平賀源内の生涯を描く歴史大長篇。
夢幻の旅人 六
飯嶋和一
2026年10月31日
第六章 一節
宝暦十一年(一七六一)二月、高松藩に出した源内の禄仕辞任すなわち脱藩の願いに対して、その許可がおりたのは同年も秋九月の二十一日になってからだった。
御内々お耳に達し、格別の思召しをもって御扶持切米召し上げられ、永く御暇下しおかれ候
(内々にそのほうの辞職の願いを殿様にお伝えしたところ、格別の御配慮によって給付を取り上げ、ゆく末長く退任することをお許しになられた)
もっとも御屋敷へ立ち入り候儀は、只今までの通り相心得らるべく候
(しかしながら江戸屋敷への出入りに関しては、これまでと変わらず出入りできるものと心得てよい)
但し他へ仕官の儀は御構あそばされ候
(ただし他家への仕官は禁止なされた)
源内がその後困窮し、「ジレ(憤激)とワザクレ(自棄)」の晩年を送り、ついには人をあやめ非業の死を迎えることになった。その要因として、最後に添えられた他家への仕官禁止によって立身をはばまれたためと死後たびたび語られた。
だが、はたしてこれが「御構状」と呼べる文面なのかどうか。御構状というのは凶状と同じく重罪を犯した家臣にくだされるはずのもので、源内は高松藩においてなんらの罪も犯していない。しかも、高松藩江戸屋敷へは従来どおり出入りしてよいとしてあり、いわゆる「御構状」とは思われない文脈となっていた。
江戸で開かれた薬品会において、これまで源内は『讃岐平賀国倫』と記名し、おのれが讃州人であることを明示した。藩主頼恭が源内の奇才をことのほか愛で、異例の待遇と昇格とを許し、このたびも源内の望みどおり脱藩を許可した。それらの恩義を源内が失念するわけがなく、言われなくても他家に仕える意は源内になかったはずである。そもそも源内が「仕官」を望んでいたとは、立松懐之にはとうてい思われない。南条山人こと川名林助を引き合いにするまでもなく、誰かに仕えることを嫌う性格を生来そなえた者がいる。源内はまさしくそのような人物の一人だった。
薩摩の島津重豪、熊本の細川重賢、富山の前田利保らをはじめ博物収集に熱心な諸侯がおり、江戸で薬品会を主催して名をあげた源内を家臣にしたいと声をかける大名もあまたいるにちがいなかった。「御構」のただし書きは、禄を失い困窮した源内が他家からの勧誘に応じないとは限らず、その防止ぐらいの意味だったろう。
何より松平頼恭は、博物を集められるだけ集め、それらを図録として後世に残すという一大計画を長年いだいていた。実現するためには、どうしても源内の才と知識が必要だった。
実は、源内の脱藩したこの年まで魚類を集め図録にした『衆鱗図』が完成していた。縦十一寸(約三十三センチ)、横十六寸(約四十八センチ)の厚紙を台紙とし、薄紙に描いた魚を切りとってその上に貼り付けたもので、魚体には漆を塗って艶を出し鱗の一枚一枚までを丹念に彩色して描き込んだばかりか、凹凸を付けて立体的に浮き出させる加工までなされていた。懐之が見せてもらったのは、伊勢海老の図で海老の外殻をそのまま貼り付けてあるかのように見えた。他に類を見ない精巧かつ美麗な図録で、源内の手がけた博物学における代表作とも呼べる傑作だった。だが『衆鱗図』は、ほかに将軍家治に請われ献上されたものが一部あるだけでそのまま松平頼恭の手元に秘蔵され、一握りの大名が知っていたのみで世に出ることはついぞなかった。
松平頼恭の図録を手がけた画工は高松藩小豆島出身の三木文柳。彼は源内と親しい宋紫石の弟子だった。宋紫石は、源内の物産学における代表作の『物類品隲』でも画筆をふるうことになる。画工の選出においても源内の審美眼は的を射ていた。
松平頼恭は、歿年となる明和八年(一七七一)まで、魚類図鑑『衆鱗図』四帖、植物図鑑『衆芳画譜』四帖、鳥類図鑑『衆禽画譜』二帖、『写生画帖』三帖、合わせて十三帖からなる博物図譜を完成させる。それらの図譜は、源内の細部にわたっての教示と監修とを必要とした。藩籍を失った以後も、源内は頼恭に呼び出されるたび江戸屋敷に駆けつけ、無給での奉仕を続けざるをえなかった。
藩主頼恭ばかりか高松藩の重臣との関係も容易に切れるものではなかった。家老となった木村季明は、まだ源内が江戸に出てくる以前に高松で磁針器(コンパス)を作らせており、御構状を下された後も平線儀(水平を出す道具)を依頼し製作させた。源内には西洋製機器の原理を見抜く格別の才があり、手先も器用だったので実物を見ていればたいていの物は再現できた。
「御構状が源内の足かせになった」というより、むしろ「御構状」でなかったために旧主や旧上役の度重なる要請によって余計な消耗をしいられたと懐之には思われてならなかった。
高松藩を去り、ほかの諸侯の禄を食むことがなければ、宮仕えの息苦しさから解放される。源内の願いは「国益に資する」ことであり、国家を富ませ万民の暮らしを楽なものにすることだった。しかし、一介の素浪人が国益に資するためには、源内の献策が幕府に採用され、政策として施行されなければならない。そうならなければ、いかなる良策も空に描いた幻でしかない。この年、三十四を数える源内は、まだおのれの力とその可能性を信じていた。
第六章 二節
高松藩の拘束から放れ素浪人となった十月、源内が最初に手をつけたのは翌宝暦十二年の閏四月十日に湯島で開催する「第五回東都薬品会」の引き札(広告チラシ)だった。
この引き札を諸国諸藩を越えて全国の要所に配布し、かねてより本草学、物産学を志向する人々に広く参加を呼びかけ、「国益」に資する一大博覧会を催す意図を告知した。
『これまで外国から渡来する品々ばかりを尊び頼みにしてきた。しかしながら、わが国には存在しないとする品も、深山幽谷を探しまわれば見つけられるかもしれない。だが、遠方諸国をひとつひとつ訪ね、すべて踏査するわけにもいかないのが実状である。
したがって諸国の方々にそれぞれの土地で産出する物を出品していただければ、これまでの本草書やコロイトボック(紅毛本草)と称するオランダの本草書に出ている薬草のほとんどが、実は日本の産物で事足りることになるだろうと思われる。そうなれば病気や外傷の治療に大いに役立つはずである。
これまで江戸で開かれた四回の薬品会では七百余種が出品され、大坂はじめ諸国でも薬品会が催された。このたびは遠国処々の同志の方々に助力をお願いする次第である』
会場は江戸湯島天神前の料理茶屋「京屋」、期日は「閏四月十日」の一日のみである。
入場できるのは案内状を受けた者だけで、広く一般庶民に公開されたものではなかった。諸国諸藩の枠を越えて全国から物産を集めるとなれば、その方法と費用とが必要となる。その集荷方法は源内ならではの斬新なものだった。各地に「取次所」をもうけ、遠国の有志はその住所に出品物を送り、次いで取次所から江戸、大坂、京都に置かれた「請取所」に集められ、最後に請取所から「江戸神田鍛冶町二丁目不動新道」の源内宅へ送られるという仕組みを作った。
なんのことはない源内が長年親しんだ俳諧における懸賞付きの公募方式だった。各地の組連から取次所を介して会林(興行主)に句を集め、点者が入選作を決めて景品を授与する俳諧公募の仕組みをそのまま踏襲していた。
出品された品物は、会が済み次第、集められた経路を逆にたどって出品者に返却される。展示物輸送の往復にかかる運賃は会主となる源内の負担とした。出品者は荷札に「賃銭江戸払」と書いて各地の取次所に託せばよいことになった。
何より問題となる費用については、江戸本町の中村屋伊兵衛をはじめ漢方薬の原料を扱う薬種問屋をはじめ園芸種物商、売薬商らが、この全国規模による新たな薬品会の成功のため全面的に賛助してくれることになった。幕府や諸侯など官の力に頼らず、在野の商人たちの出資による全国規模の博覧会、品評会というまったく新しい試みでもあった。
薬種となる品や園芸種物が国内で調達できるとなれば、舶来品に頼るよりはるかに安価で手に入ることになる。それまで「探せば国内のどこかにあるはず」という想いはあっても、それを探し出す手立てはなかった。この取次所方式による全国規模の本草・物産博覧会は、薬種問屋や園芸種物商らにとって長く切望してきたことを実現してくれる好機となった。
三都に置かれた「産物請取所」は五か所。江戸は本町四丁目薬種問屋の中村屋伊兵衛。大坂では、薬種問屋の天王寺屋勘兵衛と園芸種物商の豊後屋喜右衛門。そして京都は、薬種問屋の千切屋次郎兵衛と薬草屋勘兵衛が担ってくれた。
「諸国産物取次所」は、武蔵、下野、下総、相模、伊豆、駿河、遠江、信濃、尾張、美濃、越中、紀伊、大和、摂津、河内、播磨、近江、讃岐、肥前の十九か国にまたがる地域で、合わせて二十五人の有志が引き受けてくれた。
故郷讃岐での二か所の取次所は、古高松の久保桑閑と陶村の三好喜右衛門の家が指定された。久保桑閑は源内を長崎にともない援助を惜しまなかった恩人であり、三好喜右衛門は本草学から物産・博物学へと源内の視野を広げる機会を与えてくれた旧友だった。
源内にとって特筆すべき人物の一人が、伊豆の北条四日町で産物取次所を引き受けてくれた鎮惣七という篤農だった。
高松藩を去り、昌平黌の寄宿舎から神田白壁町不動新道に家移りした源内は、薬草や薬物の鑑定で礼金を取ったり、これまでの薬品会で知り合った薬種問屋が仕入れた薬種を各地の薬屋に周旋して中間の手間賃を取ったりして暮らしを立てていた。その源内のもとに伊豆から鎮惣七という四十前後の人物が訪ねてきた。一介の農民であったが、知性を感じさせる抑えのきいた声と話し方をした。携えてきた数種類の草木を源内に鑑定してもらうために伊豆からはるばるやって来た。
惣七の携えてきたなかに、丈一尺(約三十センチ)ほどで、節のある細い竹の枝に似た草木の束があった。惣七は、「マオウに似ているように思われましたので」と言い、夏には茎の先に黄色の小さな花をつけると話した。源内が茎の先を指でつぶし匂いをたしかめたところ、まぎれもなく麻黄の香がした。麻黄は、風邪の常備薬として知られる葛根湯にも用いられ、もっぱらシナから運ばれてくる薬種で伊豆の山中に自生しているとは思いもよらなかった。
源内が本草の知識はどのようにして得るにいたったのかを尋ねたところ、「かつて東海道は三島の宿に並河誠所という儒学の先生がおられまして、四書五経を講じてくださるかたわら本草学についてもお教えくださったのです。飢饉は常におこりうる。農夫や在野の人も、あらかじめ多くの鳥獣や草木の名前、形状、臭い、味を知っておき、その時にそなえておくべきであると語られました」と話した。
源内は次に主催する本草・物産の会に伊豆産の麻黄をぜひ出展するよう勧めた。惣七は来たるべき物産会の意義も理解しており、「もし先生が伊豆で採薬されるならば、わたしが道案内をいたします。いろいろと珍しい品が見つかるかもしれません」と言った。源内は多忙をきわめ伊豆に出かけるわけにもいかなかった。そこで源内は雇い入れていた下男を惣七につけてやり、惣七の知識を頼りに伊豆の地で採薬させてみることにした。
下男は惣七のもとに三か月滞在して、採集した物を次々と源内に送ってきた。そのなかの一袋に霜がおりたような灰白色の結晶を付けた土くれがあった。採集した場所は伊豆半島西海岸の土肥港から二里半(約十キロ)ほど土肥川をさかのぼった上船原村で、温泉が湧き出ている場所で見つけたという添え書きがあった。
霜が降ったような結晶が、源内に「芒硝(含水硫酸ナトリウム)」の原料となる、朴硝ではないかと思わせた。思わず指先に霜のような結晶を付け舌先に載せてみると強い苦みとほのかな塩味が感じられた。慌てて口をすすいだ源内は笑みを浮かべた。朴硝にまちがいなさそうだった。朴硝を精製して得られる芒硝は、大黄などと配合して下剤薬、利尿薬として用いられ、もっぱらシナから長崎に運ばれてくる高価な薬種だった。これが朴硝であれば、国内初の発見であり、きたる全国規模による薬品・物産会においても目玉となるにちがいなかった。
源内は師の田村藍水のもとへ走り、朴硝発見の報をもたらした。藍水も、伊豆で採集されたものが芒硝の原料にちがいないと判定し、早速幕府へ報告した。
宝暦十一年(一七六一)十二月、幕府勘定奉行の一色政沆は、讃岐浪人の平賀源内に「伊豆芒硝御用」の役目を与え、伊豆で朴硝を採集し精製して芒硝を産出するよう命じた。同時に一色政沆は、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門に芒硝の国内生産を成功させるべく源内に全面協力するよう通達した。江川太郎左衛門は、韮山に代官陣屋を置き、伊豆・相模を中心としてその周辺の幕府領を管轄していた。
伊豆韮山代官所に到着した源内は、代官所が手配してくれた土地の人々を指揮し、上船原村をはじめ周辺の地域を丹念に探索して朴硝を集めた。
韮山代官所で朴硝の結晶部分を削り取って集め、上から熱湯を注いで絹布で濾過した。泥土や砂を取り除いた液にすり下ろした大根を入れ弱火で煎じ、煮詰めた液を再び濾過し盆に入れてしばらく放置し水分を蒸発させた。盆には霰に似た粒状の白い芒硝が表面に細かい棘状の結晶を浮かべ現われた。源内は伊豆に赴くこと数日で芒硝の産出を成功させた。翌十二年正月、源内は国産初の芒硝を携えて江戸に戻り、田村藍水を通じて幕府に献上した。
この時幕政を牽引していたのは、当年四十四歳を数える田沼主殿頭意次だった。九代将軍家重が宝暦十年四月に隠居したにもかかわらず、田沼意次は引き続き十代家治将軍の御用取次をつとめ、従来どおり評定所に出て重要案件の審議立案に加わり、将軍への奏請権を与えられていた。評定所で審議のうえ立案された案件を意次が将軍家治に上奏し、決裁をえれば、それが幕府法として施行されるというきわめて重要な地位を占めていた。意次の聡明さと勤勉さは幕閣で傑出しながら尊大なところがなく、松平武元をはじめとする老中とも深い信頼関係を築いていた。意次は、評定所に上げられてくるすべての案件に目をとおし、老中・若年寄・三奉行から成る幕閣の評定所審議に立ち会い、悪化する幕府財政をなんとか立て直そうと腐心する日々を送っていた。
勘定奉行一色政沆から国産芒硝の生産成功を知らされた意次は、それを実現させた讃岐浪人の平賀国倫という本草家の存在を知るにいたった。平賀国倫は、田村藍水の門人で、来たる閏四月には十九か国におよぶ大規模な本草・物産会を湯島で主催するという。輸入薬種の国産化は、八代将軍吉宗の時代から幕府政策の重要案件のひとつであり、幕府方針と一致する本草・物産会には意次も注目せざるをえなかった。
第六章 三節
宝暦十二年(一七六二)閏四月十日(陽暦六月二日)、雨がちの日が続き空模様が気がかりだったが、幸いに朝から夏の陽光が差し込み汗ばむほどの好天となった。数えて五回目の東都薬品会には、案内状をもらった者に限られたとはいえ大勢が詰めかけるのはわかりきっていた。源内が気をまわしてくれたらしく懐之のところにも案内状が届き、人ごみは苦手だったが源内の手による国産初という芒硝だけは見ておきたい気持ちに駆られ、湯島に出かけた。
予期したとおりたいそうな人出だった。大小を腰にした武家も町人も紗や絽の羽織をまとい、上布(麻)の着物で整然と並び、人が多いわりには静かなものだった。会場での運びも、これまでの薬品会を手伝った者たちらしく薬種屋や園芸種物商の使用人らがそろいの藍染め法被を引っ掛けて手際よく進めていた。会場となった料理茶屋は間仕切りの襖障子をすべて取り払い、百五十畳敷きほどの大広間を作っていた。展示台は大広間を囲むようにめぐらされ、その内にも五列をなして台が並べられていた。いかにも源内の演出らしく台にはすべて緋色の毛氈が掛けられ、その上に千三百余品におよぶ品々が整然と展示されていた。わずか一日ではすべてを見るのは難しそうだった。見まわしたところ岩石の類がかなり多く出展され、薬品類にとどまらず鉱物資源への志向が強く感じられた。
国産初の芒硝は、黒塗り盆の上に茶碗三杯分ほどが霰を盛ったように白さをきわ立たせて展示されていた。源内に案内状のお礼ぐらいは言いたかったが、源内は人に囲まれ品々の解説に追われていたのでやめておいた。
薬草木の類は、乾燥物や押葉ばかりか鉢植えになって生態のまま展示されているものも多数見うけられた。思いがけず「烏頭(トリカブト)」の鉢植えが展示されているのに出くわした。『上州(現群馬県)丸沼畔』という出所を示す紙片が鉢の前に添えられていた。高さ三尺(約九十・九センチ)ほどで細い茎にカエデの葉を大きくしたような青々とした葉をつけていた。その鉢の脇には、「炮附子」、「草烏」、「白附片」など、いずれもトリカブト類の乾燥された根が名称どおり鳥の頭部を横から見た形をして並べられていた。
「立松さん、持っていったりしないでくださいよ。これで誰か死んだら、わたしが島流しになりますよ」いつの間にか源内が後に立って笑いながらそう言った。源内の後を追うようにして係の者がすぐ呼びにきたので、案内状のお礼を言うのがせいぜいだった。
三年前(一七五九)八月の源内主催による第三回薬品会で展示されたトリカブト類は、源内自身が出品した「蝦夷種附子」がひとつあるだけだった。その時も懐之が見ているところに源内がやって来て、「誰か殺したい人がいるんじゃないでしょうね」と笑いながらささやいた。それにしても思いがけない展示物に、懐之が「これは薬でなくて毒だろ? それも猛毒だろ」ときいたのに対して、源内は「たしかに人を殺せる毒にもなれば、適量を用いれば死にかけた人を生き返らせる妙薬にもなります」と真顔に戻って答えた。
風邪などが悪化し衰弱した患者に、朝鮮人参や茯苓などに少量の附子を加えて煎じた薬湯を与えると薬のめぐりが格段によくなると源内は話し、「むろん量をまちがえれば、あの世へまっ直ぐということに」と笑った。
その時に展示されていた附子は、吉宗将軍の享保年間に阿部将翁が幕命を受けて蝦夷島(現北海道)に渡り採集してきたのだという。阿部将翁は田村藍水の師であり、源内はいわば孫弟子にあたった。
蝦夷島は島というより一国と呼んだほうがよいほどの広大さを持ち、峨々たる山々と深い森林にめぐまれ、「探しまわれば何が出てくるかわからない。薬草の宝庫のはずだ」と源内は語った。エゾ人たちは、秋八月になると附子の茎をつぶしてその汁を集め、煎じて凝縮させた毒液を鏃に塗り、熊やエゾ鹿、トドやアザラシなどの獣を獲るのだという。
「新井白石先生の『蝦夷志』には、エゾ人たちが『医薬を知らず』と述べられていましたが、それはちがうと思います。それぞれの民族が、生きるためにさまざまな知恵を有しています。毒矢を用いるエゾ人が附子の毒に通じていなくては、獣を獲ることができなくなる。どれほどの毒液を鏃に塗れば獣に効能があり、エゾ人がその獲物の肉を食しても毒害がないのか。もし毒にあたった時は、何を服用すれば解毒できるのか。エゾ人たちは我々以上によく知っているはずです。そうでなければ米のとれない極寒の地で生きていけない。……それに、蝦夷島には薬草どころか砂金が出る。その大もとには金山があるはずだ」
今にして思えば、あのころすでに源内は蝦夷島に強い関心を持っていた。源内によれば金座の後藤庄三郎の手代で坂倉源次郎という者が、吉宗将軍時代の元文二年(一七三七)に蝦夷島へ渡り金山を探したという。金座は勘定奉行の支配下に置かれ、小判や一分判の検定と極印および包封をつかさどっている役所だが、特別の権限を有しており、松前家も相応の対応をしたはずだとも話した。
「……その坂倉源次郎が著した『蝦夷松前島』、『蝦夷随筆』、あるいは源次郎が北海と号したとかで『北海随筆』などと呼ばれている書物があると耳にし、ずっと探しているのですが、なかなか見つかりません。もしどこかで見かけられましたら、御一報ください」と源内は付け加えた。
『蝦夷松前島』という書物は、それから間もなくして以前から懐之が懇意にしている江戸本郷の中庸堂泰介という古書肆が見つけ出してくれた。乾巻、坤巻、後篇の三部からなるもので、坂倉伝次郎が金座座人の身分をはばかったためか著した者の名がどこにも記されていない書物だった。だが一読して源内が探していたものだとすぐにわかった。
『一、松前と蝦夷は一国で、松前領というところは、おおよそ六十里(約二百四十キロ)ばかり、西は熊石、東は亀田までである。この両所に関所があって、これより外は蝦夷地となす。この関所で往来を改め、ゆえなくして蝦夷地への往来を禁ず。』
坂倉伝次郎は、記述するのに箇条書きを用い、簡潔な筆の運びで、かなりの学才をそなえた理知的な人物だと思われた。広大な蝦夷島で松前家の支配地は、渡島半島の熊石から亀田までのわずかな地域に限られており、熊石と亀田に関所を設けそれより外の蝦夷地に和人が勝手に入ることを許さなかった。
『一、蝦夷の地は広大なり。松前城下より西方はソウヤ(宗谷)まで三百六十里(約千四百四十キロ)、東方はキイタップ(霧多布)まで四百里(約千六百キロ)といわれる。陸続きであるけれども、高山が立ちはだかり、道路はなく、海上の里数なので正確を極めた里数とはいえない。
東西の海に乗りなれた船稼ぎの者どもがいうことには、ソウヤまで二百七十里(約千八十キロ)、キイタップまで三百里(約千二百キロ)ばかりという。それぐらいかもしれない。この東西両所までは松前より商船が行き、交易して、これより奥へは船がかよわない。地続きで蝦夷人が住居する村が々ある。この船がかよわない所は、百五十里(約六百キロ)ほどあるという。これを奥蝦夷ともいうそうだ。
古来、蝦夷一国の周囲は、おおよそ八百里(約三千二百キロ)という。大概の里数である。』
伝聞は伝聞として記し、概算からなる数字はあくまで概算として記述する冷静な人物による記録だとわかった。
板倉源次郎が蝦夷島に渡った元文二年(一七三七)といえば、幕府が窮迫した財政に対処するためやむなく小判の質を落とし改鋳を強いられた年の翌年だった。金座の板倉が蝦夷島に渡った目的は、むろん金山開発を前提にした調査にちがいなかった。「国益」なるものを念頭に置く源内も、蝦夷島の金山に関心を向けていた。
『一、土地に金気が多きことは他の国に比類がないほどである。七十年以前までは年々砂金を御領主へ納め、京、大坂へも、おびただしく出していた。
その砂金場は、松前領内では、仙見ヶ岳、シリウチ(知内)。東蝦夷地では、クンヌイ(国縫)、ウンベツ、ユウバリ(夕張)、シコツ(支笏)等をはじめとして、一場所でも数十里にわたる場所があり、広大な話である。西はハボロ(羽幌)といって、これは海より上がる砂金である。』
砂金はたいてい金山から流れてくる川から採集するが、蝦夷地では山や川はいうにおよばず海からも砂金が上げられると、板倉は述べていた。それでも、砂金の根源となる金山がどこかにあるはずでその点を板倉が尋ねたところ、クンヌイ砂金場を流れる川の源流に金山があるとの答えが返ってきた。そこで板倉が実際に行ってみたところ、掘った痕跡はあるにはあったものの、砂金を見つけた場所をただ上から掘っただけのもので、金鉱石を求めて坑道を掘り進めるようなことは行っていなかった。そして、板倉はこう結論づけるにいたった。
『それゆえ銀山、銅山については、まったく見知った者もいない。ただ打ち捨てられているばかりである。』
金山があるのならば、銀山や銅山があってもおかしくはない。ところが、松前家をはじめだれもそこには目を向けず、そのまま手付かずに放置されているだけだった。
懐之が気になったのは、板倉が砂金の出どころとなるクンヌイの金山について尋ねた相手はだれだったのかという点だった。金座役人による調査ゆえに幕府からの通達もあったはずで、案内に立ったのは松前家臣だったろう。『蝦夷松前島』の記述によれば、板倉は蝦夷地の地理図を五枚所持していた。そのうちの二枚は津軽と松前の人が秘蔵していたものだという。ところが蝦夷地に行き五枚の地図と周囲の様子とを引き合わせてみたところ、『相違せること多し』だった。原野がほとんどを占める蝦夷島では、町場とは異なり目印となる建物や街道があるわけではない。松前家臣が山野に分け入って実際にクンヌイ金山の砂金の出る場所に案内したとは限らない。どこに案内されても板倉には見当すらつかなかったはずだ。
『一、ハボロは四十里(約百六十キロ)の砂浜である。海から砂金が上がる。これも他国に比類のないことである。この浜、西側に海をひかえた地であるため、春夏の東南の風が吹く季節には波が荒れることはない。秋冬になって、西風の荒天には、海から波濤を押しあげるため、海底の砂金を陸に上げるのだという。春や夏でも大荒れになった翌日は、砂浜一面黄色になるという。』
そして、松前からハボロまでは海上百六十里(約六百四十キロ)あると述べた後でこう続けていた。
『しかれども、ハボロは極寒の地なので、なかなか住居できるような場所ではない。草木や魚類まで少ない所のため蝦夷人も住んでおらず、かつて砂金取りに冬籠もりした者があったけれど、多くの者は寒気に堪えかねて死亡した。死ななかった者も松前へ帰って病気になり、廃人になったそうである』
松前から海上百六十里離れた西蝦夷地のハボロは人の住めない極寒の地だが、砂金がかなり採れたのはたしからしく、松前家は金座の役人にその場所へ踏み込まれるのを嫌ってそんな話をしたものと懐之には思われた。ちなみにハボロの場所は、『ハボロのならびにイシカリ川という大河あり』と記されあり、蝦夷島の西側でもかなり北のほうらしかった。
板倉の手による『蝦夷松前島』には、いたるところに松前家の怪しげなところがうかがえた。
『一、船通路ある所の蝦夷人どもは、ことごとく松前家の百姓なり。この数百里の土地、御領主の蔵入り(地)のほかは、残らず家臣の知行に割り渡し、少しの余地もない。蝦夷一村には酋長がいて、その者をオトナといった。松前家の下命を受けて漁獲を仕事とし、南部、津軽、出羽、近江の商人はその村々を請合い、松前で運上金を納め、蝦夷を支配して漁獲をさせ、その得物を他国へ廻して稼業としている。』
船がかよえる場所のエゾ人はすべて松前家の領民であり、松前藩主が直接支配する場所を除いて、残りの広大な蝦夷島は松前家臣にすべて分割され家臣の知行地とされていた。知行地といっても米を収穫できる土地柄ではないので、松前家臣は年貢の代わりに本州諸国の請負い商人から運上金を徴収し、請負い商人に知行地のエゾ人支配を許し、商人はエゾ人が漁獲したものを手に入れて本州各地へ売りさばいているという仕組みだった。
本州から出向いた商人たちは、漁場を知行として与えられた松前家臣のいわば代官となってエゾ人の村々を直接支配し、エゾ人の漁獲を「交易」によって手に入れ、それらを本州に運んで収益をあげていた。
「交易」といっても本州の商人たちがエゾ人に渡すものは、やはり首をかしげざるをえない品々だった。坂倉の記録によれば、エゾ人に渡す米一俵はわずか八升入りで、本州での三斗五升入り俵の四分の一以下の量であり、酒もわずか二斗入りを一樽として渡していた。そのほかに、糀、塩、煙草、鍋、刃物、木綿などを交易品として坂倉は挙げていたが、その質量については触れていなかった。推して知るべしというところだろうと思われた。これではエゾ人の騒乱が起きないほうがおかしい。
七十年ほど前、寛文九年(一六六九)に起きたシャムクシャインの乱について触れた箇所があった。
『 シャムシャインはシビシャリ(染退)という所の蝦夷で剛強者であるため東西近辺の蝦夷どもを手下につけ、松前に敵対した。反乱の鎮圧に長引くうち、勢いは強大になり、三年がかりで誅戮された。その時から元文元年(一七三六)までは七十年になるという。
総じて東蝦夷人は剛強で、ややもすると松前の令をないがしろにした。キイタップ、アッケシ(厚岸)、クスリ(釧路)のあたりのエゾ人は、別して取り扱いが難しいという。一昨年もキイタップで騒乱が起き、去年は商船が行くのをとりやめた。』
松前城下の三か所に掲げられているという高札の文言も載せられていた。
『
定
一、諸国より松前渡海の輩、夷人に対し、直々商売堅く停止の事
(本州諸国から松前に渡海した者どもがエゾ人とじかに売買してはならない)
一、子細なくして松前へ渡海せしめ、売買つかまつる者これあるは、きっと注進すべき事
(正当な手続きなく松前に奉公人を渡らせ売買を行う者がいる場合には必ず松前に通報すべきこと)
附、蝦夷人の儀、いずこに往来すといえども、その心次第になすべき事
(エゾ人においては、どこに行き来しようとも思うがままにして構わない)
一、蝦夷人に対し、非分の儀申し懸けるべからずの事
(エゾ人に対して不当な要求をしてはならない) 』
松前家の禁令は、あたかもエゾ人の行動を尊重し、諸国商人の横暴を抑えるがごとき文言を並べていた。しかしながら、その実態はといえば、依然として本州諸国からの商人がエゾ人を支配して酷使するのを許し、交易とは名ばかりの掠奪に等しいことを黙認していた。
第一部の『乾巻』に目をとおしただけで、源内自身がどこかでこの書物を手に入れたならば仕方ないが、これは源内に渡さないほうがよいと懐之は思った。ただでさえ未知の世界に関心が強く、「国益」なるものを念頭に置く源内が、蝦夷島ばかりかカラフトや千島を含む蝦夷地開発に心を奪われかねなかった。おのれの力量をはるかに超えたものに挑むその姿勢は賞讃すべきものだが、当人の身を滅ぼす危険も高いと思われた。
(続く)
プロフィール
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飯嶋 和一 (いいじま・かずいち)
1952年山形県生まれ。83年、「プロミスト・ランド」で第40回小説現代新人賞、88年、『汝ふたたび故郷へ帰れず』で第25回文藝賞を受賞する。2000年、『始祖鳥記』で第6回中山義秀文学賞、08年、『出星前夜』で第35回大佛次郎賞、15年、『狗賓童子の島』で第19回司馬遼太郎賞、18年、『星夜航行』で第12回舟橋聖一文学賞を受賞。他の著書に、『神無き月十番目の夜』『黄金旅風』『南海王国記』など。
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