あの夜、鮎太は十七歳で、ひっしーは十七歳で、春井は十七歳だった。 偶然出会った男子3人の友情と必死のサバイブを描く、強くあたたかな青春小説。
だれにも僕らを見つけられない 第二回
大前粟生
2026年09月30日
水中みたいな夜だと春井が思ったのは、プールの底を歩くみたいに手足を動かしたから。ひっしーのペースに合わせようとすると、ぶううんと体がゆっくりになる。軽い雰囲気のわりに、ひっしーは歩くのがとても遅かった。足音がふたり分になったことに春井ははじめ緊張した。やましさみたいなものかもしれない。こわばりを徐々にほぐすみたいに、のろのろと二十分近く歩いている。その間ひっしーはあまりしゃべらなかったが、春井には気まずいわけでもなくて、きっとひっしーもそうなんだろうと思うことさえできた。
気まずいとか気を遣うとか、そういうこと自体がひっしーには通じない気がした。この人、なんなんだろう。春井に横顔を見つめられたひっしーが、「どしたん?」と言う。
「えっとーー」
春井は、自分からなにも出てこないことにひやひやした。嫌だな、こんなの。興味がないって思われたら。でも、なにも。
ひっしーがエナジードリンクの缶を揺らして、「自販機寄っていい?」と言った。すぐ脇にある茶色い自販機には季節をまるで無視したあたたかい飲み物がいくつかあった。「え、これガチ?」「ガチかなあ」ひっしーはそのささやかな間違いに、まるで奇跡を目にしたみたいにわくわくしている。春井も気が楽だ。自分にはこういうところがあると、最近自覚した。いっしょにいる人の機嫌にどうしてもひっぱられてしまう。
ひっしーは小さい緑茶のペットボトルを買った。それから、同じのをもうひとつ。
「これはい、春井の」
「……なんで?」
「お茶いらない?」
「飲んでいいの?」
「そりゃそうっしょ」
「これ、くれるってこと?」
カッ、とまたひっしーは口から音を立てた。人からなにかをもらうということに覚えがなさ過ぎて春井はショックだった。
「オレの分と春井の分、それでいいっしょ?」
あたたかいペットボトルを受け取ると、いつかの湯たんぽを思い出して鼓動が速くなった。何歳のときだっけ。四歳? 五歳? 湯たんぽを春井の布団に入れたすぐあとにミエちゃんがなにも言わず家を出ていって、三日戻ってこなかったことがある。帰ってきたとき春井がその湯たんぽを抱えていたから、ミエちゃんはこうしていると春井が落ち着くんだと思って、それからは湯たんぽを春井に持たせてから出ていくようになった。そんなこともう慣れているはずなのに、どうして今、はじめのときの気持ちを思い出すんだろう。
「お茶って苦いのと甘いの混ざってるから、苦いでも甘いでもなくね?」
「……そうかも」
「なんかあった?」
「本当は、悲しかったんだけど」
「うん」
「悲しいってうまく言えなかったから、悲しいってなにかわかんなくなっちゃったんだ」
「そっか。まあそういうことも、あるよな。それ、もうちょっとオレ話聞いていい?」
「うーーーん」
「ま、無理なしで」
「はは。ありがとう」
泣きそう、なんで、ヤバい! と思って歩きはじめると、「ちょ、ちょっ」とひっしーが言った。
「春井、歩くの速くね?」
「え? 速い?」
「超~~速い。言われたことない?」
「そうか」
こんなふうに誰かの隣を歩いたりって、全然したことがなかったんだ。それで緊張してるんだ。
「そうか、って春井ウケるね」
「そう?」
「そうそう」
「ひっしーは、何時に帰るの」
「んー。春井は?」
「僕は……まだ大丈夫」
「そっかそっかあ。んじゃ、歩きますか」
夜が進むにつれて車の数は減って、その代わりに一台一台が速くなっていく。ヘッドライトの光に包まれたふたりの影がぐわんと伸びては道に畳まれていく。人と歩くときのコツがわかってきたみたいに春井の体から力みが抜けていって、ポケットのなかのスマホばかりが重たかった。
サイレンの音がして、踏み切りの遮断機が下りた。「ふむ」とひっしーがつぶやく。「どうしたの」と聞いてみたけれど、電車がやってきてなにも聞こえなかった。
ひっしーは笑っていたから春井も笑ってみた。この人はなんだか複雑だ、と春井は考える。電車の窓からの光が、パラパラ漫画をめくるみたいにひっしーの顔を照らした。複雑であることはわかっても、その中身はうまくわからなかった。
「さっき、なんて言ってたの」
「自粛中YouTubeとTikTok見てずっとダルゴナコーヒー作ってたんだよね。めっちゃ失敗するよなあれ」
「えっと?」
「そういう話」
「ふうん?」
「お。自販機」
緑茶のペットボトルを回収箱に入れると、ひっしーはエナジードリンクを買った。春井が、「いっぱい飲むんだ」と聞くでもなしに言うと、「まあね」とひっしーはその場でぐっぷぐっぷと半分ほど飲んだ。
「オレ、エナドリが主食だから」
「うそ!」
「うそだよ? 信じちゃった?」
「うそかあ」
なんだか、元気のあるときのユウみたいな、子どもみたいな声が出た。そのことに気づくと無性に恥ずかしかった。
さっき見たのが終電だったみたいだ。駅の方からやたらと人が流れてくる。なんとなく、それに乗るよりは逆行した。
駅を越え、雑居ビルと居酒屋ばかりの通りを歩く。春井の顔がいかにも未成年に見えるのか、キャッチはほとんど声をかけてこない。
オレンジのジャンパーを着たカラオケ店の人が、ぐるんと体を回して料金の書かれたでかパネルを見せてくる。
「カラオケ、いったことない」
「へえ。オレ、金あるよ?」
「あ、いってみたいとか、そういう意味じゃなくて」
「金なら、持ってんだよね。いっちゃう?」
「ううん。大丈夫」
甘えるのは悪い気がしたし、いってしまったら甘えていることを認めるみたいでやっぱり恥ずかしかった。「そっかそっかあ」とひっしーは言って、たぶんこれこの人の口癖かも、と春井は思う。ひっしーは空を見上げて道路の真ん中を歩きながら、春井の知らない、懐メロみたいな曲を歌った。
「ひっしー、カラオケいきたかった?」
「これは外でこういう夜に歌うからいいんよ」
ひっしーはサビのところを何度も繰り返した。春井は、ミエちゃんがメイクしているときにたまに口ずさむアイドルソングを小声で歌った。
にぎやかな通りを抜けると住宅街で、街灯の間隔が空いていき、なにかが飛び出してきそうな暗やみがぽつぽつと増えた。建物と建物の間の、動物くらいしか通れないような暗やみ。ときどきそういうところをひっしーはじっと見つめた。
「なに?」と聞くと、「なんだろ」と返ってきた。
しゃんと立った、やけに目に残るような後ろ姿で路地を見たかと思うと、ひっしーは振り返ってそのままバレエみたいに踊りはじめた。春井はバレエのことをなにも知らない。アニメとか、ショート動画とかCMとかでそれっぽい動きを見たことがあるような気がしているだけだ。そんな漠然としたイメージをしっかり埋めて、ああこれはバレエだ、と春井にも思えるほど、夜の下で踊るひっしーの身振りは優雅だった。
クリーニング店と24時間営業のコインランドリーが対角にある、人のいない、ただ街灯のあかりだけの交差点。その真ん中を、胸の前で手を交差させたひっしーがくたびれたスニーカーでくるくると回り、腕を月に向かって伸ばし、その途中で急に恥ずかしくなったみたいに半端に動きを止めて、スケボーでも拾うような気だるさでうつむき、ひとつ咳払いをしてエナジードリンクを飲んだ。
春井の拍手が夜に響いた。人を気にせず音を出すなんて、めったにないことだった。
「やめてくれ。よせよせ」
「だって、すごかった。すごい、踊る人なの?」
「そんなんじゃない」
「バレエダンサーだ」
「違うって!」
大きい声に春井の体は震えた。いつからか、勝手にこうなってしまうようになった。
ひっしーは、なにか思い出すように、体を強張らせる春井のことをじっと見つめ、それから思い出から帰ってきたみたいに「悪い」と言った。
ひっしーは息を切らしていて、「疲れた」と言う。目線の先には椅子とテーブルが備え付けられたコインランドリーがあって、暖色の眠たげな光に輝いている。
春井は「入る?」と言ってみた。ひっしーが椅子に座りたそうなのがわかったからだ。人がなにかしたがっているのを、その人と同じくらいのスピードでわかってしまう。
コインランドリーは掃除が行き届いていた。テーブルの上なんて、拭かれたばかりのような気がする。紙コップにドリンクが注がれる自販機と、カロリーメイトとかカップラーメンとか軽食の自販機まである。「へえ」とひっしーは言って写真を撮った。それから、「いや、いらね」とつぶやいたから、写真を消したのかもしれない。
春井はきょろきょろとその空間を見渡す。洗濯の値段は400円で乾燥の値段は10分100円。相場の値段だけど、ここはきれいだし、トイレまであるし、家の近くにあったらよかったのにと思う。
家の洗濯機はまだ使えるけど、残り時間の表示がここ半年ずっとバグっているから、もう壊れようとしているのかもしれない。なにか家電を買い替えたり修理したりするお金なんてうちにはない。春井は、いつかコインランドリーを使う生活になるんじゃないかと、ちびちびと貯金をしている。たとえば一週間分をまとめて洗濯して、家で干すとしたら、洗濯代だけだから400円で、月に4回としたら1600円。
1600円。そのお金でほかになにができるとかは、なるべく考えないでおきたい。
がっこ、と音がして、見るとひっしーが軽食の自販機からカロリーメイトを取り出していた。箱と、なかの金の封を開けて、半分ほどに折ったカロリーメイトをほおばると、残ったものを「ふぁいこれふぁるいの」と、渡してくる。
「え」
なんで、そんな、言ってくれるの。
「ふぉれ……、オレ、お金あるから。もういらないから、全部春井にあげようか?」
「なに言ってんの!」
奥のトイレから水を流す音がした。扉を開けて現れた男子は、春井とひっしーのことを目に留めると軽く会釈した。手洗い場で手を洗い、長い黒髪をヘアゴムで後ろにまとめ直す。彼は鏡越しにふたりを見て、「同い年くらいかなあ?」と言った。
(続く)
プロフィール
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大前 粟生 (おおまえ・あお)
1992年、兵庫県生まれ。2016年、「彼女をバスタブにいれて燃やす」が「GRANTA JAPAN with 早稲田文学」の公募プロジェクトにて最優秀作に選出され小説家デビュー。主な著作に『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』『おもろい以外いらんねん』『かもめジムの恋愛』『7人の7年の恋とガチャ』『プレイ・ダイアリー』『思い出すときには、すべてのものがまるくなっていてくれ』など。12月に新刊『いつか、僕のしたことをきみに話せるだろうか』が発売予定。
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