平賀源内の生涯を描く歴史大長篇。
夢幻の旅人 五
飯嶋和一
2026年09月25日
第五章 一節
宝暦九年(一七五九)八月、数えて三回目となる薬品会が江戸湯島にて開催された。会主すなわち主催者は、この年三十二歳の「鳩渓平賀国倫」である。出品された物産は二百十三品種だった。
一昨年本邦初の湯島薬品会では百八十品種、前年四月の神田における会には二百三十一品種が出展された。この源内みずからが主催した第三回薬品会では、師田村藍水主催での出品数を超えるはずが逆に減少を見た。わずかに十八品種減っただけのことだったが、回を重ねるごとに発展していくはずの薬品会で出品数が減る事態は、源内に想外の衝撃をもたらしたにちがいなかった。
源内の狙いは、単に薬品類の品定めにとどまらず、国内で産出される物産をまず明らかにし、産業として発展させ、「国益」に寄与することだった。江戸を中心とした関東周辺ばかりでは出品者も物産も限られる。本草家による趣味の例会のごとく毎年薬物会をただ繰り返していても意義が薄れていくのは明らかだった。
郷里の讃岐高松ですら、恩人の久保桑閑や旧友三好喜右衛門ら源内の志に賛同してくれる本草愛好家がいた。諸国諸藩の枠組みを超えて全国の物産を一堂に集めるにはどうすればよいか。
源内の奇才は、全国におよぶ俳諧の組連と取次所、そして興行元の仕組みに思いついた。各地に取次所を設け、それぞれの本草家から物産品を地域の取次所へ集める。そして各取次所の産物は飛脚便を使えば、膨大な数を集めることが可能となる。諸国の取次所は、これまで三回の薬品会に足を運んでくれともに語り合った各地の本草家に担ってもらえばよい。俳諧の懸賞金ごときものは要しない。本草の趣味は、言ってみれば金持ちの道楽である。本草家たちは金銭に困っていない。珍しい産物を所持していることを世に示したという名誉だけで充分なはずである。そして中川淳庵をはじめ源内の構想に賛同し協力してくれる若き知友がいた。源内の構想は、実現可能な全国規模の物産展となり、その翼を広げるばかりだった。
飛脚便をはじめ会場設営、運営にたずさわる人手もふくめ莫大な資金を要する。だが、「やってみれば何とかなる」というのが源内の信念であり、困難に怖じけづいて踏み出さないことはおのれにも他人にも許されざることだった。
今にして立松懐之が思うに、源内の生涯のうちでもっとも輝いていた日々は案外そのころだったのではなかったか。
同年九月三日、小石川の高松藩中屋敷に呼び出された源内は、思いがけず「医術修業いたし候につき」、藩から「学文料」として年に三人扶持を給与するとの発令を受けた。三人扶持は米にして五石四斗、以前志度の蔵番として受けていた四石八斗の給米より少しましなだけの話だったが、暮らしの基盤となる収入を確実に得られるという朗報は、いまだ暮らしのたずきを持たない源内にとって何より有り難いことだった。
ところが、高松藩からの三人扶持は、源内の受け取ったように奨学のための単なる支援にとどまるものではなかった。高松藩下屋敷の薬園では、朝鮮人参の栽培はもとより、ケルフルというオランダ産のパセリ類など目新しい植物の種子を手に入れては育てさせ、殿様がひとり悦に入っていた。
藩主松平頼恭は、目黒白金台の下屋敷に設けた薬園へ足を運ぶ機会ごと、きまって源内を呼び寄せるようになった。本郷湯島にある昌平黌の寄宿舎から目黒白金台まで足を運び、下屋敷に着けば殿様の相手と薬園の整備に一日を費やすことになった。源内としては、五年前に蔵番の退役願いを高松藩に認められ、その時も変わることなく素浪人のはずだった。だが、殿様のほうでは田村藍水の高弟として売れ出した源内をどうやら家臣として再びかかえ直したつもりのようだった。幕府と私藩の利害や立場を超えた「国家」「国益」を時代に先んじて意識した源内にとって、高松藩主の家畜に戻ることは耐えがたかったはずだ。しかし、志度には老母と家を継いだ妹夫婦が暮らしていた。故里に残してきた家族の身上を考えれば、殿様の意向を足蹴にするわけにもいかなかった。
李時珍の『本草綱目』をはじめ過去に上梓され権威とされた主要な本草書を精査し、その誤りを正すため深く読み込む時間が必要だった。いずれ開催することになる全国規模の物産会、そして会を重ねて収集した物類をまとめ、李時珍『本草綱目』や貝原益軒『大和本草』を超える本草書を上梓する。結果として、本草学を超え物産開発による国益に寄与し、困窮する庶民を救済するという源内の大志の前に、思いもよらぬ障害が立ち現れたことになった。
第五章 二節
人生には何もかも激変する年がある。宝暦九年(一七五九)は、立松懐之において大きな転機となった年だった。
懐之は三十四歳を迎えたこの年、初夏四月に悪寒がして、ただの季節変わりにかかる風邪だと思い、生姜片を煎じて飲んでみたりしたが、一向に寒けが去らないばかりか身体がだるく、横になるしかなくなった。のどが腫れ、水以外には何も受け付けず、医者を呼んで診てもらったが、処方された葛根湯や桂枝湯を服用してみたが効き目がなかった。身の回りの世話は、長年下女に雇っている老婆しかおらず、心細いことおびただしかった。
これまで懐之は病気らしい病気に見舞われたこともなく、たいていは生姜片を煎じて飲めば三日ぐらいで良くなった。ところが、このたびはのどばかりか頬までが太鼓のように腫れ、完治することのない病気にかかったにちがいなく、ひょっとしたらこのまま助からないかもしれないと思いはじめると、つくづく馬鹿げた一生だったと思えてきた。一介の煙草屋では飽き足らず、おのれは何ごとかをなせるはずだと思い込んで生きてきたものの、すべては無駄なあがきに過ぎず、結局はこの程度で終わる運命だったと思うしかなかった。
懐之の父太郎右衛門は尾張の平島に生まれ、十六の年に江戸に出て松平摂津守下屋敷に奉公し、嶺松院という貴女に仕えた。主の松平摂津守義行は尾張徳川家の傍流で、嶺松院はその母だった。懐之の母の名はサンといい、母も嶺松院に腰元として仕えていた。父は摂津守の下屋敷に二十数年勤め、内藤新宿で馬宿を営む稲毛屋金右衛門から馬宿の株と名前を買い、馬宿の主人として独立した。享保十一年(一七二六)三月二十八日、その長男として懐之は生まれた。父が四十を迎え、母は二十六歳の時だった。
父は、懐之が七歳を迎えた年から州範という僧侶に漢書の初読を学ばせた。その父が四十九歳で死去した。臨終の床で父は懐之の手を握り、「お前は大勢の者に抜きん出た異相を持っている。努めて書物を読むべし。わしは書を読む暇がなく、初志を遂げることができなかった」と告げた。
父の死後、母は後家の頑張りで馬宿を切り盛りし、懐之と妹三人を育てた。懐之には父の遺言どおり学業を奨めた。懐之は、歌人としても知られた坂静山を師として漢書を学ぶ機会を得た。母は伊勢の商人と再婚したものの、金銭勘定しか頭にない者とはうまくゆくはずもなく離縁し、十四歳になった懐之は日々の暮らしを立てなくてはならなくなった。
懐之が煙草商いに注目したのは、馬宿に泊まる荷駄引きの馬子たちがたとえ飯を抜くことがあっても煙草だけは切らすことがないのを知っていたせいだった。かつて富貴な家では葉煙草を取り寄せ自家で刻んで喫していたが、どうしても湿気を帯びてしまうため、小分けにして蝋引きの布袋に入れた刻み煙草を店で買い求める時代になっていた。近所に煙草屋も少なく懐之の予想どおりよく売れた。
父亡き後に懐之を援助してくれたのは、一族の山田儀兵衛だった。懐之が煙草商いを始めるにあたって儀兵衛が元手を出してくれ、煙草屋の株を買う際にも援助を惜しまなかった。懐之が暮らしに窮せず、漢学まで身につけ生きてこられたのは儀兵衛のおかげといってよかった。懐之の一族は皆小柄な家系で、儀兵衛も五尺そこそこの痩せた人だった。懐之が物心ついた頃にはすっかり白髪となっていた。口数こそ少ない人だったが、いつも懐之に優しい眼差しを向け、懐之の願いを聞き入れてくれた。
儀兵衛は、旗本の石谷清全に仕え、家老の次位にあたる用人を務めていた。懐之が石谷家に出入りするようになったのも、儀兵衛の縁にほかならなかった。石谷清全は豊前守の受領名を許され江戸城西ノ丸の留守居役を務めていた。後を継いだ息子の石谷清昌も早きより俊才で聞こえ、二十六歳の元文五年(一七四〇)八月に吉宗の小姓となり西ノ丸に勤仕し、同年十二月には備後守に叙任された。
宝暦元年(一七五一)六月二十日、八代将軍吉宗が薨御し、石谷清昌は本丸に引き移り出世街道を歩むはずだったが、意外なことに無役の寄合に退けられることになった。石谷家二代にわたって仕える山田儀兵衛の落胆は大きく、老齢もともなって病床につく身となった。石谷家は、牛込納戸町に屋敷を構え、儀兵衛の住いも屋敷内の長屋にあった。儀兵衛は独り身だったために看病する者がなく、それまで子同然の恩愛を受けてきた懐之が連日通って看病にあたった。石谷清昌は、三十七歳の働き盛りながら無役となり屋敷住いになっていた。内藤新宿から毎日欠かさず儀兵衛の看病に通ってくる懐之の姿に目をとめ、「若いながら奇特なる者よ」と感じ入った。懐之二十六歳の年だった。
懐之の看病にもかかわらず儀兵衛はその冬に没した。だが、石谷清昌は懐之を呼び寄せ、六歳になる嫡男次郎左衛門のお守り役を懐之に託した。以後懐之は、家来も同然のごとく石谷家へ出入りし、次郎左衛門に漢書の初読を講ずることになった。
翌宝暦二年(一七五二)五月、石谷清昌は小十人組の頭となって再び西ノ丸に出仕し、宝暦三年の三月には西ノ丸の目付となった。宝暦六年正月にいたって清昌は、佐渡奉行に抜擢され、この宝暦九年には役高三千石の幕府勘定奉行へと栄進をとげた。その朗報に接した時、懐之は「せめてこの日まで生きておれば……」と儀兵衛の早い死を悔やんだ。
懐之の熱病は、二か月後の六月半ばには熱が下がりのどの腫れも引いた。食も次第に進むようになり粥から飯の膳に箸を付けるようになった。それでも懐之の鬱気は晴れることがなかった。死というものを初めて身に迫って受け取ることになったせいか、何もかもが輝きの失せたものに見えた。亡き父が懐之に何を期待していたのかはわからないが、漢学なんぞ何の助けにもならず、気がつけば三十路も半ばとなり煙草屋の主人におさまっているおのれがいた。
そんな懐之の姿を見て、同じ町内で乾物卸業を営む小西市助が箱根へ湯治に行くようすすめた。市助は町内有数の富商で気位の高い人物だったが、歌人としての菅原道真を崇拝し、みずからも和歌を詠んだりする風雅な顔を持っていた。懐之が歌人としても著名だった坂静山の弟子だったことを知ると、市助はしばしば立ち寄って話していくようになった。
その市助が、「見飽きた界隈からしばし離れ、山の霊気に触れれば、また新たな力も湧いてくるものだ」と言う。それまで湯治など考えたこともなかったが、「山の霊気」という言葉には心ひかれるところがあったので、出かけてみることにした。
箱根には、急坂が続く東海道のほかに湯治場の七湯へ向かう「七湯道」とがあった。七湯道は、三枚橋で東海道と分かれ、湯本、塔之沢、堂ヶ島、宮之下、底倉、木賀、芦之湯と続く、風光明媚でつとに知られた道筋だった。
小西市助の紹介で塔之沢の福住屋に宿をとった。湯本から早川の流れに沿って五丁(約五百五十メートル)ほどたどると渓谷の趣いよいよ深く、宿下を岩走る流れの音が心をなごませた。
人の歩む先は、およそ人知のおよばない不可思議世界だというけれど、人から勧められて出かけた塔之沢の宿でトセと出会うことになった。トセは腰を傷めた母親の湯治の世話に福住屋へ逗留していた。歳の頃二十歳前後に見えたが、独り身らしく眉は落としておらず、おだやかな顔だちをしていた。以前どこかで会ったことがあるような懐かしさをおぼえた。足の運びが不自由な母親をいたわり、かいがいしく世話をしていた。そんな様子を見るにつけ、懐之も母を連れて来ればよかったと思い、トセと母親にその話をしたのが親しむ切っかけになった。懐之の母サンは齢六十を目の前にし寒気が訪れるたびに足の痺れを訴えるようになっていた。
トセが江戸は飯田町中坂の河内屋という商家の娘であることは、トセの母親がみずから語ってくれた。トセの母親は上品な趣を持った人で、懐之には警戒の色を見せず、内藤新宿の煙草屋であると知ると昔から知っているかのように如才なく接してくれた。暑さも残る秋の初めゆえに、まだ湯治客も少なく、同じ湯船に三人並んでつかりながら母親ともどもトセとも言葉を交わすようになった。
箱根塔之沢には十日ばかりいて内藤新宿の家に戻ったものの、トセと母親と過ごした塔之沢での日々が妙に懐かしく思われてならなかった。トセと母親はあと少しの間逗留すると言っていたので、もう一度塔之沢に戻ろうかとさえ思った。川名林助のごとく詩作と旅に生きる孤高の暮らしがおのれに送れるはずもなく、真に願うものは家族と共におだやかな日々を送ることだと懐之はさとった。
お礼かたがた小西市助のところにでかけ、塔之沢の宿でトセと出会ったことを話した。市助は、三十半ばにもなって独り身の懐之を気にかけていたらしく、「塔之沢での湯治をこの内藤新宿で続ければいい」と言い出し、しかるべき人を立てて河内屋を継いでいるトセの長兄に縁談を申し入れ、閏七月を挟んで三か月後の九月にはトセと祝言を挙げる段取りまでつけてくれた。
第五章 三節
宝暦十年(一七六〇)三月、高松藩主松平讃岐守頼恭が幕命を受け、朝廷に参内することになった。京都では公卿間の対立が深まり、何やら騒々しいことになっているらしいという噂は江戸にも流れてきていた。
松平頼恭の上京に際し、源内に随行せよとの達しが藩邸から届いた。高松藩からもたらされた「学文料」の三人扶持は、やはり奨学のための支援などではなかった。松平頼恭に仕え、足軽同然の扶持米で再び家臣とされてしまったことが明らかになった。
だが藩主頼恭から源内に命じられたのは、「鳥獣、草木、石、貝などの何にせよ、珍しきものか、何らかの由緒を有すると思われるものは、道々採り集めて来るように」とのことだった。幕府から特使として朝廷に遣わされるにもかかわらず、殿様には何ら緊張感や畏まったところがなく、たんなる博物漁りの口実にすぎないようだった。
四月十五日、大坂の医者戸田旭山が浄安寺で「薬物会」を開催した。江戸で開始された田村藍水と源内による三度の薬品会に大いに刺激を受けた結果だった。会に参加するよう呼びかけた勧誘状にはこう記されていた。
『宝暦七年、八年、両年にわたって江戸の田村藍水先生が、本草家を集って友好を深める会を開催した。翌九年には、その門人の平賀生がこの会を受け継いで催した。会主が所持し供覧に具したものを主品、それ以外の者が出展した物を客品とし、三度の薬品会で出展された物類は六百余種におよぶと聞いた。なんと盛況な会だったことか。列侯が行き交い、商売が繁盛を極める江戸の地でなくては、これほどの活況がえられるはずがない』
文化の中心は京都、商業は大坂であり、江戸はいずれの点においても後進の地であった。しかし、今やその地位が逆転し、『江戸での顰みに倣い、遅ればせながら大坂で薬物会を開催する』と告知した。
結果、大坂で初の薬物会に出展された品目は二百四十一種におよび、出品者も百人を数える盛況となった。江戸の田村一門からも田村藍水と息子の元長、松田長元、中川淳庵らが出品し、源内も赤石脂など六種を送り出していた。なにも江戸と大坂とで出品数を競うようなものではなく、薬物の真偽を見極めて誤用を防ぎ、品質の上下を見定めて庶姓一般の人々に利するという本分に基づけば、田村一門が賛助協力するのは当然のことだった。大坂の地においても田村藍水の高弟として平賀国倫の名は知られていた。
京都での役目を終えて江戸に戻る際、殿様は東海道の戸塚の宿で源内を呼び寄せ、相模の三浦岬周辺で貝を可能な限り集めて来るよう命じた。博物趣味は珍しい物を多く集める道楽である。江戸から京都にいたる往路で、源内は殿様が特に興味を示す貝殻や奇石の類を集め献上していた。命を受けた源内は、江ノ島、鎌倉をはじめ浦賀や金沢を巡り、貝殻を拾い、あるいは買い求めて歩いた。源内はことに金沢海岸の風景に魅せられた。
その海岸巡りの折、鎌倉鶴ヶ岡の高僧尊照法印が貝の名前をよく知っていると耳にし、源内は採集した貝の名を少しでも明らかにすべく訪ねてみた。尊照法印は噂どおり貝の名をよく知っており、元禄のころに浄貞という人物が霊元上皇に所望され、多くの貝を集めて献上し、『五百介(貝)図』という図録を作ったと耳にした。尊照法印も高野山で『浄貞五百介図』の写しを見る機会があり、それで貝の名を覚えたという。源内が三浦半島沿岸を歩き回り集めた貝は三十数種がせいぜいだった。博物の世界は限りがなく、貝一種ですらおびただしい数がある。一度その図録を見てみたいものだと源内は思った。尊照法印はその図録の写しが大坂の毛馬屋の手に渡ったはずと教えてくれた。浄貞という人物は、御所を警固する衛士だったと聞いたが、それはあくまで身分上の話で、本分はおそらく本草研究だったと思われた。『浄貞五百介図』の写しを所有している毛馬屋については、大坂の戸田旭山に尋ねれば、手がかりがえられるにちがいなかった。
五月十二日、源内は「薬坊主格」として高松藩から四人扶持銀十枚を給付されることを告げられた。これ以後は、米になおせば年に十三石八斗を受ける身となり、志度で蔵番として受けていた家禄の三倍にあたる給付を与えられ、軽卒の身から一躍藩士格への昇格を果たしたことになった。凡人ならば手放しで歓喜するはずだったが、源内にしてみればこのたびの京都道中と同じく主命に翻弄され、物産探究の障害となるのは明白で、目の前に暗雲が漂うのを覚えるだけだった。
それに加えて、高松藩は宝暦の初めから財政難が深刻化していた。前年、宝暦九年(一七五九)一月には、家老の西尾縫殿によって家臣への知行米渡しを半減するという倹約政治が断行されていた。そんな最中に、藩主が異例の昇格と昇給を源内にもたらした。殿様の批判は表立ってはもとより蔭においても口にできる者はいない。おっつけ知行米渡しを半減された家臣たちの憤懣は、異例の抜擢を受けた元米蔵番に向けられた。逼迫する藩財政にもかかわらず、殿様は珍奇な薬草の栽培やら貝殻集めやらの道楽に夢中となり、その手先となっている元米蔵番だけが格別の厚遇を受けた。殿様の道楽をあおって一人だけうまい汁を吸っていると、源内に対する風当たりは強いものにならざるをえなかった。
六月、松平頼恭が参勤を終え讃岐高松に帰国することになった。危惧していたとおり源内も同行して帰国の途につくよう沙汰があった。江戸に残っておれば来たるべき全国規模の薬品会にそなえて相応の準備も進められるはずだったが、それは不可能となった。
暗然とした思いのまま帰国行列にしたがい源内は東海道をたどったはずだが、山城伏見まで来たところで殿様から突然下命されたのは、紀州沿海の貝をできる限り集めて帰国せよとのことだった。殿様が自由に使える内帑金からかなりの銀銭が源内に手渡された。
源内は瀬戸内海に面した紀伊半島の西岸をめぐり歩いた。西岸一帯は岬と湾が激しく入り組み、海に流れ込む河川も多く、潮は滋養に富み、良質の貝が多数採れる。殿様から内々に渡された銀銭も不足なく、足手まといになるばかりの目付役も付けられなかった。
加太、和歌浦、塩津と南下し、想像していた以上に貝類が豊富で、しかも質の良い貝殻を多数採集できた。相模の三浦半島沿海とは比較にならないほどの漁果だった。
主君から命じられるままにたどった貝採集の旅だったが、源内自身に予想もしなかった収穫がもたらされた。湯浅まで南下し、深専寺という寺の境内で見慣れぬ樹影が源内の目に飛び込んできた。高さ七丈(約二十一メートル)前後、幹まわり一丈三尺(約四メートル)の巨木で、瘤状に盛り上がった根元と黒々とした幹を有し、葉の形状は柳に似ていた。その葉は柳のそれよりも緑が濃く、艶があり、青い実の形はナツメ(棗)に似て、「ほるとのき」の特徴を備えていた。長崎のオランダ人が食用に酢漬けにした実よりは小ぶりなものだったものの実の形はそっくりだった。この樹木の名を土地の者に尋ねたところ「ヅクノ木」と答えた。
「ほるとのき」の呼称は、渡来品の高価な薬用油「ポルトガル油」から来ていた。「ポルトガル油の木」をちぢめたもので、本草家や医者の間ではもっぱら「ほるとのき」でとおっていた。ポルトガル油は擦り傷に塗布すれば抜群の効能があり、浣腸にも用いられ、万能薬と信じられていた。この木をポルトガル人は「オレイヒ(オリーブ)」と称した。日本に自生する「ほるとのき」と実際に出会うことになるとは源内も思いもよらなかった。吉野、熊野の名を挙げるまでもなく、紀伊国は山深く、人が足を踏み入れたことのない場所も多い。山中に分け入り丁寧に探索すれば何が飛び出すかわからない。主命はあくまでも貝探しであり、まずは相応の土産を持ち帰らなくてはならない。藩主松平頼恭の家臣として身を置く限り、無尽蔵と思われる本草の宝庫を目の前にしながら、源内は目をつぶって通りすぎるしかなかった。
八月に入るとまもなく、源内は鎌倉鶴ヶ岡で耳にした『浄貞五百介図』の写しを求めて大坂に向かった。毛馬屋を訪れることはできたが、貝の図録は火事で焼失していた。本草家の話で、幸いにも天満神社の神官がその写本を持っていると知り、ついにその写しを見つけることができた。源内は、殿様と自分のために二部筆写した。紀州の西岸沿海で採集した貝殻は、細かく内を仕切った薬種見本の木箱に一種ごと整理し、『浄貞五百介図』の写しとともに携えて、四年半ぶりに讃岐高松の地へ渡ることになった。
高松城で源内が献上した貝の標本と『浄貞五百介図』は、松平頼恭が想像していた以上の上首尾で、殿様は源内の尽力をたいそう誉め讃え、標本と図録を大切に私蔵した。
源内は、当時の心境を高松城下から東南へ三里十町離れた郷里志度の俳諧仲間で恩人でもある渡辺桃源にこう書き送った。
『四頭立ての馬車に乗るほどの出世を果たさなければ故郷には帰るまい。これが英雄たる者の魂であり、大なる志をいだいた者はそれを知らないはずがない。それなのに、やむをえない事情があったとはいえ、ヤブ医者の下に身を屈し、鍼灸坊主と同等の身となって故郷に帰るとは、果たしていかがなものか』
そして、次の二句を添えた。
『古郷へもいまだ木綿の袷かな
(故郷に帰ったというのに絹の衣さえ身にまとうことなく、いまだ木綿の袷の我が身ですよ)
我袖を耻べき野路の錦かな
(すっかり紅葉し錦繍に彩られている故郷の山野を見るにつけ、おのれが身に着けている粗末な衣装を恥じるしかないです)』
桃源は、それに応えて次のように返信を書き送り、源内の過剰なあせりを戒めた。
『龍となるべく滝を登る鯉も、はじめのうちは泥鰌に交わって泥のなかで生きている。そして機を得て初めて青天をしのぐものだ。その機がまだ熟さないうちに思いあがって登ろうとすれば、必ずや後悔することになる。
満足に年数を経ることなく主君の寵愛を得て薬坊主格となり帰郷するというのは、並外れた人物にしかできないことだ。
おのが身の錦はしらぬ紅葉鮒
(虹色のひれを持つ琵琶湖の紅葉鮒は、おのれがすでに美しい錦の衣を身に着けていながらそうとは気づかずにいるのだよ)』
九月の声を聞くと、源内は、高松藩恒例の「採薬行」に加わり、領内の山野をめぐり歩き薬草類を採集してくるよう命じられた。藩内の薬園にたずさわる者たちのほか数人の小姓と目付までが同行した。源内は一行の頭取として讃岐山脈をひかえる阿野郡や鵜足郡の山野に薬草を求めて分け入った。
精力剤として知られる巴戟天のほか、南藤、木黄耆など、貴重な薬草木の数々を採集できたのは収穫だった。しかしながら、藩務に打ち込めば打ち込むほど源内自身の大志から遠ざかっていく思いが募るばかりだった。この年江戸では、同じく田村藍水門下の松田長元が主催して第四回の江戸薬品会が開かれることになっていた。源内は主命に振りまわされ、満足な協力もできなかった。高松から江戸までの行程は二十日前後だったが、ひどく遠いものに感じられてならなかった。
宿のない讃岐の山中で笹小屋を建て、渓流の水を汲んで飯を炊き、その日採集した薬草類を整理して「採薬行」の七日間は瞬く間に過ぎていった。歩き疲れ何の疑いもなく眠り込んだ者たちの姿を見るにつけ、独り源内は「おれはこんな所で何をやっているんだ」という思いに駆られていた。
翌宝暦十一年(一七六一)二月、源内は再びの禄仕辞任願いを藩庁、ひいては藩主頼恭へ出すにいたった。
『恐れながらお暇を頂戴いたし、わがままながら一層の精進をお許しいただきたくお願い奉ります。
もっとも、今までご用命いただきました役務などにつき御用の際にはおおせつけられましたならば、浪人の身として出来うる限りお役に立ちたいと思っております。
何とぞお取り立てくださるとお思いなされ、お慈悲をもってお暇をいただけますならば、このうえなき仕合わせと存じ奉ります。
右の段、よろしきよう(殿様に)おおせ上げくださるべくお願い申し上げます。以上』
(続く)
プロフィール
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飯嶋 和一 (いいじま・かずいち)
1952年山形県生まれ。83年、「プロミスト・ランド」で第40回小説現代新人賞、88年、『汝ふたたび故郷へ帰れず』で第25回文藝賞を受賞する。2000年、『始祖鳥記』で第6回中山義秀文学賞、08年、『出星前夜』で第35回大佛次郎賞、15年、『狗賓童子の島』で第19回司馬遼太郎賞、18年、『星夜航行』で第12回舟橋聖一文学賞を受賞。他の著書に、『神無き月十番目の夜』『黄金旅風』『南海王国記』など。
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