何かを強制されることは昔から嫌いだった。強制される内容に関わらず、強制されること自体が嫌なのだ。

 時折、何もする気が起きないから何もせずに横になってぼうっとしていると、何かをしなくてはと強迫的な影が脳裏をよぎる。本当は休みたいし、あとから休んでおいてよかったと思うのだが、この時間で映画を見たり本を読んだり、ランニングをしたりできたのかもなとも思う。でも、どうしても、読書したほうがいいのに、そういう気が起きない時がある。後ろめたさを感じながらも、ただ横になりたいだけの時がある。読書は好きだ。でも、どんな本でもそうだが、読むべきとか、読まなければいけないとか思うと、純粋に「読みたい」という思いが毒された気がして、なんだか萎えてしまう。半ば強制的に読書しなければと考えると、動く食指も動かない。

 小さい頃から慣れ親しんだ漫画は活字の本よりずっと読みやすい。パラパラと適当にページを捲り、そこにある絵を眺めるだけで、読むまでもなく物語が一気に雪崩れ込んでくる。私は何度『スケルトンダブル』を読み返したことだろうか。突如透明人間(スケルトン)という超能力者になった荒川ヨドミが、八年前に父が遂げた奇怪な死の真相を追いながら、少しでも堂々と生きるために戦い続ける物語だ。少ない描写と台詞で登場人物を際立たせるのが巧みで、味方も敵役も魅力に溢れている。就中(なかんずく)、主人公のヨドミがすごくいい。彼の美点は多いが、その裏表ともいえる自身の悪意に、決して無自覚でないところが素敵だ。その思慮が、誰もが誰もを裁いたり許したりできてしまう、顔も知らないどこかの誰かの恐ろしさと美しさを強烈に映し出す。内外の多くの善悪に振り回されながら、ヨドミは少しでも堂々と生きられるよう足掻いている。読んでいるうちに、悪意を孕んだ彼の思慮と勇気の中に、自分自身の姿を見る。世界というものとどう相対するのか。ヨドミのように生きられるなら、その答えとまではいかないが、問いに対する誠実さを得られるように思う。

『スケルトンダブル』(1~5巻)コンドウ十画(著)/集英社

 

 一方で、真面目でない話も、読書から遠ざかりながらに物語に触れる手段になる。『中国怪談奇談集』は、大真面目に読んでも面白いが、適当に読み流すだけでも十分面白い。なんだこれはと思わず口にしてしまうような物語たちで溢れていて、オチがなかったり、はたまた全てが突飛だったりする。私が一番好きなのは「盲人の惨殺」という話で、何から何まで素性の不明な盲目の男が、殷桐という男を探し続け、やっとの思いで彼を見つけるやいなやすぐさま惨殺する話だ。動機も背景も、何もかもが明かされない。明かされないことが面白い。考える余地がありすぎて、逆にすとんと入ってきて、でも冷静に考えると変すぎて、怪奇小説なのに笑えてくる。

 何度も読んだ鏡のような物語と、何度読んでも奇々怪々な物語。私の調子を整えて、再び純文学の世界に臨ませてくれるのは、まったく別の世界だ。

『中国怪談奇談集 新装増補版』多久弘一(著)・志賀コージ(イラスト)/里文出版