平賀源内の生涯を描く歴史大長篇。
夢幻の旅人 一
飯嶋和一
2026年03月13日
第一章 一節
蓮の咲き始めた安永九年(一七八〇)六月、小田野直武が去る五月十七日に郷里の出羽角館で急逝したと知らされた。当年数えて三十二歳の若さだった。
立松懐之の記憶にある小田野は、色白で眉と髭が濃く、眠たげな顔をし、どことなく影の薄い人物だった。口数も少なく、言葉を交わしたことが何度かあったものの、羽州人の口ごもるような話し方のせいか聞き取りにくかった。だが、絵筆を持たせれば尋常の才ではなかった。
小田野の絵といって、懐之がすぐに思い浮かぶのは、新川岸を描いたものだった。背景の青空の下、新川に沿ってずっと続く酒蔵の並び、舟影を映した水面、遥かにかすむ地平線、天地の間にただよう雲の帯……川面を渡ってくる風さえ感じられ、描かれたその場に実際たたずんでいるかのような情感をもたらした。画面のほとんどを占めた青く澄んだ空には、ささくれ立った心を穏やかになだめる静かな力があった。小田野の絵は、いずれも天空が大きくとられ、画面の三分の二ぐらいを占めていた。小田野の絵を見るまでは、海辺に立っても浮かんでいる帆かけ船やら遠い対岸の家並みやら、富士山など、形有るものに目が行っていた。ところが、小田野の描いた品川や高輪の海を見てからは、むしろ空が風景の中心をなして映るようになった。何枚かの絵を見たことによって眺める世界が別のものに変えられてしまった。
訃報を知らせにきてくれたのは、江漢司馬峻という長たらしい画号を持つ男で、懐之は漢画の絵師だと思っていたのだが、彼は小田野からオランダ画の手ほどきを受けていたのだという。
司馬峻は、たいそう自惚れが強く、仲間うちの気受けも当然良くなく、懐之も格別親しいわけではなかった。そんな人物が、芝の新銭座町から懐之の住む鉄砲洲の舩松町まで知らせにきてくれた。
「それにしても、昨年(安永八年)暮れに源内さんが亡くなり、それから半年と経たず、まさか武助さんまでが……。一年前の今頃には思いもしなかった」司馬峻はそう漏らした。平賀源内の異様な最期に続いて小田野直武までが世を去った。その失って取り返しのつかない思いが、誰かと語らずにはいられなかったためと思われた。
源内が自宅で人を斬って入牢したのは昨年十一月二十一日のことで、小田野直武、通称武助は、その翌日の二十二日に藩務をおろそかにしたという理由で謹慎を命ぜられ、それから間もなくして江戸を去った。源内の思いがけない凶行が、秋田藩士だった小田野の身の上にも影を落としたにちがいなかった。
当年五十五を数える懐之からみると、平賀源内が二歳年少、小田野にいたっては二まわり近く離れていた。自分より年若く、まれなる天与の才に恵まれた逸材の訃報に相次いで接することになり、懐之もしばらく心の持って行きようがなかった。
「……四年ほど前に、源内さんの家で新川岸の蔵の並びを描いた武助さんの絵を見ていたら、ちょうど武助さんが現れて、見事なものですねと言ったら、トオス遠近法とか陰影法とか、オランダ画の技法について話してくれた。光のあたらないところに影をつけると物の実が浮かぶという陰影法の説はわかったけれど、トオス遠近法というのはどうもよくわからなかった」懐之がそう話すと、司馬峻が突然笑い出した。
「トオスじゃなくトウシ、透かし視るですよ。透視遠近法。武助さん、お国訛りが出たんですよ」司馬峻はそう言うと、携えてきた風呂敷包みを開け、中から紙を一枚取り出した。
文台の上に半紙大の紙を横にして広げ、矢立の小筆で同じ大きさの縦長の長方形を二つ、左右に並べて描いた。そして、二つの長方形の両方に、縦と横、対角の二線、合わせて四本の線が真ん中で交差するよう線を引いた。角凧を作る時の竹骨の配置だったが、まっすぐな細い線を筆でさっと引いてみせたのには驚いた。
「まず絵を描く絹布と同じ大きさの木枠を用意し、その木枠に縦、横、対角、四本の紐を張るんです。こんな具合に。そして、木枠に張られた紐を基にして描こうとする景色を透かして見る。すると、実際の街道と松並木はこんなふうに見えるはずです」
司馬峻はそう言うと、木枠に紐をつけたと仮定した左の長方形へ、見たままの街道と松並木を素早く描いて懐之に見せた。松の木は近くは大きく、遠くへ行くにしたがって少しずつ小さくなっていき、道も手前は幅広く、奥へ行くにしたがって細くなっていく景色だった。なれた手付きで筆を素早く動かしながらも、交差する四本の紐の向こうにどこかで見たような松並木の街道が確かに現われた。司馬峻の画才も凡庸でないとわかった。
「画を描くこちらの絹布にも、木枠の紐と同じように四本の線を引いておき、張った紐をもとに透かし見える実際の景色の道と松並木を、絹布のほうにも引いた線にしたがって写せば、近くの樹木は大きく、遠くなるごとに次第に小さくなっていくさまがそのまま描ける」
そう言いながら、今度は絹布張りと仮定した右の長方形にも、四本の線にあわせた同じ松並木の街道をさらさらと手際よく描いてみせた。左右二つの長方形に同じ画が描かれた紙を再び懐之に向けて示した。
「こうして描けば、近くにあるものは大きく、遠くのものは小さく、人の見えるがままの景色を描ける。武助さんが話した蘭画の透視遠近法というのは、こういうものです。常に紐を張った木枠を持ち歩くわけではありませんが、頭の中にそれを置いて景色を見、そして描くということです。先に引いておいた線は、線描きした景色の上から色を塗れば見えなくなる」
司馬峻はそう語り、これでわかったろうと視線を向けた。
懐之は「よくわかった」と二度うなずき返した。すると司馬峻は描いてみせた紙を素早く引き寄せ、折り畳んで風呂敷の中にしまい込んだ。まるで宝の地図を隠すような素早さだった。他人には秘匿するはずのオランダ渡来の画法を、司馬峻は成り行きで思わず話してしまったようだった。
懐之は、平原屋東作あるいは平秩東作と名乗る町人狂歌師に過ぎず、司馬峻はたんなる凡夫と値踏みし、披露してくれたものと思われた。
「この画法を知り、実際に描けるのは、とうとうわたしだけになりました」司馬峻は顔を起こし鼻をぴくつかせてそう言い、次いで視線を遠くに泳がせ、「それにしても、まさかこんなに早く、武助さんまでが……」と付け加えた。
小田野直武の名は、六年前の秋に杉田玄白らによって上梓された『解体新書』の挿絵図で一躍世に知られるようになった。懐之の住む舩松町は隅田川に面し、目の前に佃島への渡し場がある。舩松町のすぐ南西には中津藩奥平家の中屋敷があり、前野良沢が藩医として住んでいた。その前野宅に杉田玄白らが集まって『解体新書』を翻訳したことで知られていた。
司馬峻によれば、原書『ターヘル・アナトミア』の挿絵は銅版画という西洋の特殊な技法によるもので、それについては「まだよく知らない」と言った。その銅版画なるものは髪の毛ほどの細い線を紙に印刻でき、それを手書きで再現できるとすれば小田野直武しかいなかった。杉田玄白に小田野を推薦したのは源内だろうと司馬峻は付け加えた。期待に違わず小田野は、面相筆で原書にある解剖図二十八頁を丹念に写し取り、人体内部の細微な部分まで見事に再現してみせた。『解体新書』を見せてもらったが、医学というものに疎い懐之には、皮の下にあるというむき出しになった手足の筋や肉を描いた図はただ気味が悪かった。
そういえば『解体新書』の跋文に小田野がこんな意味の述懐を残していたのを懐之は思い出した。
『わたしの友人、杉田玄白が翻訳した解体新書が完成した。玄白は、わたしに解体新書の図を写させた。だが、はたしてそれがオランダ人の域にまで到達できたかどうか、たいそう心もとない。わたしのような未熟者が背伸びしても、とても及ばないのはよくわかっていた。けれども、描くことができないと言えば、友人を落胆させることになる。親しき仲間に落胆させるよりは、むしろ未熟者としての恥を後世までさらすほうがよいと考え、あえて取り組んでみた。君子方々の寛容を願うのみである』
オランダ医学書を翻訳した『解体新書』を翻訳し上梓するまでにこぎつけた杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周ら、当代最良の知性は、版行差し止めの事態も危惧していた。何せ幕府は異国に関する書物の公刊にはとりわけ敏感だった。明和二年(一七六五)に後藤某が、オランダの風俗や産物などを聞き書きして版行した『紅毛談』という小冊子さえ、絶版の憂き目にあっていた。そのなかに二十五字からなるオランダ文字が三とおりの筆体で記されていたためだったという。
そこで杉田玄白は、桂川甫周の父甫三が幕府の奥医師であるのをさいわいに、彼を通じて老中に献上しておいた。そればかりか、いざという場合にも備え、京都の関白の公卿にも『解体新書』を要約した『解体約図』を贈って賞讃を得ておくという周到な根回しを怠らなかった。老中にも幸いに田沼意次のような開明派がおり、無事公刊の運びとなった。
だが、『解体新書』は、杉田玄白らが想像していた以上に、蘭学や医学の領域を超えた危険な書物だと懐之には思われた。杉田玄白や前野良沢らが小塚原の刑場で腑分けを実見し、オランダ医学書の記載する人体とまったく同じ仕組みを持つことを確認した。オランダ人も、日本人も、人間というものは身体の内に皆同じ仕組みを持ち、皮一枚剥いでしまえば誰もが等しく同じであることを明らかにしてしまった。公儀幕府と諸藩による封建の支配は、いうまでもなく士農工商の身分制を基に成り立っている。ところが『解体新書』は、上は天子や将軍、下は橋の下の物乞いまで、人という生き物は結局のところ何の違いもなく、まったく同じであると暴いてしまった。公刊を許可した幕府も、まさかその書物がそんな意味もあわせ持つことまでは考えもしないはずだった。人には厳然たる分限が初めからあり、それをまもって生きるしかないのだと決めつけたい公儀を含め、杉田玄白たちは戦わなくてはならない相手にこと欠かなかった。
シナから昔渡ってきた医学は、いつの間にか観念的な陰陽五行の空論に走り、実際の病気治療に直接役立つものではなくなっていた。名医と呼ばれる医者でも、せいぜい手首の脈打ちで薬を決め、薬が効けばアタリ、効かなければハズレ、そんな勘だのみの籤引きのようなもので屋敷や蔵を建ててきた。従前からの陰陽占いに依存する売薬人どもからの圧力はかなりなものだったはずである。むろん杉田玄白や前野良沢らは、人間の体内をすべて実見し、確信を持って翻訳にあたった。いかなる非難や中傷のたぐいを浴びせられようと彼らは動じるはずがなかった。
第一章 二節
小田野直武の死因については、あまりに急だったため、また勝手様々に語られるのだろうが、懐之が昨年末に小田野を見た時、すっかり頬が削げ、ずいぶん痩せたと感じた。絶命した時に血を吐いたらしいとの話も司馬峻から聞いた。たしかに小田野は大酒飲みで、しかも遊興好き、源内から酒と遊里通いをひかえるよう意見されていたという。
だが懐之は、小田野が酒と遊里に逃げずにはいられなかったのではないかと思った。源内は宮仕えを嫌悪し高松藩の士籍を自ら捨てたが、小田野は内心それを望んでいても容易にはいかなかった。彼には二人の息子があり、上は十歳で下の児は昨年三月に生まれたばかりだった。天涯孤独だった源内とはそこが違っていた。禄を離れ絵筆一本では妻子を養うことが難しく、さりとて秋田藩士の身であれば家中の上役から相応の勤めも強いられたはずだった。
江戸に派遣された小田野の藩務は、「銅山方産物吟味役」という堅苦しい名目のものだった。むろん小田野が銅の市場や相場について調べていた様子はなく、初めて江戸に出て来た七年前の冬以来、もっぱら源内の家に出入りして西洋の銅版画を模写し、そこに用いられている画法の探究に没頭していた。
小田野の主君、秋田藩主佐竹義敦は「曙山」の画号を持ち、西洋画に強い関心を持っていた。佐竹義敦が江戸に参府すれば、小田野を下谷三味線堀の近くの藩邸に呼び、オランダ画の手ほどきを彼から受けていた。
司馬峻は、「佐竹の殿様が描いたという蘭画もいろいろあるみたいですが、実はほとんど武助さんが描いたようなものですよ」と鼻で嗤った。佐竹義敦が、小田野を江戸勤めにしたのは何よりもオランダ画法習得のためだった。だが、ほかの藩士にしてみれば、主君の愛顧をよいことに、小田野は江戸藩邸に寝泊まりすることもなく、藩務をかえりみることもなく、平賀源内ら江戸の胡散臭い連中と遊興にふけっているとしか映らなかった。ほかの秋田藩士からの風当たりは想像以上に強いものがあったにちがいなかった。それらの心の内に鬱積したものが小田野を大酒に走らせ、命を縮めることになったのではないかと懐之には思われた。
そもそも小田野直武の家は、佐竹宗家が支城を置く角館にあり、父直賢は角館城代の槍術指南役だった。直武はその次男として生をうけた。
安永二年(一七七三)七月、平賀源内が秋田藩から鉱山開発のため招かれ、阿仁銅山へ向かう途次、角館を訪れたことで直武の運命は突然変転することになった。直武が二十五歳を迎え、長男が生まれた年である。
風聞によると、源内が宿泊した角館の旅宿で屏風絵に目を止め、それを描いた小田野直武を宿に呼び、真上から見た鏡餅を描かせたという。絵筆には自信を持っていたはずの直武も、円を描くしかすべがなかった。それを見た源内は、「これではただの円でしかなく、皿か盆にしか見えない」と言い、みずから筆を持って直武のえがいた円に陰影をつけ、実体を持つ鏡餅にしてみせた。陰影をつければ実像が立ち上がる。それまでうすうすは感じていた漢画の欠陥を、素人の源内に指摘され、たやすく解決法を示された。小田野の受けた衝撃は、凡人が想像するよりはるかに大きかったはずである。
そして源内は、「従来、画を習う者の多くは、まず四君子を習い、運筆骨法から入るのを常道としているが、自然そのものには筆法のようなものがあるわけではない。線よりもむしろ色彩、明暗によって自然の形体を正しく表現しなくてはならない。そして、その明暗の理を研究するには、蝋燭の灯、行燈の光を使って行うのがもっとも近道だ」そう教えたという。
源内はその年の十月末に江戸へ帰ったが、小田野は藩主佐竹義敦によって角館支城の給人から、いきなり秋田本城の直参に取り立てられ、江戸詰めを命ぜられた。その異例の取り立てにより小田野が江戸の土を踏んだのは、同年十二月のことだった。小田野の非凡な画才を見出した源内が、絵画に強い関心をもつ藩主に小田野の江戸詰めを強く推したにちがいなかった。嫉妬で固められたような宮仕えで、藩主による異例の取り立ては、初めからほかの藩士たちの反感を招いていたはずである。
一介の素浪人ながら平賀源内には、良くも悪くも出会った者の運命を狂わせる強い力があった。もし小田野直武が源内と出会うことがなければ、江戸の土を踏むこともなく、おそらく角館の一給人として平凡な生涯を郷里の地で送っただろう。名を世に知られることはなく、三十二の若さで夭折することもなく、長寿をまっとうできたかもしれなかった。源内と遭遇したために江戸詰めとなり、それからわずか七年を生きただけだった。最初に西洋画法による絵画の道を自力で切り開こうとした小田野の困難は、秋田藩士としての生きにくさも含めて、凡人の想像を超えるものがあったはずだった。
「もし、源内さんと出会うことがなければ、武助さんも長生きできたかもしれない」懐之は思わずそう口走った。
すると司馬峻は、二重の大きな目を一瞬まっすぐに懐之へ向け、次いで視線を逸らして口元に笑いを浮かべた。そして、小さく首を横に振った。これだから凡庸な俗物を相手にするのはごめんだとばかりに。
「長生きですか? みちのくの田舎侍のまま、せいぜい安宿の屏風絵やら、荒れ寺の絵馬やらを描いて。それで満足していられるほどの画才ならそれでいい。そんなやつらはそこいら中にごまんといる。寝て、起きて、食って、屁をひって糞して、嫁とまぐわって子を作って、それで満足している連中は、そうするしかないからそうしてるだけの話ですよ。あとはせいぜい長生きしか取り柄がない。子孫を残したなどと何かを成し遂げたごとく語るが、七代さかのぼれば一人の先祖は二百五十四人にもおよぶ。大勢の血が混じるのだから代を重ねればアカの他人も同然。そういうたぐいの、狂ったまま何の疑いも持たず生きていられる連中は、たとえ生まれてこなかったとしても、たいして違いがないんだ。武助さんはそうじゃない。天骨を備え、それを活かして、世にそれをはっきりと示した。短い間だったけれど。
『解体新書』の文面だけ読んだのでは、何もわからないでしょう? あの挿絵図があるために、わたしら医学なんかの素人でも書いてあることがつかめる。わたしも、あれを見せられて、いつまでも床の間の掛け軸なんか描いていては仕方がないと思うようになりました。
玄白さんたちが『解体新書』を漢語に訳せば、朝鮮やシナ、漢語のわかる亜細亜の国々で、大勢の病に苦しむ人たちが救われることになる。昔、三蔵法師が天竺から仏典を持ち帰り、漢語に翻訳された。それがシナばかりか、朝鮮や日本に伝わって、心に苦しみをかかえ、つらい日々を生きなくてはならない衆生がどれだけ救われてきたか。それと同じように、今度は、漢語に訳された『解体新書』がシナや朝鮮に伝われば、限りない数の人々が病いから救われることになる。
武助さんは、源内さんと遭遇して間違いなくよかった。わたしはそう思いますね。武助さんが遺した何作かの蘭画と、『解体新書』の挿絵図で武助さんはずっと生き続ける。
『老子』のなかに、『死してしかも亡びざるものは寿し』とあったけれど、まったくそのとおり。老子のいっていることはそういう意味ですよ。……武助さんと出会えて、わたしはまことに運がよかった」
やたら自我ばかりが強く、口悪く他人を蔑む癖のある司馬峻が、最後にそう述懐したのが、懐之には救いのように感じられた。いかなる終わり方にせよ、ひとつの人生が完結してみると、どうでもよい雑音は消されその人の生の軌跡が鮮明に見えてくる。小田野がみずからの画才を元手に西洋画法を探究し、それを司馬峻に伝授した。小田野直武の画才と技は、彼が遺した蘭画と挿絵図ばかりでなく、司馬峻というこの珍妙な絵師の内で生き続けるにちがいなかった。ひょっとしたら、司馬峻から後世のだれかに受け継がれていくのかも知れなかった。
この年三十四歳になるというこの蘭画絵師も、この先生きていくうえで俗世間を相手に孤立無援の苦しい戦いを強いられることだろう。狂っているのは世間にあふれる俗物どものほうだと決めつける、これぐらいの強さがなくては、とても生きていけないだろうと懐之には思われた。
「このあたりは、いつの間にか炭問屋や薪問屋が居並ぶようになった。御商売はいかがですか」司馬峻が急にあらたまった調子で尋ねた。
「まあ、なんとか、まだこうして足がありますよ」懐之は苦笑いでそう答えるしかなかった。
懐之の実家は内藤新宿にあり、親の代から馬宿と煙草屋を営んでいた。七年前の安永二年(一七七三)、懐之は思い立って「天城山炭焼き廻し」を幕府に願い出て許可を得た。伊豆の天城山中で焼いた炭を運び出し、江戸で販売する計画だった。炭は、飯を炊くにも、湯を沸かすにも、暖をとるにも、二六時中必需の品であるから人が増え続ける江戸近辺で需要の絶えることはない。炭ならば同一の量を俵に詰め、伊豆の山中から相模湾に面した港へ出し、船で江戸湾をわたり、隅田川をさかのぼって舩松町まで運ぶのもたやすい。そう思いついたものの、伊豆山中から港へ運び出すのは何人もの人足頼みで、船賃も含めた運送代が思いのほかかさみ、結局のところ食べて行くどころか多額の損失を出した。幕府からの前借り金二千八百両余も不納金としてかかえるありさまとなった。
五年前に息子の桃次郎へ実家の身代を譲り、懐之は本所の相生町で心機一転材木問屋を始めたものの、これもまた万事に慣れないためうまく行かなかった。二年前に材木問屋を店じまいし、炭商売のため借りていた鉄砲洲の家に移り住んだ。
「何をやってもうまく行かない。ひとが隠居を決め込むこんな歳になっても、このザマですから。まあ、そういうさだめのもとに生まれてきたようなものと……」懐之はまたも苦笑いにまぎらせるしかなかった。
司馬峻は急に真顔になり、懐之をまっすぐに見て、「源内さんがよく口にしていたのを覚えてませんか」と言い、「すべては失敗から始まるんだと。失敗を重ねて、ものごとの肝がやっと見えてくる。一心にそれを続ければ、思いがけず天地の恩恵が得られ、成し遂げられることも起こる。失敗続きで何が悪いんですか。世間の連中は、しくじることを恐れて、何か思いついても結局は何もやらずに生涯をただ虚しく送る。失敗すらできずに終わるんだ。楽隠居といえば聞こえはいいが、わずかなことにアグラをかいて、みみっちい満足をかかえ、馬鹿ヅラをして死ぬのをただ待ってるだけでしょう?
間違ってませんよ、東作さんは。こうして実際に踏み出してる。わたしの身の回りには、三十を過ぎたばかりで隠居老人みたいな者ばかりです。ああいうしょうもない連中とはちがう。さすが源内さんの朋輩ですよ。わたしはそう思いますね」叱るような勢いでそう言った。
まるで昔の平賀源内と話しているようだった。源内は、心に思うところがありながら踏み出すことをためらい手をこまねいている者を見るとよく腹を立てていた。「いつまでも何をながめてるんだ」と。
乾坤の手をちぢめたる氷哉
源内の没後、この発句が辞世の句だといわれていた。司馬峻の言に「天地の恩恵」という言葉が突然出てきて、懐之は源内が遺した句を思い出した。
「何度も試みては失敗を繰り返し続けたとしても、天地が恵みの手を差し伸べてくれれば成功することもありうる。天地は手を差し伸べたものの、自分に触れたとたん思わずその手をちぢめてしまった。冷えきった氷に触れたかのように」
牢死した科人は、弔われることもなく回向院の穴にただ捨てられ埋められるのが定めだった。浅草は橋場の総泉寺にある源内の墓は、源内と親しかった幕府医の千賀道隆が牢役人に手を回し亡骸をもらい受け、みずからの菩提寺に葬ったものだった。荼毘にふされた源内の骨壺を墓に納めた時、千賀道隆と千賀道有の父子、源内の使用人要助らとともに懐之も立ち会った。
総泉寺の本堂左手、井戸脇に建てられた源内の墓は、高さ五尺四寸(約一・六メートル)ほどある立派なもので、上に四角い天蓋を載せ、その頂に宝珠を飾った「宝篋印塔」の型をしていた。墓の上段に「平賀源内墓」とはっきり刻まれ、下段には命日となった「安永八 己亥 十二月十八日」、そして「智見霊雄居士」と戒名が彫り込まれていた。懐之は何度かお参りに足を運んだが、いつ訪れても梅鉢紋の付いた花立石には季節の花が捧げられて、源内の唐突な死を悼む思いが芳香を漂わせていた。
司馬峻が帰った後、懐之は文机に紙を載せ、彼が教えてくれた透視遠近法の、長四角に真ん中で交差する四本の直線の図を描いてみた。オランダの画法だと司馬峻は言ったが、小田野直武も、司馬峻も、オランダ人が居住する長崎には行ったことがなかった。司馬峻は小田野から伝授されたのだろうが、陰影法を小田野に教えたのが源内なのだから、おそらく透視遠近法も源内が小田野に伝授したのだろう。
去る十一月二十一日の朝、平賀源内は乱心して門弟にあたる米屋の伜を斬殺し、勘定奉行の松本秀持に仕える用人の右手親指を斬り落とした、という。戯作で源内みずから「貧家銭内」などと自嘲し金欠を嘆いていたせいで借金のもつれ、あるいは男色関係のいざこざによる凶行説が語られているが、そんな俗世間にありふれたことで源内が人をあやめることはない。それだけは確かだと懐之には思われた。
源内を絶望させ凶行に走らせたのは何だったのか。木枠に張られた交差する四本の紐の向こうに、源内は何を透かし視ていたのだろうか。凶行にいたった理由はそこにあると懐之は思うにいたった。
(続く)
プロフィール
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飯嶋 和一 (いいじま・かずいち)
1952年山形県生まれ。83年、「プロミスト・ランド」で第40回小説現代新人賞、88年、『汝ふたたび故郷へ帰れず』で第25回文藝賞を受賞する。2000年、『始祖鳥記』で第6回中山義秀文学賞、08年、『出星前夜』で第35回大佛次郎賞、15年、『狗賓童子の島』で第19回司馬遼太郎賞、18年、『星夜航行』で第12回舟橋聖一文学賞を受賞。他の著書に、『神無き月十番目の夜』『黄金旅風』『南海王国記』など。
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