――安壇美緒さんの第三作『ラブカは静かに弓を持つ』が、刊行直後から大きな話題を呼んでいます。著作権管理団体に勤める二十五歳の青年・たちばないつきが、素性を偽り二年にわたって音楽教室に潜入調査する──前代未聞のスパイ小説はどのようにして生まれたのか? 安壇さんと連載担当編集者の稲葉努さん、デビュー作から著者の応援を続ける書店員・山本亮さん(大盛堂書店)に、本作の魅力を探り合っていただければと思います。そもそも本作は、編集者から著者に投げかけられた企画だったそうですね。

安壇 題材選びを褒めていただくことが多いんですが、毎回「ごめんなさい、私じゃないんです」と(笑)。

稲葉 そこは安壇さんが自分で考えたことにしてくださっても良かった(笑)。

山本 過去二作はもっと日常的というか、静かな作風でしたよね。いきなりスリリングな話が始まったので、読み始めた時は非常に驚きました。稲葉さんは、どうして安壇さんにこの題材をと思われたんですか?

稲葉 私は安壇さんのデビュー作の『天龍院亜希子の日記』の時から担当していたんですが、二作目の『金木犀とメテオラ』も含め作品は素晴らしいし、技術的には飛び抜けたものを持っているのに、セールスとしては悔しい思いがありました。次こそは安壇さんの才能が世に広まっていくものであってほしい、と考えた末に浮かんだのがこの題材だったんです。

――音楽教室での演奏に、音楽著作権の使用料は発生するのか? 支払う義務はないと音楽教室が著作権団体を訴えた裁判の過程で、著作権団体から音楽教室に送り込まれたスパイの存在が明らかになったんですよね。

稲葉 実は、安壇さんに送った最初のメールを昨日読み返してきたんですが、「この企画の肝は実際の事件を書くことではありません」と書いていたんです。現代日本ではリアリティを持たせにくい〈スパイもの〉と、映画『Shall We ダンス?』に代表される傷付いた大人たちの再生と成長を描く〈大人の教室もの〉、エンターテインメントにおける二つの王道を今までにない形で組み合わせられる企画なんだ……と。過去の自分、やるな、と思いました(笑)。

山本 その提案を受けた安壇さんもすごいです。

安壇 スパイものは『名探偵コナン』の印象ぐらいしかなかったんですが、心理戦ってことなんだろうなと思って、いけそうだな、面白そうだなと。

稲葉 この企画って相当、難易度が高いと思うんですよ。例えば、法律について深く理解しておかなければ、噛み砕いて伝えることができない。著作権に関しては、膨大な資料を読み込んでくださいましたよね。

安壇 実際に書き出してみると、大人の教室ものという要素のほうが厄介でした。私も子供の時にちょろっとピアノを習ったことはあるんですが、音楽に造詣が深いわけではなくて。主人公が演奏する楽器にたまたま選んだのがチェロで、しかも教える側の先生はプロの奏者です。音楽の描写をどうするかが難しかった。

稲葉 楽器の経験がほとんどないと聞いて、これを読んだ方はたぶん信じられないですよね。この作品って、音楽小説としても優れていると思うんです。

山本 演奏シーンも素晴らしかったんですが、細かい音の描写もいいですよね。例えば、音楽教室の先生や仲間たちにスパイであることがバレるかも……という時、「ボン!」といった主人公の心臓の音が入ってくる。それがすごく効いているなと思いました。読んでいる側も、そこでドキッとするんです。

「ラブカは静かに弓を持つ」座談会
安壇美緒さん

大地VS海という対決の構図

山本 第一楽章の冒頭で、著作権絡みの話が出てきますよね。それ自体はすごくワクワク読めたんですが、この先でこれ以上、専門的なお堅い話になったらどうしようと勝手に不安を感じていたんです。でも、橘が音楽教室へ潜入する最初の日に、浅葉というチェロ講師が出てくるシーンで、作品世界の色がガラッと変わったと感じました。浅葉は本当に魅力的なキャラクターですよね。

安壇 橘の視点になって書いていましたので、教室にどんな人が待っているのかは、私自身も分からなかったんです。橘と一緒に教室の中に入っていったら、めちゃくちゃフレンドリーな人が出てきちゃった、みたいな(笑)。お話をぐいぐい引っ張ってくれる、いいキャラクターになりました。

――橘は幼少期にある事件に遭遇し、そのトラウマから深海の悪夢をよく見るようになり、深刻な不眠症を患い他者を遠ざけるような人生を送っている。タイトルにも採用されている深海ザメのラブカの生態が、彼の人生のメタファーとなっています。

安壇 稲葉さんと最初の電話打ち合わせをした直後、たまたま摘んだ「おっとっと」が限定盤の深海シリーズで、その中にあったラブカという生物の名前が気に入りまして。それと同じタイミングで採用したのは、『羊たちの沈黙』でした。もともと映画は好きだったんですが、今回の企画のお話をいただく二、三日前に、たまたまトマス・ハリスの原作小説を読んでいたんですよ。実はその本を手に取ったお店は、山本さんが勤めてらっしゃる渋谷の大盛堂なんです。

山本 その話、同僚から聞きました(笑)。

安壇 『金木犀とメテオラ』が入口の棚で大きく展開されていると聞いて、どうしても見てみたくなったんです。山本さんにはご挨拶できなかったんですが、代わりに『羊たちの沈黙』と出逢えました(笑)。あの作品のヒロインであるクラリスとレクター博士の関係は、橘と浅葉の関係と相通ずるところがあります。主人公がトラウマを第三者に吐露することで、その人物との距離がぐっと近づいてしまうっていう。

――レッスンはマンツーマンですが、橘は浅葉クラスの他の生徒たちと飲み会で交流したり、発表会の演目について意見を交わしたりするようになる。チェロで繋がった関係が心地いいと感じられるのと比例して、橘の中の罪悪感が膨らんでいく展開が説得力抜群でした。

稲葉 前に安壇さんから伺って面白かったのは、浅葉であったり、音楽教室側の人たちの名前には、植物の名前が入っているんですよね? 対する著作権管理団体側の登場人物は、橘の上司の塩坪だったり同僚の湊や三船など、海関連の名前で。

安壇 植物というか、大地ですね。大地VS海という対決の構図でお話を考えていました。橘樹という大地の側にいるはずの人間は、なぜか海にいる。そして音楽教室のミカサは、豪華客船、という感じでイメージを膨らませました。音楽と海という要素からの飛躍で、西洋のセイレーン伝説をバックグラウンドでのモチーフにしてあります。これは本編にはまったく出てこない裏設定なのですが(笑)。

山本 そんな名付けの法則があったんですね!

「ラブカは静かに弓を持つ」座談会
連載担当編集者・稲葉努

思いっきりエンターテインメントに

稲葉 よくよく考えてみたんですが、僕の貢献は、最初に企画を提案したことぐらいかもしれません。それを安壇さんが見事に作品として仕上げてくれた。

安壇 法律や音楽などで分からないことについて、たくさん質問させていただきましたよ。そのたびに懇切丁寧なお返事を頂戴しました。

稲葉 それは編集者として当たり前の仕事です! ただ、自分でも頑張ったなと思う案件が一つあります。「橘がとある事情から上司が保存した社内サーバ内のデータを削除しなければならなくなる」という当初の設定に関して、安壇さんから「どういうやり方がありますかね?」と質問を頂戴したんですが、分からなすぎて本当に困ってしまって。社員がPC関連の疑問を出すと答えてもらえる、カスタマーセンターのような部署が集英社にはあるんですね。ざっくり言うと「上司のPCをハッキングする方法を教えてくれませんか?」というメールをそちらに送ったら、めっちゃくちゃ怒られました。

一同 (笑)

――秘話は尽きないようですが(笑)、改めまして最後に一言ずつ頂戴できたらと思います。

稲葉 この題材でどこまで書けるものなのか、当初は不安もあったんです。でも、第一楽章の原稿を読ませてもらった時点で、「ここまでリアルに描けるのか」と。後半に当たる第二楽章を読んだ時には、「ここまで面白くできるのか!?」と大興奮でした。過去二作にもあった物語・関係性の余白を豊かに想像させるシャープな文章や、感情のトリガーの効果的な配置といった安壇さんの強みはそのままに、思いっきりエンターテインメントにしてくださった。そして、セールス的にも爆発した。作家の大きな飛躍に立ち会えて、感無量です。

山本 感情って不確かなもので、移ろいやすいものじゃないですか。それは救いにもなるんじゃないかと思ったんですよね。たとえ相手から信頼を失ったとしても、そこで関係が固定されてしまうのではなくて、また変わるかもしれない。あるいは、人を恐れる気持ちを抱いてしまったとしても、飛び越えられるんだということを描き切っていると思うんです。この作品と出会えて本当に幸せでした。

安壇 著作権をめぐるサスペンスの要素を張り巡らせつつ、深海のイメージを散りばめた音楽小説に仕上げることが叶った作品だと思います。「信頼とは何なのか?」という大きなテーマを橘とともに追いかけてくだされば幸いです。静かなるスパイの暗躍と葛藤を、どうぞラストまで見届けてください。

「ラブカは静かに弓を持つ」座談会
大盛堂書店・山本亮さん
単行本のゲラを読んで「傑作大必読」と激賞。

取材・構成=吉田大助/撮影=平木千尋