2015年の『Masato』から始まった“アンドウマサト”の物語は、2018年の『Matt』を経て、この夏出版された『M』で完結しました。日本生まれオーストラリア育ちのマサトは、3つの作品を通してアイデンティティや生き方、身の立て方に苦悩し続け、少年から青年へと成長。その姿に学び、共感を覚える人が後を絶たないシリーズです。

著者の岩城けいさん自身、オーストラリアに在住して30年。『M』の刊行に合わせて帰国中に、ずっとファンだったという翻訳家の金原瑞人さんとの対談が実現しました。金原さんは『Masato』が文庫化した際に解説を担当。憧れの存在を前に岩城さんの緊張が高まるなか、話題は『M』の話や、英語と日本語の人称から受ける印象の違い、YA(ヤングアダルト)小説についてなど、主に日本語と別の言語との関係性から若い世代の読書の話へと移っていきます。

撮影/神ノ川智早 構成/綿貫あかね (2023年7月14日 神保町にて収録)

岩城けい氏と金原瑞人氏
左・岩城けいさん 右・金原瑞人さん

岩城さんは主人公のいじめ方が上手

岩城 今日は聞きたいことがたくさんあったのですが、どきどきしてしまってどこまで話せるかわからなくなってしまっています。

金原 何でもお話ししますよ。まず僕からこの『Masato』『Matt』『M』のアンドウマサトシリーズについてお話しすると、岩城さんは主人公をいい意味でいじめるのがとてもうまい。これはやはり作家の腕の見せどころですよね。

岩城 いじめ方ですね(笑)。

金原 たとえば『M』で、マサトがずっとアイデンティティの問題に苦しんで(つまり作者にいじめられて)、読者も緊張しきっているところに、ほっと息をつかせるような「久しぶり……、チロ」というセリフ。チロは第1部の『Masato』で、父親の仕事の都合から小学生だったマサトとともにオーストラリアに連れて来られ、言葉もわからず孤独だったマサトに寄り添っていた柴犬で、そのチロがそっくりのマリオネットとして目の前に現れ、思わずこのセリフを言ってしまう。こういう部分が本当にうまい。

金原瑞人氏
金原瑞人さん

岩城 お恥ずかしい……。

金原 第2部の『Matt』でマサトが作者に徹底的にいじめられたときに、第3部の『M』はどうなるんだろうと思っていましたが、いじめられた末、とてもいい感じで落ち着いたので、ほっとしています。

岩城 私もどこまでいじめていいか、どこでやめようかと思いながら書いていました(笑)。

金原 学生にはまず、岩城さんのデビュー作の『さようなら、オレンジ』を読ませて、反応があると『Masato』と『Matt』を読ませていました。すると、『Matt』の反応がいいんです。これからは『M』も併せて薦めたい。
岩城 ありがとうございます。嬉しいです。

翻訳者は目の前に英語があるときちんと訳そうとしてしまう

金原 以前、ブレイディみかこさんと対談したときに思ったのですが、ブレイディさんも岩城さんも英語から日本語の翻訳が上手。「私、翻訳なんてしていないわよ」とブレイディさんは言うんだけど、登場人物がしゃべっているイギリス英語がとても自然な日本語になっている。岩城さんも同じで、本当に羨ましくなるくらい絶妙な日本語になっているんです。たとえば『M』に出てくる「F**kin’ miracle!」という言葉も、「くそ、奇跡的だ」ではなく、「なおってるぅ!」と素直な日本語に訳されている(編集部註:スマホが壊れて困っていたマサトのルームメートのセリフ)。映画の字幕でも翻訳小説でも「F**kin’」はほぼ機械的に「くそ」と訳されているのがほとんどですが、強調の言葉だからネガティブにもポジティブにも訳せるはずなのに、大概ネガティブな言葉になっているのはどうかと思っているんです。芸がなさすぎ。それがここでは英語の会話そのものがきれいに意味の通じる日本語に訳されている。翻訳家には案外それができないから、とても羨ましい。

岩城 どうしてできないんでしょうか。

金原 たぶん、英語を見てしまうからでしょう。やっぱり元の言葉には呪縛力みたいなものがあって、なんとなく、反射的にやっちゃう。目の前の英語につい、引きずられてしまうんでしょうね。そういう意味では、翻訳家にとってブレイディさんや岩城さんの書かれるものは、とてもありがたい参考書になります。だってこのシリーズなんて、ある意味、翻訳小説ですよ。

岩城 恐れ多いですね……。もしかすると、日本にはないオーストラリアの事項を書くとき、特に慎重になっていることが影響しているかもしれません。向こうの行事で日本に存在しないものは、無理やり日本語にしているところがあります。でも変な日本語にしたくないので、どこまでカタカナを使うのか、ここはルビでいくのかなど、神経を使います。

金原 でも、その無理やり訳した言葉が、そのうち日本語として定着するかもしれませんよ。

 次回作はそういう言語にまつわる作品になるのでしょうか。

岩城 この頃、自分の中で英語という言語についていろいろと疑問がわいてきています。その力の大きさを目の前にして、英語以外の、より影響力の弱い言語がどうやって生き残るか、というような話を書きたいなと思っていて。

金原 アルメニア語なんて、いかがですか? 『M』の主要人物のアビーはアルメニア人でしょう?

岩城 そうですね。英語って、汎用性が高く便利な一方で、殺戮の言語と呼ばれているらしくて、ある地域で英語化が進むと、現地の言葉が駆逐されてしまう。それは、私にとってたまらない現象なんですね。なので、その過程を読者の方々にお見せして、考えてもらえるような作品にしたいです。

金原 なぜそういった現象が気になるんですか?

岩城 マサトもそうですが、やはりその地域の言葉ができないと人間扱いされないところがあるのと、どうやって自分の言語を認めてもらうかという問題もあります。その部分を物語の人物に投影していきたいなと考えています。

岩城けい氏
岩城けいさん

希少な言語を守るためにできること

金原 僕が翻訳を始めた頃、アメリカのエスニック文化に興味があって、今でいうネイティブ・アメリカン、当時はアメリカ・インディアンといっていました、それからチカーノと呼ばれるメキシコ系アメリカ人の作品をよく読んで訳していました。かつてネイティブ・アメリカンの国は250くらいあり、言語の種類もたくさんあったなどと言われていますが、それを現代まで受け継いでいる部族がいくつかあり、そのうちの一つが有名なナバホ族です。アリゾナ州の北海道くらいの面積の荒れた土地に暮らしているんですが、そんな何もないところでもナバホ語は生きている。

岩城 英語も話すんですか?

金原 もちろん話します。多くはバイリンガルですね。そのナバホ族の教育関係の人が、毎年うちの大学に遊びに来ていたことがありました。学生に話をしてもらったり、泊まってもらったり。で、あるときミス・ナバホが来たんです。そのときに「ミス・ナバホの条件は?」と聞いたところ、まずナバホ語が話せないといけない。そしてナバホの歴史が語れないといけない。あと、羊を一頭さばけること、という条件もありました。ナバホの男性は怠け者で、女性のほうが働き者なんだそうです。

岩城 とてもさばけない……。

金原 ナバホ族はナバホ語をそういう形できちんと残している、珍しいネイティブ・アメリカンの一族です。赤ん坊が生まれたときから周囲でみんながナバホ語でしゃべっているという環境があって、学校でも英語と両方教えるんだそうですよ。

岩城 やはりそういう場がしっかりあれば残すことができるんですね。

金原 30年くらい前にロサンゼルスで詩人のグループと話したんですが、全員がスペイン語と英語のバイリンガルでした。カリフォルニア州はもともとメキシコで、対メキシコ戦争で、アメリカが併合してしまいます。彼らの祖先は、ある朝起きたらそこはアメリカになっていて、自分たちはアメリカ人になっていたわけです。だからアメリカ政府は、カリフォルニアやニューメキシコ、アリゾナなどの住民にスペイン語の教育を受ける権利を保障しているんです。でも英語を話せるほうが就職に有利だし、お金も稼げるから英語化が進んでいきます。祖父や父親はスペイン語でしゃべるけれど、子どもたちは小学校で英語を習う。だから子ども世代は英語を使うようになる。それで、詩人たちもバイリンガルで話すんです。「どっちを先に覚えた?」と聞くと、7人中3人が英語、3人がスペイン語、あと1人は記憶が曖昧と言っていました。そういう環境さえあればバイリンガルになるのも可能なんだなと思います。

岩城 問題は、そういう形ができない言語の場合ですね。その面からいうと、今構想中の小説は設定としてややディストピア的世界になるのかなと。

金原 楽しみですね。完成したら是非読ませてください。

登場人物が多い作品の一人称と二人称の使い分け

金原 英語の一人称、二人称をどう訳すかというのは面白い話題です。ここで質問。日本語で一人称のI(アイ)の訳語はどのくらいあると思いますか?

岩城 10やそこらでは済まないんじゃないでしょうか。

金原 そうなんです。100以上あるんですよ。では次の問題。これがあるから100以上あるという例を挙げてください、と意地の悪い質問を学生にはするのですが、思いつきますか?

岩城 うーん……、わかりません。

金原 「マサト、これ好きだから」というときのように、自分の名前がIの訳語として使われるときです。名詞や動詞も入れると、いろいろなものをIで表すことができます。これは英語にはないことであり、日本語ならではの特徴です。

岩城 なるほど。確かにそうです。

金原 ではYouはどうか。たとえば僕が翻訳したリック・リオーダンの「パーシー・ジャクソンシリーズ」というファンタジーノベルのシリーズがあって、全部で15冊の物語なんですが、主人公のパーシー以外にもいろいろな仲間が出てくる。パーシーがある人物を呼ぶときは「おまえ」といっているけれど、別の人を呼ぶときは「あなた」や「きみ」になり、「てめえ」ということもある。父親や母親は「父さん」「母さん」なのか「父ちゃん」「母ちゃん」なのか。でも英語では全部Youなんですよね。

金原瑞人さん
金原瑞人さん

岩城 そうなると、登場人物ごとにリストが必要になるんじゃないですか?

金原 そうなんですよ。だから共訳者の小林みきさんがきちんとリストを作ってくれました。もう一つは、相手を「メイベルは……」と名前で呼ぶ方法です。これだったら間違いがない。この作品のように登場人物が多い場合、人称の使い分けには気を遣います。IとYouで済む言語だと楽だなと思いますね。僕の著書『翻訳エクササイズ』には、そういう人称の話も書いています。

 IとYouで済む人間関係というのは、ある意味、民主的なのかもしれませんね。英語を話しているときに、そういう呪縛から解放されている感覚はありますか?

岩城 病院に行ったときに、日本ではお医者さんのことを「先生」って呼ぶじゃないですか。でもそれも英語ではYou。当たり前ですが先生も私のことをYouと呼ぶんです。だから対等な感じがして、お医者さんに診てもらっているというよりは、医療サービスを受けている感覚になります。そういうときに英語は楽だと思いますね。

日本語は「あなた」ではなく「みんな」に話していると感じる

岩城 人称の話でいうと、日本語はどこか二人称と三人称が混ざっているような気がして仕方がないんです。今、金原さんと私はYou and Iなんですが、金原さんのYouのなかにはTheyも入っている感じがする。個人的な話をしているはずなのに、どこかパブリックな話にも聞こえてきて。

金原 英語のときにはないんですか?

岩城 ないですね。Youは絶対に私だけにYouとして話しています。日本語だと、Youと話しているつもりが世間一般のYouになって、皆さんと話している気がしてくる。そこに、個人的な意見の尊重より「和をもって貴しとなす」という意識が入っているのかなと、変な感覚になります。日本語でしか起こらない特殊な現象ですが。

金原 へー! それは面白いですね。英語では普通、相手が誰かわからないときにはYouと呼ばない、という決まりがありますよね。IとYouの関係が成り立つのは、お互いに相手のことを認識して初めてIとYouになる。それと似ていますか?

岩城 似ています。ところが、日本語になると「金原さん」と呼んでいるにもかかわらず、「金原さん」のなかにもたくさんの他人が入っている感じがするんです。これが、金原さんと私が英語で話していたらその現象は起こらない。たぶん、すでにYouは誰なのかを自分の中で決めているんですよ。さっきの例でいうと、日本のお医者さんって見るからにもうYouが離れていてTheyが入っている感じです。

金原 “先生”になっちゃうんですね。なるほど。そういう感覚は、オーストラリアに行って何年目くらいから感じるようになったんですか。

岩城 移住してからだから、20年以上前。あるいは、向こうのお友達が増えてからかもしれません。

金原 それはじっくり考えたくなる問題です。たとえば「てめえ、何してやがんだ!」というときの「てめえ」はもともと「てまえ」であり、相手ではなく自分を指す言葉ですよね。一人称の二人称的用法というか。日本語の一人称と二人称にはそういう広がりがある。それに関して、橋本治が日本語の一人称と二人称には区別がない、という言い方をしています。

 それにしても、その感じ方は興味深いです。

岩城 小説を書いていても、一人称を決めるときが一番難しい。マサトの場合、たぶんマサト本人は「僕」という漢字を書けないと思うんです。かといって『Masato』の作中みたいに「ぼく」と平仮名にしたら幼稚だし、結局「僕」にしましたけど、本人が書けないのにいいのかととても悩みました。

金原 なるほど。それとは少し違うのですが、最近の小説だと、ジェンダーにとらわれない人はTheyという人称代名詞を使う場合が増えてきました。このTheyは訳せる場合とそうでない場合があります。誰かわかればいいというなら、その人の名前を使えば訳せます。アメリカに留学して帰ってきた学生に聞くと、向こうの大学で10人ほどのクラスに入ると、三人称で呼ばれるときにHe、She、Theyなど、どれで呼ばれたいかをとりあえず書かされるそうです。

岩城 それはよく聞く話です。私も自分ではShe/Herと言っています。娘が大学の寮に入るときに、部屋の前に自己紹介の紙を1週間ほど貼る慣習があって、そこにShe/Herと書いたと言っていました。隣の子はTheyで、みんな最初にはっきりと明言するそうです。

金原 なるほど。ますます翻訳するのは難しい。たとえば『鬼滅の刃』は、作者が性別を明確にしていないこともあり英訳に手こずった、という話を面白く聞きました。英語は特にその時々の社会現象が反映されるので、難しいです。

岩城 それはきっと英語だけじゃないですよね。

金原 今はフランス語でも、議論が活発になっているみたいですよ。そもそも名詞に性差があるから、英語が性差を消すのに対して、逆に両方の性を必ず言う方向だとか。

YAたちにも読んでほしいアンドウマサトシリーズ

岩城 このシリーズはありがたいことに日本で学校教材としてよく取り上げられます。私は若い人に向けて書いているつもりはなかったのですが、入試問題などに使われることが増えていて。2017年に『Masato』が坪田譲治文学賞を受賞しましたが、坪田賞は主に児童文学に贈られる賞だったので、選考でも、この作品がいわゆる「子どものための文学」ではないことがネックになったらしいんです。でも、選考委員の阿川佐和子さんが贈賞式で、「この小説は子ども向けに書いていないところがいい」とおっしゃってくださいました。金原さんが日本に数多くご紹介くださったYA文学というジャンルには、こういう作品も含まれるのでしょうか。

金原 坪田賞というと、2022年に受賞した乗代雄介さんの小説『旅する練習』もその点で議論が起こったと聞きました。たぶん子どもやYA向けに書いた作品ではないんでしょうけど、やはり読んで面白いと思うのは若い人じゃないかな。だから岩城さんの『さようなら、オレンジ』から始まって、『Masato』から『M』に至るシリーズも、面白く読んでくれるのはYAの若い世代だと思います。そしてその人たちの中に強烈に残る。そういう体験をした読者は、その後も本を読み続けてくれるはずなんですよ。

岩城 そうであれば嬉しいです。

岩城けい氏
岩城けいさん

金原 若い頃に体験する苦しさを乗り越えていくとき精神的な支えになるのは、スポーツや音楽、映画などいろいろあって、人によって違いますが、僕は本でした。だから、本当は本好きのはずなのに本の楽しさを知らないままで老いていく人がいるともったいない気がするから、若い人にできるだけ本の面白さを伝えたい。それにはYAしかないだろうと思っています。

 僕が昔聞いた話ですが、1970年代にアメリカン・ライブラリー・アソシエイション(ALA)というアメリカの図書館の大きな組織が、成人以降も本を読む習慣のある人は、その習慣がいつ頃ついたのかという大きな調査をしたそうです。結果は中高生から大学生の頃という人が圧倒的に多かった。そこで慌てたのが図書館です。児童室はあるし、一般向けの本は並んでいるけれど、その中間の本がないんです。そこでYA室とかYAコーナーを設けようという機運が高まったという。それを裏付ける資料は見たことがないから、真偽のほどはわからないんですけどね。70年代にアメリカでYAカルチャーが盛り上がり始めたのは、そういう背景もあるのかなと。読者はたくさんいたのに、出版業界や図書館はまだそれに追いついていなかった、ということです。

岩城 日常で目に触れる環境というのも大事ですよね。そうであれば、『Masato』が試験問題で読まれるのも光栄なことだと思います。どしどし使っていただきたい。

金原 参考書やドリル、試験問題に出ていると、生徒や学生の記憶に残りますし、読んでみたくなるんですよ。またそれによって図書館や学校の図書室、教室にも本が置かれやすくなる。そういう場所に長く置かれてほしい作品ですよね。