小説だったかエッセイだったかまるで思い出せないのだが、誰かの本に「出かける前にお茶を一杯飲む」という描写があって、ハァー! 私もこういう余裕のある人になりてぇもんだなあ! といたく感動し、憧れた。

 私はどんなに楽しみな外出の場合でもなぜかギリギリまで準備を先延ばしにする癖があり、いつも家を出る十五分前ぐらいになってからあわてて着替えたり化粧をしはじめたりする。お茶一杯の余裕を持ちたい。来年の目標はそれにしよう。

 また、こちらははっきりと記憶しているのだが、先日読んだ砂村かいりさんの『マリアージュ・ブラン』という小説には、外出をして帰ってきた主人公がまずお茶を淹れる、という場面があった。それもまたよいなあ、素敵だなあ、と思った。いったいどんだけお茶飲むことに憧れとんねんという話である。いや、余裕が欲しいんだわ、そういう心の余裕が。

 私がふだんお茶を淹れるタイミングといったらそれはもう断然、原稿を書きはじめる前である。そういう時はたいてい脳がとっ散らかっているので、コーヒーを淹れたあとに数行書いて「あ、喉渇いた」と思い、また台所に行って紅茶を淹れて戻ってきたら「あれ? コーヒーが、ある……? どうして……?」とひとりで混乱したりしている。自分がコーヒーを淹れた記憶が皆無で、並行世界にワープしてきちゃったのかなとすら思う。

 コーヒーも紅茶も、その他のお茶も大好きなのだが、とくにこだわりはない。というか、あまり味の違いがわからないのでなんでもおいしく飲めてしまう。こういう味の違いのわからない人間を「馬鹿舌」と表現する人がいるが、私はなんでもおいしくいただけるほうがだんぜん幸せだと思うので、自分のことは「恵まれし舌」の持ち主だと思っている。「舌」は「タン」と読んでほしい。メグマレシタン。隠れキリシタンみたいな語感だ。

 そんな恵まれし舌である私の家の近くに、コーヒー豆の販売店ができた。一度行ってみたいと思っているのだが、店主ひとりでやっている店らしく(ガラス張りなのでよく見える)、いつも接客をしていて忙しそうだ。なかなか入ることができない。結果的に、買いもしないのに毎日のぞきにいく不審な人物と化している。

 生まれ育った家ではコーヒーや紅茶を飲む習慣がなかった。おもに緑茶を飲んでいた。こたつテーブルの上に卓上ポットと急須、茶筒が常にセットされていて、飲みたい人はそれを自分で淹れるというシステムだった。だから子どもの頃から自分でお茶を淹れていたが、正しい淹れかたを知ったのは二十歳を過ぎてからだった。

 二十歳から二十四歳までのあいだ勤めていた会社にはパートタイマーとして働く女性が数名いて、お茶の葉の適量もお湯の温度も、その人たちからひとつずつ教わった。

 なにも知らない私に、彼女たちはとても親切だった。電話応対のしかたもお礼状の書きかたも、ぜんぶその人たちから教わった。私の無知さにあきれることもなく(内心ではあきれていたのかもしれないがそんな態度はいっさい見せず)、根気よく説明してくれた。

 あまり人と話すのが得意ではなく、そのことを気にしている私に「あなたは仕事の手を抜かない。ずるいこともしない」「そのままでだいじょうぶ」と言ってくれたのも彼女たちだった。

 たった三年間だったが、その時教わったことやほめてもらったことは、今自分が小説の仕事をする上での基本姿勢になっている。私には突出した才能もセンスも教養もない。でもせめてまじめにこつこつやっていこうと心にきめて、現在に至る。