数々の青春小説を執筆し、近年は中学受験の問題に相次いで著作が使用されていることから、中学受験の新女王とも呼ばれる作家・額賀澪さん。しかし、学校のことを知るほどに、部活についての疑問が湧き上がってきたそうです。

今回その疑問を解決するため、名古屋大学で教員の過労問題や体罰について研究を行っている、教育学者・内田良さんに会いに行きました。

前編では、部活動の未来のかたちについて、額賀さんの著作『ラベンダーとソプラノ』(岩崎書店)に登場する「半地下合唱団」を例に語り合いましたが、後編では、部活が学校教育にどのような影響を与えているのかといった、実態についての話がより深まっていきました。内田さんが驚いたという、児童書におけるジェンダーの考え方についても切り込みます。

撮影/大槻志穂 構成/編集部 (2023年12月15日 神保町にて収録)

左・内田良さん 右・額賀澪さん

先生の仕事は一体どこまで?

内田 さきほども、部活のダウンサイズについてお話ししましたが、いま部活は教員の長時間労働の大きな要因となっているので、活動の主体を学校から地域に移行しようという動きがあります。ところが、教員がただ働きで担っているから、お金も人もいない中での改革。地域移行は簡単にはできません。

額賀 なかなか進まないですよね。

内田 でも、実はいろんな土台から、新しい部活をつくれる可能性はあります。まず、学校単位じゃなくなる可能性が高いですね。教員の長時間労働に加え少子化もあって、吹奏楽とか合唱なんて一校では回らない。ただ、複数の学校が集まった状態でどう大会をやるのかということを考えていくと、だんだん部活による大会のシステムは壊れていくわけです。ある地域では、随分昔に少子化で吹奏楽ができなくなったということで、老若男女、みんなで「半地下合唱団」的活動をしている地域もあったはずです。

額賀 周辺の学校で合同チームを作るのではなく、地域全体で活動するということですね。

内田 そうそう。高校生も社会人も一緒に放課後の活動を週に一、二回やると。そういうふうにしていけば、多分子供にとってもいろんな大人に触れられるし、すごくいい機会です。それこそ、お祭りで歌って終わり、それでいいんだよね、というふうに大人の側が切り替えていかないといけないのに、大会は維持し、練習日も維持し、みたいな形でやっているから進まないんですよね。

額賀 本当に先生の労働時間はすごいですよね。私がいま大学で受け持っているゼミに一人だけ教員志望がいるんですよ。私が高校生の頃は、教員=手堅い進路選択、みたいな感じだったのに、いまは教職を取っていますって自己紹介すると、「おおーっ」と猛者みたいなリアクションを同級生はするんですよ。学生も分かっちゃっているんですね、先生がどれだけ大変な仕事かというのを。それだけ表に出ているのに、改善は全然されないですよね。

内田 だから、部活の構造もそうだけど、全部先生任せにしているんですよね。様々なしつけを先生にお任せする。放課後は部活の指導、帰宅後は宿題、つまり塾の代わりまで先生がしてくれる。「学校依存社会」だと思います。そりゃ、先生はただ働きでやってくれるので、とても都合はよかったでしょうけど。

額賀 明確な役割分担というか、「学校に任せられるのってここまでだよね、普通に考えて」というところの「普通」をみんなもう一回思い出してみようみたいなことなんですかね。

内田 まずは一度確認しなきゃいけないですよね。学校依存が当たり前になっちゃっていて誰も気づかないですが、子供の登校時刻や下校時刻って教員の定時の外なんですよね。お店の営業時間外にお客さんがやってきてモノを買えるみたいな、絶対おかしい状態なんだけど、当たり前になり過ぎて。

額賀 言われてみないと、そのおかしさに気づかないですね。

左・内田良さん 右・額賀澪さん

部活で青春をする保護者たち

内田 本当に『ラベンダーとソプラノ』は、部活の当たり前を次々とぶっ壊していく小説でもありますよね。

額賀 でも、やっぱり小説を一冊書くと、書きこぼしたことが次々出てくるんですよ。それも本が発売されてから。『ラベンダーとソプラノ』でも、部活動における保護者の問題をもうちょっと書きたかったと思いますし。

内田 逆によく書いてくれたと思ってます。何でこんな全部分かっているというか、私が部活についてずっと研究で調べてきたことを、何でこんな的確に表現なさっているんだろうと、すごく面白くて。

額賀 取材でさまざまな部活の顧問の先生にお話しを伺う機会があるのですが、やはり保護者との関係は難しいみたいですね。全国大会常連の強豪ほど大変だと聞きます。強豪校の顧問を異動してきた先生が引き継いだときなんて、本当に苦労すると。

内田 『ラベンダーとソプラノ』で、長谷川先生を「全国行ってよ」と叱りつけた保護者がいましたけど、あれ、本当にあるあるですよ。保護者に囲まれたという話は何回も聞いたことがある。まさにこれ。

額賀 これを取材先で聞いたとき、怖かったです。子供たちは前の先生のやり方で結果が出ているから、新しい先生は余計なことしないでくださいとか言われるらしくて。生徒も生徒で、新しく来た先生のやり方に懐疑的だから、先生自身がリーダーシップを取るまで時間がかかったそうです。

内田 きついですね。

額賀 でも、私が取材した先生たちは顧問一年目で結果を出せた人が多かったんですよ。その実績で、やっと保護者が任せてくれるようになったと。早いうちに全国に行けてなかったらやばかった、強豪校の保護者は怖いですよというふうにおっしゃっていました。

内田 そう思うと、学校って何をしているんでしょうね。

額賀 先生と生徒を飛び越えて、保護者が一番青春をしちゃっている状態になっていると、生徒と先生だけでは止められない。先生がどれだけ部活を緩くしようと思っても緩まらないとか、問題のありかがより複雑になりますね。

内田 だから、トップダウンでブレーキをかける仕組みが必要なんです。部活が過熱する理由というのは、楽しいからだし、頑張れば成果が得られてもっと頑張る。だからこそ、当事者自身には任せてはいけない。校長や教育委員会・国が、週三日までだよってブレーキをかけないと。大会の参加条件も週三日までと決めれば、みんな週三日という決められた時間内でどう勝つかと考える。そういうふうな仕掛けを作っていかなきゃいけないんですよね。そうすれば、みんなもっと楽に、体を壊さない形でやれると思います。

額賀 部活の地域移行もそうですが、トップダウンで練習週三日までと決めると、まず現場の顧問の先生と生徒と保護者が反発するじゃないですか。その反発を押しのけて実行する勇気が必要なんですかね。

内田 こうした場合にこそ、トップの強い決定権を使ってほしいです。下に行けば行くほどできないから。東京都の教育委員会は今年(対談当時)、保護者向けのチラシ(「学校における働き方改革へのご理解及びご協力のお願い」)を作って、高校教員の定時は朝八時半から夕方五時までですというのをどーんと出しているんですね。今までは保護者の顔色をうかがっていたのが、いやいや、定時だからと。やっとそういうことが声高に言えるようになってきたのかなと思います。

『教育現場を「臨床」する――学校のリアルと幻想』 内田良(慶應義塾大学出版会)

疲弊する教師、校則、部活動、感染症――。子どもをめぐる不合理。

学校における喫緊の課題である「部活動」「校則」「虐待といじめ」などの問題を、著者独自の観点から多角的に分析。

学校の虐待といじめは増えているのか。部活動はだれにとって問題なのか。校則は変わるのか。データを丁寧に分析し、結果から見える「真実」、そして子どもたちや教師たちの「苦悩」がどこにあるのかを明らかにする。

ジェンダーの最先端は児童書にあり

内田 話題を変えてもいいですか。部活の話をメインにした対談をと言われていたので、『ラベンダーとソプラノ』も「合唱クラブの話ね」と思って読み始めたんです。ただ、割と早い段階で、朔ちゃんが「背が高くなるのがそんな嬉しくない人もいるんだよね」みたいなことをさらっと一言言うんです。そこについて、ん? 何でだろうなと、少し引っかかったんです。
 で、その次に引っかかったのが、朔ちゃんが自分のことを「朔ちゃん」と呼んでいるということ。これに気づいたとき「もしかして、この本は部活とは別のストーリーとして、ジェンダーの観点も走らせているんじゃないのかな」みたいなことを感じたんです。そしたら実際にいろんな場面で、ジェンダー、性役割の話が後半どどどどどどって出てくるわけじゃないですか。それがすごく面白かった。

額賀 本当ですか。嬉しい。

内田 というのは、私自身がジェンダー問題で大学院に進んだんですね。ただ、私が院に進んだ2000年前後、社会科学の分野でジェンダー研究は最先端を進んでいました。なので、学問としてやるには競争相手が多過ぎる、ジェンダーは難しいぞ、ということを指導教官に言われ、確かにそれはそうだと思ったんです。
 そこで、ジェンダー、言い換えれば性役割の問題の中でも特に母子関係の虐待にテーマを少しずらして、社会学で虐待の問題を調べてみようかと指導教官と話し合ったんです。ただ、虐待は学校の外の話なので、学校を中心に研究する教育学の中ではややマイナーなテーマなんですね。なので、虐待のことで博士論文を仕上げた後は、学校での子供の様々な被害として部活での怪我のことを調べて、そのうちに教員の長時間労働がだんだん見えてきて、今日の話題があるわけで。でも、出発点は実はジェンダーなんですよ。そうした研究人生だったので、『ラベンダーとソプラノ』の中にあるジェンダーについても、めちゃくちゃ反応しちゃいました。

額賀 ありがとうございます。『ラベンダーとソプラノ』は活字のちょっと長い読み物を読める小学校高学年を読者に想定しているんですが、実はちょうどこの辺りの児童書が、価値観の最前線にいるんじゃないかと思っているんです。

内田 はあー。

額賀 ほかの作家さんが書く児童書を読んでも、大人向けのエンタメ小説で「今が旬のテーマ」とされているものが、児童書では少し前に書かれていたりするんです。
 私が『ラベンダーとソプラノ』を書いたのは二年くらい前ですが、例えば当時、女の子の格好をする男の子が出てくる大人向けのエンタメ小説があったとしたら「その子が女の子の格好をするのにはシリアスな理由がある」という物語として書かれる場合が多かった。むしろそこが物語の盛り上がりポイントだった。ただ児童書だと、二年前の時点で「その男の子が女の子の格好をするのには、そんなに大きな理由があるわけじゃない。やりたいからやってるだけ」みたいな。

内田 すごい……!

額賀 その子の友達の視点でも、「僕の友達は毎日スカートをはいて学校に来ている」と、ただありのままを受け止めているんです。

内田 その話めっちゃ面白い。やばい。何でかって、自分として読んでいて、ほっとする場面とかがあるんですよ。例えば、朔ちゃんが声変わりをすると。それを主人公の女の子、真子ちゃんとか、あるいは朔ちゃん自身も受け入れようとして物語が終わるわけですよね。このフラットさが良いなと思いました。
多くの人は、性への違和感をどこかで受け入れていかなきゃいけないタイミングがあると思うんです。私は、建前として性別は非公表としているのですが、実際のところ男として生まれ、育てられてきたことは塗り替えられないし、十八の頃までに培ったいろんな自分の男性的な、もしくは女性的なものがあるじゃないですか。みんながそれを理解して受け入れるというフラットな落ち着きどころに、すごく未来を感じたんですね。それがすごく新しい描き方だなあと。

額賀 特に児童書を書くときは、大人向けを書くときよりもその辺に気をつけなきゃなと思っていました。児童書は、小六とか、中一とか、それこそ今から部活にのめり込んでいくようなときに読むものだから、その子に何をもたらすかということを考えています。私以外の児童書のキャリアが長い作家さんもきっとみんなそうで、だからこそ現実の一歩先、それも、よりいい方へ一歩進んだ世界を書こうとしているんじゃないかと。
例えば、自分の性別に違和感があるという主人公を書くとして、安易にエンタメにしようと思ったら、アウティングが描かれたり、カミングアウトによって両親との軋轢が生まれてしまい~なんて展開をドラマチックに書くこともできますが、性別に違和感があったとしても、それを周囲に「自分の本当の性は○○なんだ」と表明する必要もなく、他人に受け入れて許してもらう義務も別にないじゃん、というのが現実の一歩先なんじゃいかと。

内田 最終的にはそこに行くべきなんですよね。それでいいじゃんという。

額賀 主人公の悩みに対して、「それでいいじゃん」というものにちゃんと「それでいいじゃん」と言ってあげるのが、児童書の大切なところじゃないかと思います。

内田 なるほど。いや、本当に『ラベンダーとソプラノ』は全部のストーリーが面白かったです。自分の聞きたかったことは全て聞けました(笑)。

額賀 こちらこそ今日は内田さんとお話しできて嬉しかったです。ありがとうございました。

対談後、互いにサインを求めあう内田さんと額賀さん