平賀源内の生涯を描く歴史大長篇。
夢幻の旅人 二
飯嶋和一
2026年03月23日
第二章 一節
源内が住んでいた神田白壁町の家には屋根上に物干し台があり、そこに上って「星見酒」と称し、酒を飲みながら四方山話に花を咲かせた日々があった。懐之の内藤新宿の家がもらい火で全焼する前のことで、源内や太田南畝と知り合った後だったから、宝暦の十三年(一七六三)、未年の頃だったと思う。
その年に懐之は、川名林助の勧めにより『水濃往方』を書いた。近年の隠者たちの伝記逸話集で、上梓の際には源内が序文、跋文は林助が書くことになっていた。源内は、その年七月に本草学の『物類品隲』を刊行し、戯作においても代表作となる『根南志具佐』前編と『風流志道軒伝』を相次いで発表し、一躍文名を広めた。『風流志道軒伝』に序文を寄せた「独鈷山人」というのも川名林助の筆名のひとつだった。林助も、かつて仕官していた時期があったものの源内と同じく宮仕えを嫌って素浪人となり、諸国を徘徊しながら漢詩を詠んだり雑文を書いたりして日々を送っていた。懐之を源内に引き合わせてくれたのも林助だった。懐之が三十九、源内は三十七を数え、林助は三十三の歳で、皆元気がよかった。懐之が出会った三十半ば過ぎの源内は、小太りの中背、怒り肩に猪首、頬も豊かで下唇が突き出した受け口、気の強そうな鷲鼻と眉尻が上がった眉ながら黒目がちの穏やかな眼差しをしていた。額を大きく剃りあげ、紙縒で細くまとめた髷を頭皮から突き立てるように曲げて結う本多風の髪形をしていた。
昨今江戸から宗五郎の宮詣でに佐倉街道を行く人が絶えなかった。それが星見酒の話題にのぼり、宗五郎の宮に参詣したことのある川名林助が、酒の肴に建立の由来を物干し台で披露した。
延享三年(一七四六)二月、出羽山形城主だった堀田相模守正亮は、老中に列せられたのを機に、堀田家旧領の下総佐倉十万石へ転封された。佐倉は、房総を押さえる位置にあり、その支配には譜代の大名のみが配される要衝の地だった。乱心を理由に堀田上野介正信が改易されて以来、八十七年ぶりに堀田一族の佐倉城主復帰となった。堀田正亮の祖は、上野介の弟にあたる人物だった。
同年三月、堀田正亮が初めて佐倉城に到着した夜、随行してきた側近家臣に、「先刻、角来村という坂道で、五十ばかりの老人が出て来てわしを拝し、先に立って来たが、あれはだれか」と尋ねた。
家来は怪訝な顔で「そんな老人の覚えはありませんが」と答えた。
正亮は「たしかに自分を拝し先立ちしてきた。そちが気づかぬはずがないだろう」と重ねて尋ねた。ところが、ほかの家臣たちも皆首を横に振った。
以前から佐倉城に仕える老人が「おそれながら」と末席から進み出て、「それはまさしく公津宗五郎の霊が現れて、お先立ちをいたしたものでしょう」と神妙な顔で言い、「往時、上野介様が江戸より佐倉へお戻りになられました折に、ただ一騎でおいでになり、角来の坂でお召しの馬が疲れ果て進まなくなったそうです。その時も老人が現れ、お馬の口を取って嬉しそうに坂を下りましたところ、とうとうお馬が倒れ起き上がらなくなってしまいました。それから先はその老人がお先立ちをし、上野介様は徒で進まれました。田町御門までお着きになられましたが、老人の姿は消えて、どこにも見当たらなかったそうです」と話した。
正亮は微笑し、「そんなことはあろうはずがない」と言ったものの、血の気の引いた顔で目は笑っていなかった。
佐倉城主となった堀田相模守正亮は、翌年の延享四年(一七四七)、領内の将門山に宗五郎の宮を建て直し、鎮魂のため自筆の般若心経を奉納した。また、荒れるに任せていた将門の祠と妙見神社も修復した。
正亮が佐倉に転封される八十数年前、堀田上野介の支配下にあった佐倉周辺の村々は、苛酷な年貢と課役に苦しみ、伝来の田畑を売り払って他国へ離散する者が後を絶たなかった。心ある名主(庄屋)たちは、定めどおり佐倉藩の郡奉行や家老に年貢と課役の軽減を願い出たが、少しも改善されることはなかった。藩庁の許可なく江戸に出て直訴すれば、その者は厳罰に処される。そこで各村の名主三百余人が意を決して出府し、江戸屋敷に願い出たが、叱責されただけで終わった。そこで公津村名主の木内宗五郎ら六人が総代となり老中の久世大和守に駕籠訴をしたものの、訴願書は下げ渡しとされ、結局何の進展も見られなかった。
承応二年(一六五三)十二月二十日、下谷広小路の黒門前で上野寛永寺に参詣する四代将軍家綱の駕籠に、宗五郎が駆け寄り、一間の竹先に訴願状をはさんで差し出した。お側付きの者が蹴りつけて宗五郎を退けたが、訴状だけは受け取ってくれた。
将軍家綱は、宗五郎の訴願状を老中の井上河内守に渡し、老中評議のうえ堀田上野介へ下げ渡しとした。堀田家支配になる三百余村の名主が連名しての訴えに、上野介も面目を失い、家臣に年貢減免を命じた。ところが、主君が主君なら家来も家来で、過重な年貢と課役の件には触れることなく、藩庁への届けも出さず江戸に出て将軍に直訴した宗五郎を強訴不敬の罪で獄に下した。
明暦元年(一六五五)二月十一日、宗五郎夫婦は磔となり、四人いた男児はすべて打ち首にされた。四番目の幼児が打ち首になるのを見て、宗五郎は、「自分たち夫婦は万民のために死ぬのだから悔やむことはないが、右も左もわからない幼児まで殺すのは非道の極みである。いずれ上野介を修羅道に引き入れ思い知らせてくれよう」と叫んだ。
五年後の万治三年(一六六〇)十月八日、堀田上野介は一通の上奏書を幕府に提出した。
「当代になって十年におよぶ。万民困窮し、諸国では民はもとより牛馬まで飢えているありさまである。その根本は執政に人を得ないためで、自分の手で不届き者を討とうと思ったこともあったが、将軍が御成長なされ、くだんの悪政がお耳に達すれば、しかるべきお計らいもあろうかと思いながら今日にいたった。
先に松平能登守殿が自らの知行を献上し、旗本衆の困窮を救うよう願い出たところ、狂人扱いされてしまった。その後、能登守殿の領地をはじめ将軍家に収められたのは十三万石におよぶはずだが、旗本には少しも恩沢なく、みな困窮している。そこで、自分の知行十二万石を献上するので旗本衆へ御加増くださるようお願いいたす次第である」
そして堀田上野介は、何を血迷ったか幕府には届けも出さず勝手に江戸を離れ、一人の供連れもなく単騎で佐倉へ帰った。佐倉城に仕える老人が話した上野介の佐倉帰還にともなう怪奇談は、その時のことだった。
先の支離滅裂な上奏書といい、無届けで城地に戻る愚行といい、房総を扼す要衝をあずかる身として、あまりに常軌を逸した沙汰であるとして上野介は改易に処された。
名跡こそ息子に相続が許されたものの、上野介は「他家預け」の処罰を受け、弟の脇坂安政の信州飯田城に送られた。十二年後、脇坂安政が播州龍野に転封となり、上野介は母方叔父にあたる若狭小浜の酒井忠直に預け替えとなった。ところが、延宝五年(一六七七)六月、上野介は勝手に京都へ出て、清水寺と石清水八幡宮に参拝した。将軍家綱に世継ぎが生まれることを祈願したというが、他家預けの罪人でありながら勝手に上京したのはもってのほかとして、上野介はまたも阿波徳島の蜂須賀綱通へ預け替えとなった。
蜂須賀家では、老中の指示に従い、上野介に監視の番人を昼夜配し、刃物の類は剃刀も持たせないようにしていた。ところが、延宝八年五月、将軍家綱の薨御を知った上野介は、その月三十日に鋏で自害し、無惨な死にざまをさらした。
平賀源内は、「義民の伝承なら讃岐にもある」と話し出した。
享保十七年(一七三二)、四国の伊予(愛媛)と讃岐(香川)では、春からの雨天続きで麦や米をはじめ穀類の育ち悪く、五月の末からは連続して豪雨に見舞われた。翌閏五月に入ると、増水していた諸河川が氾濫し、田畑に甚大な被害をおよぼした。やっと雨が上がった閏五月の末には、ウンカが大発生し、稲や麦どころか雑草までも立ち枯れ、夏にもかかわらず一面緑の消えた冬景色となった。いわゆる享保の大飢饉の時で、南海道(紀伊・淡路・伊予・讃岐・阿波・土佐)全域における餓死病死者は五千八百十八人、死んだ牛馬は二千三百五十三頭を数える大惨事となった。ことに四国の被害が甚大だった。
享保十八年九月、讃岐の高松藩領、大内郡の落合と松崎の両村民が困窮し、庄屋の池田彦七が、高松藩庁に年貢減免を願い出た。源内が仕えた松平頼恭の二代前、三代目藩主の松平頼豊の時代だった。庄屋もいろいろいるが、池田彦七は、暮らし向きもとりわけ質素で、村内に年貢を納められない百姓衆があれば自らが代わりに穴埋めする善行庄屋で知られていた。ところが、前年春からの悪天と虫害があまりにひどく、きたる十月の年貢納めにおいて年貢高を半減してもらわなければ、餓死者も出しかねない苦境にいたっていた。彦七は、手順どおり郡奉行に年貢半減を訴願したが、まったく聞き入れられなかった。高松藩松平家の財政も以前からきびしく、八年前の享保十年(一七二五)と翌十一年にわたって一部藩士の禄を打ち切らざるをえないありさまだった。享保十一年には、百二十人の藩士が禄を打ち切られて浪々の身となり、「享保の大浪人」と語られる事態を招いていた。
高松に出て直訴するしかないと彦七は意を固め、妻を縁切りして子とともに阿波(徳島)の鳴門村に送り出し、単身高松に出向いた。藩庁で彦七は、年貢半減を訴えたものの、受け入れられることなく、なおも執拗に訴え続けたため強訴不敬の罪で入牢させられた。享保十八年九月二十六日、池田彦七は牢死し、高松藩は彦七の訴えどおり落合と松崎両村の年貢を半減したという。
「……享保の大飢饉で一番ひどかったのは伊予の松山、一年間に三千五百人におよぶ餓死病死を出した。南海道全域の六割近い死人だ。同じく(瀬戸)内海に面した伊予の西条や今治、わしがいた讃岐の高松と、さほど異なる土地柄ではない。その地が何ゆえそれほど甚大な厄災に見舞われたのか、そこが問題だ」源内がそうきいた。
「ただでさえ苛酷な年貢を課され、ろくに食べていないところに、大飢饉ともなれば、近隣の他家も津留め、穀留めで、救い米が届かなかったからでしょう?」林助が答えた。林助は懐之と同じ内藤新宿の生まれで、家もそこにあるのだが、しじゅう旅に出ては諸国を巡り歩き、四国の地もよく知っていた。
「そういうことだ。近隣諸家が自領を護るため穀留めするような天災に見舞われたら、公儀(幕府)が動くしかない。大坂の米蔵や各地の天領(幕府領)の蔵に米はあるのだからその蓄え米を出し、船で送れば伊予松山で五千八百余人もの餓死病死を招くことはなかったはずだ。天変地異はまぬがれないが、人がそれに輪をかけ、甚大な災厄をつくる。何のための公儀なんだ。救うべき力を持った者が何もせず、おのれの暮らしの安泰ばかりを図って民の困窮をただ眺めてる。いつだってそうだ」源内はそう吐きすてた。
源内が仕えていた讃岐高松の松平家は、藩祖が水戸の徳川頼房の息子頼重。表高十二万石の大藩だった。多少の天変地異があろうと屋台骨がぐらつくような所帯とは思われなかったが、実情は享保の飢饉以前でさえかなりの家臣を召し放たなくてはならない財政難におちいっていた。伊予松山藩ほどではなかったにせよ、庄屋の池田彦七が強訴憤論したあげく牢死しなくてはならなかったほど、高松藩の村々も飢餓に瀕していたことはたしかだと思われた。
第二章 二節
源内は、高松城下から東へ二里半(約十キロ)ほど離れた志度浦で生まれた。志度は、北に瀬戸内海をいだく志度湾にあり、背後の東西南三方を丘陵に囲まれた地だった。
父の代まで白石の姓を名乗り、父茂左衛門は高松藩が志度に置いた年貢米を保管する蔵の番人で、藩からの取高は一人扶持に切り米三石だった。一年に得られる給米が四石八斗、金になおせば五両に満たない。それだけではとても暮らしてはいけない。両親と子ども二人の家族による最低の暮らしでもその三倍の収益は必要となる。田畑を作り、ほとんど百姓衆と変わらぬ日々を送らなくては成り立たない。蔵番は、足軽や代官所の門番なみの軽卒でしかなく、とても士と呼べるようなものではなかった。
高松藩の米蔵は、高松城下から遠い六か所の地に年貢米収納のため設けられていた。志度の米蔵は、周囲を竹藪に囲まれた広大な敷地に横五間(約九メートル)、縦十五間(約二十七メートル)の大きな蔵が三棟、瓦葺きの屋根が空を圧して並び建っていた。そこには、近隣十七か村の約六千石分、千五百俵の米が毎年十月から十二月まで各村の庄屋によって運びこまれた。年貢米搬入の十月から年末までは、年貢米検査のため高松から蔵係役人が到来し、いかなる不作の年でも蔵には変わりなく千五百俵もの米が積み上げられた。凶作の年に、身なりのよい庄屋とともに米俵を積み上げた荷車を引いてくる百姓衆の疲れ切った顔が忘れられないと源内は語った。
源内には兄と弟がいたが、兄の喜太郎と弟小次郎の二人は早世していた。七人いた妹のうち、キヨら二人も幼くして世を去っていた。可愛がってくれた兄ばかりか、自分を慕った弟、そのうえ妹二人までが幼いまま世を去り、再び目の前に現れることはなかった。親をはじめ周囲の人々は、そういう命運だったと言ったけれども、なぜ救えなかったのか。若き日の源内がまず医者を志した動機は、そこにあった。
源内は子どものころ「天狗小僧」と呼ばれていた。人に倍して自惚れが強く、周囲の子どもらとは馴染むことがなかったせいだろう。蔵番の貧しい家ながら、奥の間には場違いな『太平記』の書籍櫃が置かれていた。源内がそれまでの白石の名字から平賀に変えて自称するようになった由来は、その『巻第五』に書かれていた。
元弘元年(一三三一)八月、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、鎌倉幕府の差し向けた大軍に笠置を急襲されて天皇は囚われの身となり、大塔宮すなわち護良親王が熊野へ落ちのびる緊迫したくだりで、鎌倉幕府方の追手から親王を守るため付き従う三傑の一人として、智略をめぐらす平賀三郎という武士が出てくる。信濃出身で清和源氏の流れをくむというこの武士が祖先だと源内は語った。
源内は下戸で、酒は唇をうるおす程度だったが、巻第五の『大塔宮熊野落ちの事』は諳んじており、星見酒の折に求めればいつでも披露した。十二を数えるころには『太平記』の全巻を読破していたという。源内の戯作には、講談なみに言葉が次々とくり出される語調の快さがあるが、おそらくは年少の時に繰り返し読んだ『太平記』の名残だろうと思われた。
『太平記』には記されていないが、平賀三郎の諱は「国綱」だったとかで、源内が「平賀国倫」と自称したのもそれに由来した。源内はおおよそ四百以上も大昔の祖先に強いこだわりを持っていた。そんな調子では一人扶持三石の米蔵番に生涯をとどめていられるはずがなかった。
兄と弟が長ずることなく世を去って、家の跡取りは幼名伝次郎、すなわち源内一人となった。十二歳で『太平記』を読みこなす伝次郎の才智に、父茂左衛門は謝礼を工面して高松藩の儒学者菊池黄山のもとに通わせ、漢書を学ばせた。菊池黄山は、蔵番の子ながら天与の才に恵まれた伝次郎に目をかけてくれたらしく、源内は後年になっても親しみをこめて「黄山先生」と呼んだ。
運の良し悪しとは、人生においていかなる人と巡り逢えるかということだろう。菊池黄山の家は志度から西に一里半(約六キロ)離れた古高松にあり、そこにはオランダ医学を志向する久保桑閑という医者が住んでいた。源内より十八歳年上の久保桑閑こそ、源内の目を本草学に向けさせ、その後も援助を惜しまなかった人物にほかならない。
久保桑閑の家には『本草綱目』の和刻本があった。慶長九年(一六〇四)シナからジャンク船によってもたらされていたこの書籍は、明朝の時代に李時珍によって著された。李時珍は、祖父の代からの町医者で、時珍も父とともに貧しき一般庶民の治療に従事した人物だった。この大著は、千八百八十八種類の品目を記載し、十六部の項目に分け、それをまた六十二に細かく分類したものだった。時珍が三十五歳の時(一五五二年)に着手され、完成した時には七十三歳を迎えていたという生涯をかけた大仕事だった。
李時珍は、その序文で本書を著した目的は、あくまでも庶民のためであり、病で苦しむ力なき人々の幸福のためだと述べていた。
「倉廩(米蔵)が充れば、人民が飢饉で命を落とすことを免れ、医薬が完備すれば、人民が不治の病で死没する不幸からのがれることができる。それによって人民の一生を幸福にすることができるのである」
また時珍はみずからの来歴を、田舎の生まれで、幼時より病弱なうえに資質も魯鈍な少年だったと記していた。そして長ずるにつれて次第に典籍をむさぼり読むようになり、「なかでも昔から伝わる本草書を手にして、その注解するところを検討するようになり、誤りや欠落を見つけ、それらを整理編集しようという野心を持つようになった」と述懐した。
『本草綱目』の序文に記された李時珍の肉声は、本草学という大海へ漕ぎだす意志を固めさせた。源内にとって百年以上も昔の人物ながら身近に友をえたような思いがした。
源内に新井白石の『本朝宝貨通用事略』と出会わせたのも、久保桑閑だったにちがいない。新井白石のこの書籍との出会いは、藩を超えた「国家」や「国益」という視点を源内に与えた。
「……新井白石先生によれば、慶長六年(一六〇一)から宝永五年(一七〇八)まで、その百七年間に異国に持って行かれた金は、当時わが日本国にあった金の三分の一に匹敵したという。銀にいたっては、わが国にあった銀の二倍ほどが異国に流れていた。むろん、それは長崎一港の交易だけで流出した数量だ。長崎だけでも、それだけ莫大な金銀が異国に持って行かれた。ほかには朝鮮と交易していた対馬、琉球を通じてシナと交易していた薩摩、どれだけの金銀が異国に流れ出ていたか。表には出されないだけで、相当な金銀が異国に運ばれていたはずだ。島津領の薩摩をはじめ九州には『唐人町』と呼ぶ町がいたるところにある。シナ人が、船で渡って来て町を造り、その唐人町でじかに交易していたはずだ。また、いたるところからシナや朝鮮へ商売に出かけていた。天草あたりの漁民は八丁櫓ばかりの小舟で毎年青島に渡ると耳にした。目の前に海は広がっとる。出て行かないほうがどうかしてる。
シナでは、『天地によって生じる金銀は、人でいえば骨であり、それ以外の宝貨(米、穀物、絹、綿布、器物)は血肉皮毛のようなもの』と言っている。血肉皮毛は破れ傷ついてもまた生ずるが、骨は一度折れて抜け出てしまえば二度と生ずることはない、との意味だ……」源内はそう話した。
新井白石は、六代将軍徳川家宣が甲府城主の時代からいわゆる帝王学を教授した。家宣が将軍職に就いた宝永六年(一七〇九)以後も側近として列し、庶民から怨嗟のタネにされていた「生類憐れみの令」をはじめ綱吉時代の悪政を廃止させた。家宣歿後も幼い七代将軍家継を擁し、都合七年間にわたって幕政を推進した。
宝永七年(一七一〇)四月、財政支出が膨張して経常費が不足しているなかで、前将軍綱吉の葬儀と御霊屋の建築、新将軍宣下の費用等を捻出するため、将軍綱吉時代から幕府財政を担当してきた勘定奉行の荻原重秀は、これまでどおり金銀貨幣を改鋳することで対応しようとした。新井白石の反対によって廃案とされたが、荻原重秀は独断で改鋳を強行した。将軍が代替わりしても、荻原重秀の権勢は絶大で老中さえ口を挟めないままだった。改鋳といっても、実際は金銀の純分含有量を下げ、悪貨を量産することで赤字を埋めようとする愚策で、その時に鋳造された「四ツ宝銀」のごときは、銀二割、銅八割の劣悪な貨幣だった。悪貨が大量に出まわれば、当然のことながら物価は高騰する。新井白石は、悪貨鋳造による物価の高騰は、一般庶民の政事不信にかかわる重大事ととらえ、それまで誰も触れようとしなかった荻原重秀の悪貨政策をきびしく指弾して失脚に追い込んだ。
悪貨鋳造策の廃止と並んで新井白石が建議したのは、長崎での貿易を制限し、おびただしい金銀銅の海外流出を防ごうとした策だった。中国のたとえ話における再生できない「骨」の流出である。
正徳五年(一七一五)のいわゆる「正徳の新令」では、一年間に長崎に来航できるオランダ船を二隻、唐船は三十隻までとした。取引額も、オランダ船は銀高にして三千四百貫目、その内の銅は百五十万斤までとし、唐船は銀高六千貫目、その内の銅は三百万斤に制限した。
だが、思うように運ばないのが現の世である。正徳二年十月十四日、将軍家宣がわずか三年半の治世で病歿すると、新井白石は五歳の家継を擁し、家宣の遺志を継いで側用人の間部詮房と幕政を進めた。しかしながら、後ろ楯を失った新井白石に譜代大名や林大学頭ら旧勢力の反感が強まり、次第に孤立を強いられるようになった。
享保元年(一七一六)四月三十日、病弱だった七代将軍家継が八歳で歿すると、紀州藩主の吉宗が将軍職に就き、志なかばにして新井白石は幕政の中枢から退かざるをえなかった。
久保桑閑は、宝暦二年(一七五二)の夏、源内がいだいていた医学と本草学への志をくみとり、二十五歳の蔵番を長崎に伴った。桑閑は、源内を医学の門人として藩庁に届けを出し、知り合いの藩士らにも手を回して高松藩からの許可を得た。蔵番の軽卒の身では、一年におよぶ長崎遊学ができるはずがなく、旅費や宿泊代まで久保桑閑が面倒をみてくれたものだろう。桑閑はまた、宝暦十二年(一七六二)閏四月の源内主催による江戸湯島の物産会において讃岐での物産を取りまとめ江戸へ送る取次所を担ってくれた。
湯島物産会で讃岐での物産取次所を務めてくれた人物がもう一人いた。源内より四歳年長の三好喜右衛門である。
喜右衛門は、阿野郡陶村の豪農の息子で、陶村は高松城下から西南に琴平へ向かう途上にあり、古高松からは三里半(約十四キロ)ほど離れていた。源内は久保桑閑のもとで喜右衛門と出会った。陶村は名のとおり良質の陶土を産する地で、喜右衛門もみずから轆轤を回し、焼き窯を築いて陶磁器を製作した。源内がとりわけ陶土や焼き物に通じていたのは、若き日に喜右衛門と親しく行き来していたせいだった。喜右衛門の書物蔵には『和漢三才図会』が秘蔵されていた。大坂の医者、寺島良安が三十余年の歳月をかけて正徳二年(一七一二)ごろに完成させた図入りの博物事典で、百五巻八十一冊からなる大著だった。喜右衛門は、ほかの者には開けることのない蔵書蔵の扉を開き源内だけはともなった。そればかりか、源内の読みたいところはずらりと並んだ書籍櫃のなかで探し出し気軽に手渡してくれた。喜右衛門は、薬となる物類の探究を超えた博物学としての本草学へ源内の目を向けさせた。博物学は、まだ学問と呼べるほど体系立てられたものではなかったが、動物、植物、鉱物、魚貝、昆虫の果てまでを研究の対象とした。それらの薬効がたしかな物類ばかりでなく、魔除けや呪術で御祓いによる人への効能があるとされる物品までを対象とした。
李時珍といい、寺島良安といい、世の東西を問わずとんでもない人物が存在していた。彼らは、富貴な人物や高奇な薬ではなく、あくまでも多数の庶民を救済する医師、本草学者として使命を果たそうとし、生涯を費やしてやりとげた。『本草綱目』と『和漢三才図会』は、「天狗小僧」の鼻をへし折り、本草学という大海に漕ぎだす意志を固めさせた。
金銀銅の海外流出を防ぐためには、輸入に頼ってきた生糸、絹織物、薬種などを日本国内で生産できるようにする必要がある。新井白石が幕政を推進した時代(一七〇九~一七一六)、そして八代将軍吉宗の時代(一七一六~一七四五)、輸入産物の国産化という幕府の方針ともあいまって、各藩での産物を調査し産業の振興に役立てようという気運が高まり、博物学への関心が寄せられる時代が訪れていた。
三好喜右衛門は、宝暦十二年閏四月の江戸湯島の物産会のために、讃岐から「地脂」という乳液を送ってきた。源内の博物学における主著となった『物類品隲』に載せられたそれは、阿野郡川東村にある岩壁の間からわき出すもので、火傷に塗布すればきわめて効能があると記されていた。喜右衛門は、物心ともに源内を長く支え続けた郷里の盟友だった。
第二章 三節
二十五歳の源内は、宝暦二年(一七五二)の夏からほぼ一年を長崎で送った。
長崎は、深い入り江を挟んで西北と南北に風除けとなる山地が続き、懐の深い大港だった。湾に突き出していた長崎の岬は南側が埋めたてられ、かつての面影は失われていた。だが、その先端に扇型をした築島があり、それがオランダ商館のある出島だった。長さ百十四間(約二百五メートル)、横幅三十八間(約六十八メートル)ばかりの、そのささやかな人造の島がはるかな西洋とつながっていた。
出島の沖には三本帆柱の大型西洋船が二隻投錨し、中央の帆柱には「赤、白、青」のオランダ国旗がはためき、船尾の後檣にはオランダ東インド会社の船を示す「V・O・C」の旗をなびかせていた。出島の南には、やはり埋め立てによって四角に築かれた島があり中国商人の土蔵が建ち並んでいた。その南に土塀に囲まれた十善寺村の唐人町が見え、その沖合には船首に鳥の目を描いた唐船(ジャンク船)が多数繋留されていた。
新井白石は「正徳の新令」で、オランダ船と唐船の交易をきびしく制限した。最大の輸出品だった棹銅の輸出を抑えられれば、当然のことながら交易商売はふるわず長崎もすたれるはずだった。ところが、古くから岬にあった町家に加え、矢上・茂木・時津・戸町の四道に沿って町家が並び立ち、山手に向かって新しい家が次々と建てられていた。七十四町、人口約三万五千人と聞いていたが、とてもそんな数とは思われない大勢の人であふれていた。通りに面して店が軒を並べ市日のように活気づき、老若男女を問わず生気に満ちた人々が行き交っていた。海外交易は、たんに財貨だけではなく、庶民の人生そのものに大いなる活気をもたらすものだった。世間や人心のあり方を決めるのは、政事の方策や法の制度ばかりではなく、物品の流れも大きな影響を与えるものだった。
長崎で出会った人物で源内がもっとも大きな影響を受けたのは、吉雄幸左衛門だったにちがいない。
源内が長崎で出会った時、四歳年上の吉雄幸左衛門は、二十九歳の若さながらすでに大通詞となっていた。だが、幸左衛門は、たんなる通訳業務にとどまらず出島のオランダ人医師たちから西洋医学を学んでいた。西洋医学を志向する久保桑閑は、長崎に着くとまもなく出島にほど近い平戸町の幸左衛門宅へ源内を伴った。
吉雄幸左衛門の号は耕牛、『解体新書』の序文を書いた吉雄永章というのも同一人である。前野良沢は長崎で吉雄耕牛からじかにオランダ語を学び、杉田玄白も耕牛がオランダ商館長に同行して江戸に上府するたび、本石町の長崎屋へ通って耕牛の教えを受けた。耕牛門下を自任する源内も彼の江戸到来を楽しみにしていた。
吉雄耕牛は、小柄で穏やかな目をし、深い知性を秘めた人間特有の、人に威圧感を与えない人物だった。偏狭なところがなく、何かを学ぼうと訪れる者には快く受け入れる寛大さを備えていた。
平戸町の耕牛宅には、オランダ渡来の書架が壁の一面をおおい、西洋の書籍が金文字の背表紙を並べていた。西洋書籍は、子牛のなめし革で包まれ金文字で刻印された体裁からはじまって、書かれている南蛮文字の整列といい、挿絵のくっきりとした造形や色彩といい、日本や中国の書籍とはまるで別物で、書籍そのものが高価な美術品のようだった。ところが耕牛によれば、革で装された西洋書籍は「並」のもので、別珍に家紋を箔押ししたような特別注文の豪華版があるのだという。
ドドネウス『紅毛本草』、スウェールト『紅毛花譜』、ルンフィウス『紅毛介譜』、スワンメルダム『紅毛虫譜』、ウィラビー『紅毛魚譜』、ヨンストン『紅毛禽獣魚介虫譜』、のちに源内が手に入れた博物学のオランダ書籍は、吉雄耕牛の家や長崎の好事家のもとで見ていたものだった。
耕牛は西洋書籍のほかに世界図を見せてくれた。百年ほど前にオランダの都アムステルダムで製作されたものをフランスで作り直したという代物で、左右に二つの大円が描かれ、その中に赤、青、黄、緑の四色で彩られた世界の陸地と国々が収められていた。日本は右側の円の右斜め隅へ押し込まれたように「JAPON」と表記され、本州は赤、青で九州、黄で四国が彩色されていた。広大な世界のなかで日本はあまりに小さく、四国は紀伊半島と九州に挟まれた小島のようなものだった。
オランダをはじめヨーロッパの人々はこれらの大海を船で巡り、大陸を「発見」してこんな絵地図を百年も昔に作り上げていた。源内がオランダの位置を尋ねたら、耕牛は右円の左隅、イギリスと海を隔て右下に小さく区切られた部分を指さした。源内が長崎からの距離を尋ねると、耕牛は「約一万三千二百里といわれていますが、正しいかどうかはわかりません」と笑った。世界図は、銅版画で印刷され、手で彩色された大きな美術品にほかならなかった。世界は球体をなしており、世界図の所々に描き込まれた南蛮船で「どこにでも行ける」のだという。そして、「オランダのアムステルダムという都は、ヨーロッパの文物や文化が集まる巨大な市場のようなものだ」と耕牛は語った。耕牛が見せてくれたオランダ書籍も、ほとんどがアムステルダムで作製されたものだった。
オランダ本国から長崎へ来航するには一年を要し、長崎に来ているオランダ船は、オランダ本国からはるばる渡来するのではなく、「東インド会社が拠点を築いたジャワ島のバタビア(ジャカルタ)から渡来し、バタビアまでは海上約三千里と言われています」と言い、バタビアのあるジャワ島の西端を指して、「このバタビアのあたりは季節風が交差する場所で、オランダ船は夏の南風を受け二か月ほどで長崎へ来航し、秋からの北風で戻る。オランダ人は、日本やシナ、香料諸島(モルッカ諸島)と本国との交易のため、とても都合のよいこの地を選んだわけです」と言った。ジャワ島の東海に位置する香料諸島の胡椒や丁字(クローブ)などの香辛料はオランダ本国に運ばれ、ヨーロッパ各地に売りさばかれ、オランダ東インド会社に大層な利益をもたらしていた。
一口に交易商売というが、オランダ本国で産する品物を運んでのものではなく、オランダ人は日本を含めた東インド各地の名産品をオランダ本国をはじめヨーロッパや東インド各地に船で運び、その仕入れ値と売値との差益、そして運賃を加算して莫大な利益を上げていた。
源内はよくこう語った。「オランダ人を見てみろ。はるか東方の日本に来て交易商売をしている。オランダの東インド会社は、もともとはオランダの豪商たちがシナや日本と交易して稼ごうと金銀を出して企てたものだが、オランダの公儀も元手の金銀を出しとる。当然その元手分の儲けを公儀へ分配し、大いに『国益』にも役立っとる。国が富めば、その民も豊かな暮らしを送れる。滋養のあるものを食し、冬も暖かに過ごせれば、病をわずらうことも少ない。庶生の民も、夭折を強いられることなく天寿をまっとうできる。
オランダの東インド会社は、ボルネオ島の南、ジャワ島の西側、バタビアを占領して本拠を築いた。オランダの公儀からは、他の「国家」と条約を結び、城を築き軍兵を抱え、貨幣を鋳造し、代官を任命することまで許されとる。
それに比べてわが日本は、海外に船を送って商売をやれば死罪だ。それを逆手にとって、蝦夷が島(北海道)の松前、薩摩の島津、対馬の宗、異国交易を許されている諸大名が自家の繁盛のためだけにみみっちい異国交易をやっているだけだ。長崎も、オランダ船と唐船以外は締め出し、将軍家と幕臣のためだけの交易を許してる。そんなことだから一度天変地異が起これば、餓死人が山をなすことになる。庶民は皆困窮して身の置き場もない。
オランダ人というのは、恐ろしい連中だ。あいつらは金銭がすべてだ。それ以外はどうでもいい。金儲けのためならば、宗門も棄てる。以前日本に来たポルトガル人は、豊後でも有馬でもまず最初に教会堂を建てた。長崎でも岬の先端に教会堂を造った。今、そこは長崎奉行の西役所となって教会堂なんかどこにもない。出島にもない。金儲けのためには出島なんて箱庭みたいな所に押し込められても連中は我慢しとる。将軍はもとより長崎奉行に土下座も辞さない。オランダの踊りを見せろと言われればそれも披露する。恥とも何とも思っていない。
新井白石先生が長崎から持ち出す銅を制限した時も、口では、ハイ、ハイ、言いながら、出島の商館員と船長が結託して船を安定させる積み石代わりに銅を船底に隠し入れ、バタビアに持ち出していたはずだ。それぐらいのことは平気でやる」
オランダ人と中国人との交易を縮小されれば、長崎はすたれる。新井白石は、長崎の町衆に七万両を給付し、長崎の交易商人には輸出品を買い入れる金銭を貸し出す仕組みを作った。それでも、交易が制限されればオランダ船や唐船は寄りつかなくなり、長崎の人々もやがて困窮に追いやられる。オランダ船による秘密裏の銅持ち出しは、オランダ人たちだけでなく、長崎の人々も加担していたにちがいないと源内は語った。
「国家」、「国益」という耳慣れない言葉を源内はよく口にした。国といっても、いわゆる諸藩諸国のそれではなく、日本国全体、そして国益とは天下の利益を意味するらしかった。源内のような一介の素浪人が、天下を云々したところで所詮は酒のうえでの戯れ事に過ぎず、何かを変えられるはずがなかった。ところが、源内に死なれてみると、あの男は「国益」を向上させて世の中の景気を盛んにし、全国津々浦々から困窮を無くそうと、本当に考えていたように思われてきた。そして、源内の妄想を実現する手本は、オランダの東インド会社にあったのではないか。長崎遊学は二十五歳の四国高松の米蔵番に、薬や医術で救える生命はごく限られた数であり、世間の景気を向上させなくては大多数の庶民が天寿を全うできずに生涯を終えるしかないのだと、その考えを刷新させたのではなかったか。
源内が、鉱山開発を目指し、薬種などの国内発見と生産に向けて物産会を開いたのも、新井白石以来の幕府方針にただ歩調を合わせ、「山師」としておのれの利欲のために一儲けを企んでいたかのように語られた。だが、源内の真意は、困窮する民を一掃するためには「国家」を富ませなくてはならない。そして、「国家」を富ませるには、オランダの東インド会社のように、江戸城の金蔵からも金銭を出させ、異国交易によって莫大な利益をあげるしかないとそう考えていたのではないか。
むろんその着想が若い蔵番自身を滅ぼしかねない危うさをはらむことに気づき、吉雄耕牛はそれとなく警告を発した。源内が世界図で新スペイン(メキシコ)の場所を尋ねた時、耕牛は北アメリカ大陸の南西部を指した。海を渡って北アメリカに自国の領土を築いたスペイン人が銀鉱を開発し、新スペインからの大量の銀によって日本の銀は暴落した。
耕牛は、二百五十年昔にトラスカラ(先住民の都市国家)の画家に描かれた絵を源内に見せた。甲冑で身を固めたスペイン人が馬に乗って槍を構え、褌一つで投石と弓で応戦する先住民が殺戮される絵だった。
「病を克服し、貧困をなくす、そして皆が慈愛に満ちた世の中を造る。だれもがそんな世を夢見る。そのために未知の土地を発見し、開発し、新たな産物を得て国家を富ませる。その想いは、あくまでもおのれとおのれの属する会社や国家にとって益となるだけで、ノビスパニア(新スペイン)に元から住み暮らしていた先住の民にとっては大厄災でしかなかった」耕牛はそう話し、「世界地図というのは、人という生き物の飽くことのない欲望を絵図にしたようなものです」と言い、「三大悪といえば、昔から地獄、餓鬼、畜生といわれる。地獄は死後の話ではなく戦乱の世のこと、餓鬼は飢餓、すなわち富める者と困窮する者とが生み出され、富める者は飽食し、困窮する者が餓死に瀕する世の中です。畜生とは、人々が好き勝手にものを考えたり、口にしたり、書き著したりすることが許されない世の中のことです。……今のところ幸いにも地獄は訪れていない。しかしながら、金銭使いに頼る世の中となって、人々の欲望は際限なく肥大し、餓鬼の世を招く、大多数の力なき人々に不満や憤りを生み、オカミはそれを力で抑えようとするため畜生の世となる。そして、ついには地獄を招きかねないことになります」
久保桑閑の門人として長崎を訪れた蔵番の若者が、当初の目的とした医学や本草学を超え、異国交易に強い関心を寄せていることに気づいた耕牛はそう警告した。
(続く)
プロフィール
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飯嶋 和一 (いいじま・かずいち)
1952年山形県生まれ。83年、「プロミスト・ランド」で第40回小説現代新人賞、88年、『汝ふたたび故郷へ帰れず』で第25回文藝賞を受賞する。2000年、『始祖鳥記』で第6回中山義秀文学賞、08年、『出星前夜』で第35回大佛次郎賞、15年、『狗賓童子の島』で第19回司馬遼太郎賞、18年、『星夜航行』で第12回舟橋聖一文学賞を受賞。他の著書に、『神無き月十番目の夜』『黄金旅風』『南海王国記』など。
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