第四章 一節

 本邦初のやくひんは、各地の本草家ばかりか幕府をはじめ諸大名の耳目を予想された以上に集めるものとなった。それまで横のつながりを持たなかった本草家が一堂に会し、手元に秘蔵していた薬種や珍奇な物類を公開して殖産興業に寄与するという主旨は、幕府政策の方向と一致したものだった。これを機に、田村らんすい門人のひら国倫くにともの名が本草家の間で知られるようになった。

 高松藩主の松平よりたかは以前から薬草に強い関心を持ち、目黒は白金台の下屋敷に薬草園を作っているほどだった。田村藍水の門人で本邦初の薬品会を企画した平賀国倫と名乗る者が、実は数年前まで志度の蔵番だったと知り、小川町の上屋敷に呼び寄せた。

 源内としては今さら殿様にお目見えすることなどどうでもよかったらしいが、江戸でしょうへいこう入門のため尽力してくれた中村彦三郎がとても喜んでいたので上屋敷について行くことにした。高松藩儒の中村彦三郎は思いのほか寛大な人で、江戸に出て来た源内を旧友菊池黄山から薫陶を受けた弟子として歓迎し、進んで就学の労を取ってくれた。

 源内は、古着屋であがなった羽織と袴を身に着け、中村彦三郎にともなわれて上屋敷の会所で松平頼恭に目通りした。元をただせばいちにん三石の軽卒でしかなかった者が江戸上屋敷の会所で殿様と面会するというのは極めて異例のことだった。

 頼恭から薬品会開催の動機と意義について問われ、源内は朝鮮人参をはじめとする薬種や木綿、砂糖など主要な輸入品の国産化による国益論を披露した。

 松平頼恭は「砂糖」の語に反応し、「かんしょ(サトウキビ)の植え付けを領内でも試みているが、そのほうに甘蔗の汁を砂糖となす良策はあるか」と尋ねた。

 源内は「ございません」と答えるしかなかった。甘蔗の汁を絞り出すしめ(プレス機)については知識もあったが、その絞り汁を砂糖に精製する方法は薩摩の島津家が門外不出を決めこみ、薩摩領内から外部に漏れ出ることはなかった。

 それを知る方策ならば別に難しくはない、松平頼恭が薩州侯の島津しげひでに頭を下げて聞き出すことだった。しかし、それを源内が上申したところで無駄に終わるだけだった。高松の松平家は水戸徳川家を祖とし、外様の島津家に頭を低くしてまで交友関係を結ぶわけにはいかなかった。

 源内の「国益」は、あくまでも「日本国全体の利益」を意味していたのだったが、薩摩の島津侯も、松平頼恭らほかの諸大名も、自領内の収益しか想像できず、自尊心ばかりを気にかけて結局のところ「国益」の損失を招くしかない有様だった。

 松平頼恭にお目見えした後、源内は「殿様同士がそんなザマですから、いつまで経ってもらちがあかない」と藍水にこぼした。

 藍水は、「おのれの力のおよばないことを願っても心労がつのるばかりだ。『老子』のしょくぜいこう、つまりまったく無駄なことだ。おのれの出来うることにのみ力を注ぎ込め。そうして歩むしかすべはない」とおだやかにさとした。

つまだつ者は立たず、またぐ者は行かず。

みずかあらわす者は明らかならず、自らよしとする者はあらわれず。自らほこる者は功なく、自らほこる者はひさしからず。の道にけるや、余食贅行とう』(『老子』二十二章)

 源内ごとき一介の素浪人が「真の国益」を思い行動しても限りがある。このたびのように諸侯の偏狭な壁に突き当たり、結局は一人相撲を取って消耗するしかなくなる。むしろおのれの身を滅ぼしかねない危険すらあるとの戒めだった。

 今にして懐之が思うに、藍水師がこの時示した『老子』の言葉どおり、以後も源内は諸侯によって築かれた分厚い壁にさえぎられ、苦闘を強いられることになった。

 宝暦八年(一七五八)四月、前年七月に引き続き第二回目の薬品が、再び田村藍水の主催によって神田で開催された。前回の評判により出品者は十三人増え三十四人、品目も五十一種増加し二百三十一種を数えた。藍水はこのたびも百種の物類を出品し、源内も綿花の木をはじめ五種を初出品した。

 藍水は、朝鮮人参の国内栽培のため以前から幕府との関係を結んでいたのだったが、ここにいたって正式に幕府御用を拝命し、日光の人参栽培試験場での監督と運営を任されることになった。幕府役人となった藍水は、当然のことながら役向きの雑務も増えて多忙となった。そこで次回の薬品会は源内が主催者となって開くよう藍水から伝えられた。源内は会場の確保と設営に松阪屋ら薬種商やに呼びかけたばかりか、藍水には薬品会に相応の威厳を持たせるため幕府医官の藤本りっせんらに声をかけさせた。そもそも薬品会は源内の発案によるもので、それを実現させた彼の行動力も藍水は高く評価していた。

 源内自身は、薬品会の開催を重ね、各地の本草家の協力も得て、本草書を新たに著す野心をいだいていた。ちんの『本草綱目ほんぞうこうもく』も、かいばらえきけんの『大和やまとほんぞう』も、名著として権威づけがなされ、述べられている内容を精査されることはなかった。李時珍も、益軒においても、願っていたのは誤った知識によって薬害が起こるのを防ぐことだった。ところが日本人は、「名にりて、実に惑う」、一度権威づけされたものには何ら疑いもいだかず盲従するだけという愚かな性格を備えていた。李時珍や益軒先生も、記載したすべての物類を実際に検証したわけではなかった。誤りは誤りとしてただすことが、後世の本草家に課せられた役目である。源内は、翌宝暦九年(一七五九)の薬品会開催と、新たな本草書のための検証記録という実務に追われる日々となった。

第四章 二節

 宝暦八年(一七五八)の秋七月以降、江戸市中の話題は、もっぱら美濃国じょう藩(現・岐阜県郡上市)での百姓一揆と、郡上藩預かりのしろ(現・郡上市白鳥町)で起きたはくさんちゅうきょ神社での社人騒動で占められた。一揆騒動は全国いたるところで頻繁に起こり、今さら珍しくはなかった。ところが、この郡上藩がかかわる騒動は、幕府が、阿部伊予守まさすけ(寺社奉行・備後福山藩主)ら五人のせんがかりを特別に選任し、審議にあたらせるという異例の措置をとった。

 郡上から江戸の評定所に呼び出された百姓らは三百余人もの数にのぼり、石徹白の白山神社社人ら三十余人、支配の郡上藩側でも藩主かなもりよりかねはもとより、江戸詰めと国元の家老、金森家寺社奉行、郡奉行、用人、代官、足軽の果てまで多数が呼び寄せられた。

 幕府に訴え出るため在所からでてきた者は、宿やどという旅籠に逗留し、宿主人のに書式にのっとった訴状を書いてもらわなくてはならなかった。また審議の間、訴願人は公事宿に身柄を預けた形となり好き勝手に出歩くことは許されない。江戸の公事宿は、それまで一般の旅人も宿泊させたが、郡上藩がらみの騒動で江戸に呼び出された人数があまりに多すぎ、百十二軒ある江戸市中の公事宿は一般の旅客を断る有さまとなった。美濃郡上と石徹白で何が起きたのか江戸市中には一切知らされず、町衆の興味はかきたてられるばかりだった。

 ぶんこうという講釈師が、九月十日から日本橋くれまさちょうの小間物屋を会場に郡上一揆と石徹白騒動の講釈を七夜連続で披露し、最終日の講釈後に南町奉行の同心によって捕縛され、小伝馬町の牢屋送りとなった。馬場文耕に語られ、江戸市中へ流れてきた騒動のあらましは次のようなものだった。

 郡上藩の表高は三万八千七百石、金森家は、かつて飛騨(現・岐阜県高山市)一国を所領とし、飛騨の美林と豊かな金銀鉱山によって実高は十万石と語られていた。しかしながら、元禄五年(一六九二)、現藩主金森頼錦の祖父よりときの代に、かみやま(現・山形県上山市)へ突然のほうを命じられた。表高こそ変わらなかったが、金森家は飛騨から移る際に家臣の四百人を解雇した。元禄十年(一六九七)にいたり金森家は再び上ノ山から同じ表高の郡上八幡へてんぽうを命じられた。その折も、出羽上ノ山より美濃郡上の実高が乏しかったらしく、またも多数の家臣を召し放ちにしなくてはならなかった。昨今金森家が召しかかえる家臣は足軽をふくめ五百五十人を数えるという。

 延享四年(一七四七)、現藩主金森頼錦が幕府のそうしゃばんに登用された。奏者番は、譜代大名から選ばれ、諸侯以下が将軍に謁見する際に取次をし、上使となったりもする役職だった。そして何より、若年寄や老中の幕閣中枢に昇格する登竜門に位置づけられていた。金森家は美濃の守護氏の庶流で中世以来の名門であり、現当主の頼錦も風雅の道に通じ、幕閣や大身旗本との交友のため享保八年(一七二三)に焼失した芝の江戸屋敷を再建するなどして多大な出費を要した。

 藩主も家臣も飛騨領への復帰を願い、そのためには藩主頼錦が幕閣の中枢まで昇格することが必須の条件となった。頼錦の出世のために江戸での出費を捻出するに際して手っ取り早い方法は年貢を引き上げることである。それまでのじょうめん法による年貢徴収を廃し、ありどり法という徴税法に切り換えようとした。有毛検見取は、「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど出る」との放言で知られる吉宗時代の勘定奉行、かんはるひでが考案したと言われるもので、農民にもっとも過酷なものだった。

 それまでの定免法は、八十年昔の検地による帳面に従い、年々の出来高にかかわらず定められた一定の年貢を納める徴税法だった。この定免法は、八十年の間に新たに開墾した田畑は見逃され、十月一日からの年貢初納の時期にも遅れることがなく、裏作としてエゴマなどの作付けもできたので、農民側にとって有利なものだった。幕府が押し進めるびき検見取ならば、検地帳はそのままで一坪を刈り取り脱穀してその年の出来高を調べ、それをもとに年貢を決めるものだからまだよかった。ところが、有毛検見取となれば、それまでの検地帳は考慮せず各村の田畑を再調査してそれに従って年貢を決定することになる。いってみれば毎年新たに検地をやり直すようなものだった。検地帳に記載されていない田畑はすべて洗い出され、大幅な増徴に見舞われる。年貢見立ての役人は各村を廻って逐一田畑を調べることになり、たいそう時間を要するため裏作の作付け時期も失うことになる。その間に台風に見舞われ大雨が降れば稲は倒れ一年の労苦が水泡に帰すことになりかねなかった。

 検地帳が作られて八十年も経れば、すこしでも暮らしを良くしようと開墾した田畑は少なからずあり、有毛検見取を実施されればそれらの田畑はすべて摘発されて年貢の大幅な増徴は避けられない。それまでも郡上藩は、利息を付けて返済する約束の御用金や御用米、参勤交代の費用を臨時に徴収しておきながら返済がまったくなされなかったり、城の普請や橋の掛け替えで徴用した百姓衆に人足代を支払わなかったり、領民の暮らしを踏みにじるごとき悪政をたびたび繰り返して信をまったく失っていた。

 宝暦四年(一七五四)八月十五日、千人近くの百姓衆が郡上八幡の蔵会所に押しかけ、有毛検見取法による徴税を撤回するようごうした。同時に生糸などの諸税を倍加され困窮に追いやられて改正を求めるなど十六か条のねがいしょを提出した。国家老三人は善処を約束する文書を記して騒乱を回避した。だが、藩主頼錦と江戸詰めの家老・用人らは、縁故をたよって老中の本多ほうきのかみ正珍まさよし、寺社奉行の本多長門守ただなか、勘定奉行の大橋ちかよしまがりぶちひでちかへ有毛検見取を受諾させるよう働きかけた。十六か条におよぶ願書は、当然のことながら打ち捨てられた。

 宝暦五年(一七五五)七月、勘定奉行大橋親義は、配下に列するかさまつぐんだいの青木ろうへ、郡上藩領の庄屋を笠松まで呼び出し、郡上藩が計画する新税法を強要して受諾させるよう命じた。笠松郡代の青木は、大橋からの通達により幕府令と信じ、郡上藩領の庄屋三十六人を笠松に呼びつけ新税法を受諾する旨の請け印を取った。幕府領支配の郡代が、支配すじの異なる私藩の内政に介入し、村役人から新税法の受諾同意書を取るという異例の事態となった。

 いかなる時代でも支配の側は、領民の分断を画策し、対立をあおって抵抗する力を消耗させ、目的を遂行しようとする。郡上藩は、逆らう者を片端から捕え、郡上八幡の牢に入れた。郡上藩領の村々は、藩に従うものと、抵抗するたちものとに分かれ、双方が争う最悪の状況を呈した。

 同年八月、立者の総代となった数十人の農民たちは、郡上藩領を抜け出し、江戸藩邸の藩主頼錦に新税法の撤回を願い出ることにした。立者の農民たちは、国元の家老らが有毛検見取を勝手に命じたもので、江戸の殿様は何も知らないままでいるものと信じていた。同時に、これまで国元で行われた悪政の是正を求め、三十三か条からなる願書も差し出した。ところが、江戸に到着した立者総代の四十人は、たちまち藩邸内に監禁されてしまった。江戸の金森頼錦は知らないどころか、むしろ殿様からの指図によって有毛検見取の領内実施が画策されたことを知るにいたった。三十三か条の願書も取り上げられることなくまたも黙殺された。残るは幕府に窮状を訴え出るしか手はなくなった。

 同年十一月二十六日、ひがし村元庄屋のかわぜん右衛もんら五人が、登城途中の老中さかただよりの駕籠へ直訴を決行した。の五人は、江戸町奉行まさつぐによって取り調べられ、橋本町の公事宿に「宿預け」の身となった。

 宝暦六年(一七五六)十月、駕籠訴の五人と郡上から呼び出された寝者の村方三役(庄屋・組頭・百姓代)が、幕府における最高司法機関の評定所で討論対決することになった。先に郡上藩江戸藩邸に訴え出た有毛検見取の撤廃と三十三か条の願書にもとづき審議がなされたものの、依田政次は、郡上藩に善処するよう命じただけで、駕籠訴した五人も郡上へ帰国させ、それぞれの村に帰って庄屋宅で謹慎する「村預け」とした。結局のところ、郡上藩に差し戻しただけの、その場しのぎの沙汰だった。

 その年の九月に帰国していた金森頼錦は、善処を命じられながら郡上八幡の牢屋に監禁していた立者の領民を釈放することなく、翌七年二月の末に江戸へ戻った。しかし、その後に牢死した農民が出たことにより、立者たちは囚われたままの仲間の赦免を村庄屋に迫り、庄屋たちの嘆願で三月になってやっと牢屋から解放された。

 宝暦七年(一七五七)三月、立者百姓の総代は、江戸出訴にかかった多額の費用をまかなう必要から各村へ徴収する割り当て金を定めた。また、郡上八幡城下の富商にも出訴金を出すよう求めた。立者百姓衆は、出金を拒んだ庄屋や豪農の家に押しかけていずれ納める旨の証文を取り、出費を拒んだ城下の町名主や商人の家には押し入って踏み荒らした。同年十月、城下新町の宿屋主人へいが捕えられ牢に入れられた。太平治の旅籠は、藩庁に訴え出る百姓衆を宿泊させて願書を代筆し江戸の公事宿のような役割を担っていた。宝暦四年(一七五四)の八月に郡中の百姓が藩に対して有毛検見取の廃止とともに十六か条の要求を箇条書きにした願書を差し出した。その折も、立者百姓衆は太平治の旅籠に宿泊していた。立者百姓衆は、太平治釈放のため六百人を動員し、新町の名主に太平治の赦免願いを藩庁へ出すよう要求した。しかし、先に打ちこわしにあった町名主がそれを拒んだため、またも屋敷を踏み荒らされる騒ぎとなった。足軽数十人が駆けつけ、藩庁に太平治赦免の取次をすると説得して解散させた。この騒動を主導したとうどりは、西にし村のじんすけかのみず村のよしぞうだったと足軽たちに名指しされた。

 同年十二月三日、年貢納入の最終期限が迫ったものの、かなりの村が年貢を納めることを拒み、藩に抵抗していた。郡上藩は、すべての村の村役人を城下の会所に呼び集め、年貢完納を命じた。だが、長良川上流のかみと呼ばれる地域からは誰ひとり出なかった。先に江戸の評定所へ願い出た三十三か条の要求が、藩によって実行に移されるまでは年貢を納めないという意志表示だった。すでに金森家の統治は領内で破綻していた。

 この日、西気良村の甚助は、同村の村役人が藩庁に呼び出された事情を知るべく城下町に出たところを足軽に捕えられ、牢屋に送られた。十二月十八日の夜、甚助は藩吏の手によって打ち首となり獄門に処された。領民を死罪以上に処罰する際は、高札に人名・罪状・処刑日などを公示して、昼間衆目の中で執行することになっていた。国元の郡上藩重役たちは、甚助が一揆を首謀したという証拠も罪状も示さず、甚助を秘密裏に処刑し獄門として首をさらした。

 翌宝暦八年(一七五八)二月、長良川上流のじま村で郡上藩の足軽五十人と立者百姓衆百人余が乱闘となり、百姓衆の三十余人が負傷し、足軽にも重傷者を出す騒動が起きた。歩岐島村の四郎左衛門は、江戸出訴にかかった費用を各村に割り当て、出金した者の帳簿を取りまとめていた。帳簿には立者の百姓衆と町衆の名がすべて載せられていた。寝者庄屋の密告によってそれを知った藩側は、一揆頭取の一人として四郎左衛門を捕え、帳簿を奪おうと足軽五十人を差し向け、この騒ぎとなった。

 同年四月、立者百姓衆は、再び総代六人を江戸に送り、今度は評定所の目安箱に訴状を差し入れる「はこ」を決行した。先の北町奉行依田政次による裁定に従わず、依然悪政を続ける郡上藩の不実、また裁きらしきことも行うことなく甚助を一揆頭取と決めつけ秘密裏に処刑した件、そして足軽を送り込んで帳簿を強奪しようとした藩の蛮行を訴え出た。

 時を同じくして、石徹白の白山中居神社の神主うえむらぜんの横暴を幕府に訴え出たかしらしゃじんたちが、江戸したの公事宿に宿泊していた。

 石徹白の地は、美濃国郡上郡の北西に位置し、越前国に属しながらその管轄は郡上藩金森家にゆだねられていた。石徹白は、御神領の地で検地されたこともなく幕府から年貢と夫役を免除されていた。白山中居神社のあるかみざいしょの三十戸余と十二人の頭社人をしゃといい、祭事の一切は彼らの合議制によって仕切られていた。社家は、白山山頂のおくぐうに参拝する人々に宿坊を提供し、ぜんじょうどうすなわち登山路の案内に立った。登拝のできない冬には、として各地の講を巡り、白山信仰の普及をはかった。

 白山中居神社の神主上村豊前は、頭社人による合議制を嫌い、石徹白の独占支配をもくろんだ。神主豊前は、宝暦三年(一七五三)正月、彼が師事する京都の吉田神道家に赴き、石徹白の一般社人たちが真宗門徒となって神事をおろそかにしている現状を愁訴した。吉田家から金森家寺社奉行のじんもんに宛てた書状をもらい受け、それを手にして神主豊前は郡上八幡で根尾と会い、これまで御神領としてだかであった石徹白に検地役人を入れて石高を確定し、通常の検見取法によって収穫高の三分の一を豊前が徴収する。そして豊前が徴収した分の二割を金森家へ納入するという案を申し入れた。少しでも年貢増収を望む金森家がこれに同意しないはずがなかった。

 翌宝暦四年(一七五四)八月、頭社人の中心でとう職のすぎもとこんと頭社人らは、幕府寺社奉行だった本多長門守忠央に神主豊前の横暴を訴え出た。だが、金森家と親戚の本多長門守は、この訴えを取り上げることなく郡上藩に差し戻した。

 金森家は、杉本左近らを入牢させた後、領外へ追放した。さらに金森家は、石徹白の社人八十余人を呼び出し神主豊前に従うよう命じたものの、同意しなかった。彼らもまた代々住み暮らした石徹白から追い立てられた。

 宝暦五年十一月末、根尾甚左衛門は、神主豊前の要請により手代のかたしげはんすけと足軽二十二人を石徹白に送り込み、前年追放した八十余人が残した家族に対して神主豊前へ従うよう命じた。しかし、家族らは無言の抵抗により同意しなかった。片重半助は、九十六戸、約五百三十人の社人家族を雪深い飛騨に追放したばかりか、その田畑と家、家財道具をけっしょとして没収した。飛騨に追放された社人家族五百三十人は、以後各地を流浪することになり、餓死と病死者は七十余人を数えることになった。石徹白の戸数は三分の一にまで減ってしまった。

 神主豊前は、望みどおり石徹白の領主も同然となり、闕所となった約八十軒分の備蓄米や家財を売り飛ばし、根尾甚左衛門に金五十二両を渡した。根尾は、十二両を手代の片重半助に与え、二十両を金森家用人の津田平馬に分配した。豊前はまた、金森家国家老のわたなべかゆかわじんに銭十貫文を贈った。

 宝暦六年(一七五六)八月、杉本左近は江戸に上府し、老中のまつだいらたけちかに駕籠訴を決行したが、寺社奉行の管轄であるとして本多長門守忠央に下げ渡し、またも立ち消えにされた。

 翌七年十一月、うえむらじゅうら追放された頭社人三人が本多長門守に訴追したものの、やはり審議入りするはずがなかった。

 宝暦八年(一七五八)六月、今度はすけら元頭社人が評定所前に置かれた目安箱へ投書する「箱訴」を行った。その訴状には追放され餓死と病死に追いやられた七十二人の名簿を添えた。その後も幕閣が審議のため集合する式日ごとに、あわせて三度の箱訴を行った。

 同年七月二十日、幕府は、郡上百姓衆と石徹白の元社人のたび重なる箱訴を受けて、詮議掛(審議団)五人を選出し、評定所での審議入りを決定した。老中の酒井忠寄は、詮議掛の阿部正右、依田政次ら五人に、郡上藩金森家領民による駕籠訴の審議をあわせてやり直すよう命じた。

 評定所での五か月をかけた審議の末に、すべての裁定が終了したのは、暮れも押し迫った十二月二十六日の未明だった。

 郡上藩領の立者百姓衆に下された裁定は過酷なものとなった。死罪が十四人、そのうち獄門は四人。長い審議中、小伝馬町の牢屋で病死した者は十九人を数えた。死罪人と牢死者のなきがらづかっぱらこういんに運ばれ、とむらわれることもなく 穴に投げ込まれ埋められた。財産没収のうえ居住地追放となった農民は数十人におよんだ。幕府法を無視し徒党強訴におよんだ罪は、いかなる理由があろうと許されざるものだった。

 それに対して石徹白の社人たちへの裁定ははるかに軽いものとなった。神主上村豊前が死罪となり、神主に加担した社人二人が中追放、豊前の家来が軽追放、それ以外の豊前側社人は「構いなし(無罪)」とされた。神主豊前と対立し駕籠訴におよんだ神頭の杉本左近は、江戸の公事宿での押し込め(ちっきょきんしん)三十日で済んだ。石徹白の社人騒動は、幕府の関与しない「じょ」における神社社人たちの内紛であるとの判断だった。

 郡上藩主の金森頼錦はかいえきのうえ陸奥の南部家にえい預け、領地を没収され残りの生涯を南部家でそうろう暮らしをすることになった。頼錦の五人の子息たちもすべて改易処分とされた。金森家臣も、寺社奉行の根尾甚左衛門と下役の片重半助が死罪、国家老の渡辺外記と粥川仁兵衛が遠島に処されたのをはじめ、それぞれ追放などの処罰を受け、家臣の多くが流浪する身となった。

 この郡上藩金森家がらみの騒動が、江戸市中で元禄の赤穂浪士討ち入り事件以来という話題をもたらしたのは、百姓一揆によって藩主が改易になったばかりか、この件にからんだ老中以下の幕閣中枢までが処罰されたためだった。

 老中本多伯耆守正珍、役儀罷免、ひっそく(門扉を閉ざし五十日の謹慎)。

 若年寄本多長門守忠央、罷免のうえ領地(遠江国相良一万五千石)没収、みまさか津山の松平家に永預け。

 大目付(前勘定奉行)曲淵英元、罷免のうえへいもんしん(用済み部屋)入り。

 勘定奉行大橋親義、罷免、知行没収のうえ陸奥中村の相馬家に永預け。笠松郡代青木次郎九郎、罷免され逼塞、小普請入り。

 本多長門守の養子、大橋親義の嫡男と次男、三男も、そろって改易処分となった。

 講釈師の馬場文耕は、江戸市中引き回しのうえ獄門の極刑に処された。この講釈師の素姓についてはよくわからない。ただし政治向きの話や当今幕政にかかわる主立った武家の逸話などを書き記し上梓したりするのは厳しく禁じられているにもかかわらず、『とうちんせつようろく』では、松平武元、堀田まさすけ、酒井忠寄ら、よりによって現職老中の逸話を書き並べ、はんぎょうして貸本屋にさせた。

 文耕を獄門の極刑に命じたのは松平こんしょうげん武元で、彼に関して文耕は、「聡明りょう」「君子」と、たいそうほめ讃える逸話を書いていた。

 江戸城本丸の警備にあたっているばんという軽卒に出される食事があまりにひどいもので、その風評を耳にした松平武元が、番士の食事しているところに突然現われ、同じ膳を求めて食べ、何も言わずに立ち去った。番士の膳は、飯と汁に豆腐の菜一品、香の物、という質素なものだったが、台所を預かる役人たちが良米や味噌を横流ししてふところを肥やしているありさまだった。そのため汁は味噌で色を着けただけ、飯はくず米、豆腐もごく小さなものだった。その後も武元は番士の食事時に現われ、ひれ伏した番士の食いかけた箸を取り上げて残りを食べ、またも黙って立ち去った。松平武元といえば、将軍吉宗の弟の家を出自とする名門中の名門である。その松平武元が番士の食べかけた膳を箸も替えずに残りをたいらげ、無言のうちに台所役人へ警告した。まかないの役人らも、さすがにひどい膳を出すわけにはいかなくなって番士の食事が格段に良くなった、という。

 いかように取り上げようと、幕政にたずさわる要人の逸話などを許可を得ずに版行すれば容赦しないとの警告だった。ことは文耕にとどまらず、文筆や版行にたずさわるすべての者たちを萎縮させようとの意図だった。百姓衆や町衆が、疑うこともなくただオカミの言うがままを受け入れて生きるならば牛馬と何ら変わらない。思うがままにものを言ったり、書き表したりすることを皆がやめてしまえば、この世は畜生界となってしまう。

 郡上藩金森家がらみの騒動は、大名改易と幕閣処罰という異例の結末で、ぬま主殿とのものかみ意次おきつぐの名が一躍庶民にまで知られるようになった。田沼意次は、将軍家重の側近で、「そばようもうしつぎ」という将軍と幕閣との政治案件を取り次ぐ役目にあった。その田沼意次が将軍家重から命じられ評定所での審議に加わっていた。百姓一揆で大名が改易され藩が取りつぶされた。それだけでも昨今では珍しい結末だったところに、老中以下の幕閣中枢までが厳しく処罰されようとは誰も想像しなかった。阿部伊予守正右ら五人の詮議掛だけならば、せいぜい郡上藩の取り潰しまでだったろう。ところが、幕閣の中枢まで容赦なく裁断されたのは、田沼が将軍の代理として評定所に出たことにより、詮議掛も不正は不正として遠慮なく処断できたからにちがいなかった。

 田沼意次は、この件にからんで改易された本多長門守忠央の相州相良一万五千石の領地をもらい受けた。本多忠央は、将軍世子いえはるの暮らす西ノ丸の若年寄で、病弱の将軍家重が没すれば本丸の老中となり幕政を主導するはずだった。本多忠央が改易され、そのあとを田沼意次が受領した。この時点で意次がやがて幕政の表舞台に立つことが明らかとなった。

 それにしても、讃岐出身で一介の素浪人源内が、やがて田沼意次と深くかかわりを持ち、運命まで変えられる日が来ようとは、本人すら思いもしなかったはずだ。

(続く)