インタビュー

佐藤賢一

佐藤賢一「ヒトラーの何が悪かったのか、何が怖いのかということをきちっと辿っていきたい」

書評

ヒトラーの躍進が指摘する民主主義の脆弱性

末國善己

『小説フランス革命』(文庫 全十八巻)、『ナポレオン』(文庫 全三巻)に続く佐藤賢一の大作『小説 ヒトラー』(単行本 全三巻)の刊行がスタートした。
 ヒトラーが率いた国民社会主義ドイツ労働者党は、日本ではナチスと呼ばれるが、これは敵対勢力が用いたべっしょうで、当時のドイツではNationalsozialistischeナツイオナルゾチアリスティッシェ Deutscheドイッチェ Arbeiterparteiアルバイターパルタイを略したNSDAPエン・エス・デー・アー・ぺーの呼称が一般的だった。史実を踏まえている本書でナチスが使われるのは、戦後、フランス国家憲兵隊が親衛隊に属していたとされるハンス・ノルトバウアーに同行を迫る第三巻の終盤くらいで、それ以外はNSDAPを短くした「エン・エス」と記されている。ヨーロッパ史に詳しい著者は、徹底した時代考証と最新の研究を踏まえてヒトラーの生涯をたどっているだけに、ヒトラー政権を扱った小説、映画、研究書に触れたことのある読者も新たな発見が多いはずだ。
 一九一八年十一月の革命でドイツは君主制から共和制へ移行し、当時、最も民主的だった憲法を制定。ドイツ共和国は、多額の賠償金の支払い、海外植民地の放棄と領土のかつじょう、軍備縮小などを求めるヴェルサイユ条約を受諾し、第一次世界大戦の敗北を認めた。これによりドイツでは、賠償金支払い不履行を理由に最重要の工業地帯ルール地方がフランスに占領され、ハイパーインフレが起こり、失業した人々があふれていた。軍でちょうほう部門の仕事をしていたヒトラーは、ミュンヒェンにあるドイツ労働者党への潜入調査を命じられる。
 ドイツを苦しめる金融の国際化、社会主義、ヴェルサイユ条約の責任はユダヤ人にあるとする党首の主張に共感したヒトラーは、声の良さと話しぶりを見込まれ演説を頼まれるようになり、政治家として頭角を現す。イタリアではムッソリーニ率いるファシスト党がローマ行進で政権を奪取したと知ったヒトラーは、準軍事組織の突撃隊などを使ってベルリンへ行進する革命を目指すが失敗。第一巻では、合法的な選挙による政権獲得を目指す方向へシフトしたヒトラーが、巧みな選挙戦術と宣伝工作によって大勝するまでが描かれる。
 第二巻では、エン・エスの独裁を認める全権委任状ともいえる「民族と国の危難を除去する法律」を成立させるための工作と並行して、政治に関心はなかったが、ヒトラーの演説、エン・エスのプロパガンダに感化されながら成長する十五歳のハンス・ノルトバウアーを描き、エン・エスの思想がどのように国民の間に浸透したかが明らかにされていく。
 第三巻は政治ドラマが中心だった前二巻とは一転、戦車、機械化歩兵、急降下爆撃機など機動力が高い部隊で攻める新戦術の電撃戦を編み出したドイツが、ポーランド、フランスを攻める戦争小説となる。新型戦車、新型兵器が次々と投入されるだけに、軍の装備に関心を持つ方も満足できるだろう。当初、ソ連との戦争を避けていたヒトラーだが、イギリスとの和平に失敗し対ソ戦に踏み切らざるを得なくなる。これは現代のロシアによるウクライナ侵攻、アメリカのイラク攻撃と相似形にあり、“戦争を始めるのは簡単だが、止めるのは難しい”が普遍的な真理であると納得できる。
 さらに、なぜパレスチナ問題が解決しないのか、なぜウクライナが強くロシアに抵抗しているのかなどの原点も指摘されており、本書を読むと現代の国際情勢への理解も深まる。
 ヒトラーは、ユダヤ人の排斥とアーリア民族の優越を唱えて国民の支持を集め独裁者になった。これは、移民反対と自国第一主義が、民主主義の本場ともいえる欧米だけでなく日本でも広まっている現状と重なる。エン・エスは、飛行機を使ったヒトラーの遊説ゆうぜい、ラジオで演説を流すなどの新しいテクノロジーを用いて選挙戦を有利に進めた。これも政見放送、街頭ポスター、選挙カーといった従来の選挙戦よりも、SNSなどのネットを使う選挙戦を繰り広げる候補が強くなっている現代社会を想起させる。ただ選挙中のネットには、候補者の陣営とは関係ない人たちが、動画再生回数やインプレッションを稼ぐためにフェイク情報を流すこともあり、それが選挙に影響を与えるまでになっている。エン・エスは、ありもしないユダヤ陰謀論で選挙に勝ち民主主義を終わらせたが、現在では力を持ちたい政党だけでなく、主権者たる国民の一部が陰謀論を流布したり、選挙ハックに協力したりして民主主義を危機に追い込んでいる。著者は『小説フランス革命』『ナポレオン』でも民主主義が簡単に破壊される歴史を描いたが、ヒトラーは武力ではなく合法的な選挙で独裁者になっているので、その危険性はより現実的である。日本では、国家の非常時には政府が法律に制約されず国民の権利と自由を制限できる緊急事態条項を盛り込んだ憲法改正が議論されるようになっている。このような時代だからこそ、緊急事態条項に近い全権委任状を手にしたヒトラーが何をしたかを克明に追う本書が書かれた意義は大きい。

「小説すばる」2026年9月号転載