わっていく、と。コミュニケーションは互いに生きていないとできないけれど、記念碑や文章などで「文化」となり、同時に歴史化(ドイツ語でHistorisierung)されて、一定の距離を置きながら考えることができる。これが時間的距離の利点です。しかし、それを単なる情報として冷静に処理していくだけでは駄目なのではないかと思っています。人間は感情的な生き物なので、情報と感情を車の両輪として考えなければいけない。
 その感情、好奇心を補佐してくれて情報収集の動機を与えてくれるのは、やはり小説やアニメ、マンガなんですね。歴史研究者は、小説はフィクションだから歴史小説を鵜吞うのみにすると危ないという。一方、歴史小説を書く人は史実に囚とらわれすぎるとストーリーとしては面白くなくなるから一定の距離を置く、という微妙な対立関係があるとよくいわれます。そういう緊張関係は常にあっていいと思いますが、もう少し話し合いくらいはしようよっていうのが私の今のスタンスです。だから今回、この小説のお手伝いをお引き受けしました。そして、いろいろな知見が得られて本当によかったです。また、ことに近年、AIによって情報を効率よく取得することができるようになっていますが、そこにあるのは単なる「モノとしての情報」だけで、感情や好奇心が介在していません。
佐藤 そうですね。小説であろうが哲学であろうが歴史であろうが、最終的に何を求めるのかというと、多分ストーリーが欲しいのではないか、と思います。なぜストーリーなのかというと、それは柳原さんのおっしゃる、感情がどういうふうに動いていくかが分かることが大きいのでしょう。おそらく小説というアプローチからいっても、歴史学であるとか社会学であるとか、いろいろなアカデミズムのアプローチからいっても、最終的にストーリーとかフィクション、想像力ということを考えなくてはいけなくなるのは、人間が求めるものが、実は構造を図式化したものではなく、ストーリーだからなのではないかというのは最近、すごく思います。
柳原 つまり、歴史観ということですよね。歴史観はストーリーとは少し違うかもしれませんが、歴史観に関しても歴史学の研究者は距離を置いてるし、危ないものだと思っている向きがある。でも、私たち研究者も小説家の方も一緒になって、みんなでちゃんと歴史観に向き合ったほうがいいと思うんです。
 そもそもヒトラーは『我が闘争』の中で、歴史にとって重要なのは個別に何が起きたかとかではなくて歴史観である、ということを書いています。その後の帰結を見れば、ヒトラーは己の歴史観に従って、ホロコーストも含めていろいろなことをやっていったわけですが、それを危険だといって無視するのではなく、だからこそ歴史観にちゃんと向き合わなければいけないという思いが、今の私には強くあります。
佐藤 それは、本当に難しいですね。フランス革命以降、貴族主義というのは民主主義との対置概念で、廃されるべきものであるといわれてきました。ところが今の大衆化の時代になってみると、貴族主義というか、自分は特別な人間である、エリートであるというような自意識が、ある政権が暴走する歯止めになる可能性もあるような気がします。
 本作の中で、ヒトラーに反抗する人は、みんな〈フォン〉がつく人(編集部注:当時、フォンの称号は王侯貴族のみにつけられた)です。彼らとしては、一般の市民たちはヒトラーに浮かされているかもしれないけど、俺らは違うよ、という意識がある。へそ曲がりでも天あまの邪じゃ鬼くでもいいんですけれど、ある政治家が威勢のいいことをいって国民が浮かれてるときに、いや、それは違うとあえていうぐらいの精神性が、この二十一世紀には逆に求められているのではないか、と。
柳原 要は、個人なら気概、社会全体ならエートスの問題ですね。ノブレス・オブリージュ、高貴なる義務とかもそうですけど、たとえば日本の場合、私より上の世代では、いわゆる「地方」の人が大都市圏の有名大学に受かったときには、卒業したら地元に貢献しようみたいな気概というのが結構ありました。
 そこにはその地域に連綿と続いている伝統、伝統っていうとちょっと陳腐かつ危険に聞こえるかもしれませんが、要は歴史意識です。その歴史意識の継承者という自負を背負って大都市圏に出て行くわけです。一時期なぜ司し馬ば遼りょう太た郎ろうの小説があれだけ読まれたかというと、司馬史観には、そうした歴史意識を気概やエートスとして持たせてくれる力があったからだと思います。
佐藤 さっきの貴族主義もそうですし、地域の代表もそうですけども、みんな何かを背負うんですね。先祖がやったことを背負うとか、地域がやってきたことを背負うとか。そういう人間が持つアイデンティティー、あるいは発想の方法、思考の方法というのが、実は大事なんだと思います。
柳原 大衆を動かすという視点で考えると、ヒトラーの時代に映画やラジオが普及してメディア環境ががらりと変わったことは大きいです。現代もインターネット、そしてショート動画が広まるなど、百年前と同じくらいの大変革が起きている。しかもそのシステム自体を主にアメリカの限られた企業がつくっている、という。この状況を決して楽観視することはできません。
 第一次世界大戦の破局後、ヴァージニア・ウルフは、今後戦争を阻止するためには、男性社会の論理や方法を繰り返すのではなく、「新しい言葉を見つけ、新しい思考方法を創造する」(一九三八年発表の『三ギニー』より)必要があるといいましたが、まさにそうだと思います。
佐藤 今、大学では理系は偉いけど、文系はどうするんだみたいな感じでよくいわれますね。でも、もし今後日本が戦争に行きそうになったときに、止められるのは文系の学者だと思います。理系の人たちにはデータがあったり、数値があったり、グラフがあったりするのだけれども、戦争を止める言葉はない。
 その言葉をつくれるのは、やはり主には文系の学者や学生だと思うし、そういう人たちにしっかりしてもらわないと、一直線で戦争に行ってしまう危険性が現実味を帯びてきているような気がします。
柳原 何度もいいますが、そこにはやはり歴史的な想像力が必要とされると思います。是非この『小説 ヒトラー』で、歴史的想像力を養ってもらいたいですね。

「小説すばる」2026年11月号転載