どこまでも歩けそうな夜。死にたくなる夜。明るい場所にいけばさびしくないんじゃないかと期待する夜。夜には種類がある。ジャムの蓋をみっちり閉じたみたいに静かで、人がいなければいないほど、どうしてか暗やみをあたたかいと感じる夜。鮎太は一七歳で、ひっしーは一七歳で、春井は一七歳だった。

 嫌とかじゃないんだけど、家事をすることがプレッシャーになって家のなかにいるのがこわくて、春井はもう二時間は歩いていた。

 スマホをこまめにチェックしている。弟のユウに、ミエちゃんが仕事から帰ってきたら教えてねと言っておいたけど、まだ連絡はない。そのことが不安だしほっとする。せっかくひとりの時間なんだから忘れなきゃと思うけど無理。これは罪悪感みたいなものなのか、家にユウを置いてきてしまった――しかも母親のミエちゃんに黙って――そのことばかり考えてしまうせいで無限に歩けた。

 そろそろ引き返した方がいい、足の裏が痛くなってくるだろうから。どれくらい疲れたらどれくらい眠ってしまうのか、最近春井は気にしている。ユウとミエちゃんに朝ごはんを作ってあげられるかどうかが、自分の起床のコンディションで決まっちゃうから。どうも、にぎやかじゃない方へと歩いていっているみたいだ。一時間くらい前に見たラーメン屋は一杯一二〇〇円だったのに、今通ったところは九〇〇円で、目の前にあるところも九〇〇円だから。ここ、どこだろう。喉が渇いた。家まで我慢しようかと思ったけど、探して三つ目の自販機は水が百円だったから、十円玉ならミエちゃんは気にしないので、ないしょのおもちゃをはじめて動かす気持ちで十円玉を十回入れた。

 住宅地のなかに、本棚から本を一冊抜いたあとみたいに縦長の公園があった。黄色いラクダと水色のうさぎの遊具がある。こういうのをもうユウはよろこばなくなった。こういうのを見つけると、未だに春井は気分がふわふわと浮き上がる。どうして、と考えてみて、あんまりあそんでこなかったからかもしれないと気づくと、浮き上がった気分ごと自分に蓋をした。

 春井はベンチに座って水を飲んだ。ひと口、ふた口と飲むと、それはため息を吐いているみたいだった。このまま消える気がした。透明になる気がした。自分が水と交換されるような気持ちだった。

 横になりたいと思った。ベンチには寝そべれないようにコブがついている。春井はぎゅっと身を縮めてベンチの半分のスペースで繭みたいに丸まった。まだ家に父親がいたときに春井はこの寝方を生み出した。小さくなればなるほど、外の世界から隠れていられるような気がしたものだった。今ではもうただの癖だけれど。

 静かだった。車の音が、何層もフィルターをかけたみたいにざーっと聞こえてくるだけ。ここで寝てしまえるくらい体がだるかった。重心が、自分より、ベンチより、地面より、もっともっと下にあるみたい。それでも一瞬で飛び起きたのは、スマホがぶーっと震えたからだ。

 連絡はユウからではなく、規約を変更するというドラッグストアからの通知だった。なんだ、と春井はさっきより大きな安堵と不安を感じた。ベンチにはもう座れなかった。家に帰るという選択肢が命令になったみたいに公園を出て、大通りを歩いていると、それがいた。

 春井はじっと眺めた。白いふわふわしたものが何車線もある車道の真ん中に寝そべっている。車は通っていなくて、左の方にも右の方にも見えない。少し先で車のための信号が黄色く点滅し、街灯の明かりが車道を薄青い暗やみにしている。春井はそれの方へと踏み出してみて、ビニール袋とか猫とかじゃなくて、やっぱり人だとわかると早歩きになった。

 でも不思議だ。あぶないとか、いったいどうしてとかじゃなくて気持ちが落ち着いている。隣にしゃがみ込んだ。

「あの、ひかれちゃいますよ」

 白いフードを被ったその人は、「うーん?」と体を転がして仰向けになる。その拍子にガトっと音がして、春井から見えない側にあった缶が転がってエナジードリンクの黄色がどくどくと流れ出た。春井はパッと缶を起こすと、同年代くらいに見えるその人の肩を、ごく軽く、とんとんとん、と叩いた。「おきたほうがいいとおもいますよ」一音一音はっきりと発音する。「じゃあ」と言って去ろうとし、振り返るとまだ寝たままでいる。

 なんで。

 そう思うのはその人に対してというよりも、体が勝手に動いている自分自身に。どうしようもない。春井はこういうとき無視できないから。

 白い毛羽立ったパーカーの脇に自分の腕をぐるんとひっかけるように入れて、歩道の方へとずるずるひきずっていく。酔っ払って寝てしまったミエちゃんより重くて、そのことで、酔っ払って寝てしまった父親よりは軽いんだな、という考えも浮かんできた。誰かが見ていたら、死体を運んでいるみたいだと思うかもしれない。

 こんな体勢でいるというのに、彼はまだ寝たままだ。一旦歩道の隅の、背の高いマンションに面した安全そうな場所に座らせると、春井は車道に残されたエナジードリンクを拾いに駆けた。缶はじんじんと、想像の外からきたみたいにつめたい。こぼさないように小走りで彼のもとに戻った。

 自分はこの人をどうしたいんだろう。助けたいんだろうか。心配以外になにも思いつくようなものはないけれど、積極的に助けたいかというと、わからない。

「救急車か、警察、呼びましょうか?」

「えっ」パチパチ。はっきりとしたまばたきがあった。「それはやめてくんない?」

 それからその人は上半身だけを起こすと、ああ、と在りかを確かめるみたいにつぶやいてエナジードリンクを飲む。

「あれ? オレここにいた?」

「いや、車道に」

「じゃあなんでここにいるの?」

「あの、あぶないから運んだんですけど」

「きみが? ひとりで? そっかそっかあ。えっ、きみは、ごめんねオレ忘れちゃってるかも」

「いや別に……通りすがりで」

「なんだなんだ。そんなよかったのにわざわざ」

「でもひかれてましたよ?」

「うーんまあ、そういうこともあるよね?」

 カッ、と彼は口から音を出した。なにそれと春井は思ったが、舌打ちではないのはなんとなくわかった。

「高校生?」

「はい」

「初対面? だったよね」

「はい」

「きみはなにしてたの?」

「歩いてました、けど」

「こんな時間に? なにしてたのきみは。きみっつーかさ」

「春井です」

「オレはひっしーね」

「ひっしー、さん」

「ひっしーでいいから」

「……ひっしー」

「春井はなにしてたの」

「だから歩いてて」

「理由もなく?」

 春井は少し考えた。理由ならある。ひとりになりたかったから。家から出たかったから。

 でももう、帰らないと。

「あの僕、もういきますよ?」

「そっかそっかあ。わかった。じゃね!」

 ひっしーは、人に手を振ることにすごく慣れてるみたいに手を振った。それが春井にはなんとなくさびしい気がした。十歩、二十歩とひっしーから離れると、なんとなくさびしく感じるのは、自分がそうだからなんじゃないかという気になった。

 振り返ってみるとひっしーはマンションの外壁にもたれて、頭をがっくり垂らしていた。

「寝てるし」

 つぶやくと春井は、夜に言い訳するみたいに引き返した。

 そういえば春井は、エナジードリンクを飲んだことがない。

 コーラも炭酸も、悪い神さまを引き寄せるからとミエちゃんから禁止されている。春井はそんなの信じていないけど、ミエちゃんの前では信じてあげている。よっぽど見てたのか、「ちょっと飲む?」とひっしーが言った。

 手渡されたエナジードリンクの缶はまだつめたかった。ひっしーが握っていたところを避けるようにして持って、飲み口を口から離して喉に放り投げるみたいに飲んでみた。ぞずわわ、っと体が鳴った。

 胃が、胃だぞ! と叫んでいるような奇妙な味だった、その叫びが、じわじわと脳に広がっていく味、うれしいような味で、なにかこれから先のよろこびが早まってここまでやってきているような味。これが、エナジーか。ふうん。ユウにはまだ早いかな。

「だいじょぶ? すごい顔してっけど」

「大丈夫大丈夫」

 笑えてきた。勝手に顔が笑ってる。体質がエナジードリンクに向いていないのかもしれない。この頃よく考えるのは、ミエちゃんだって本当に信じてるわけではないんじゃないかということ。ミエちゃんだって、そういうふりをしているだけなんじゃないの。ミエちゃんにとって、たとえなにかのふりであっても信じたりできるのが、もうそれしかないのかもしれない。かわいそうなミエちゃん。

「笑い止まらんね、なんかいいことあった?」

「いいことなんてない」

「そっかそっかあ」

 ひっしーの隣にわけもなくしゃがみこんだ。マンション一階の角部屋の出窓の下みたいなスペースで、春井が息をひそめるようにしているとひっしーも黙っていた。

 何分か過ぎた気がするけど、ほんとは一分かそこらかもしれない。ひっしーが立ち上がって、白いスウェットのおしりを払ってから春井に手をさし出した。

 どういう脈絡であれ、こんなふうにされたことはなかった。ただ起き上がらせるために手をさし出しているだけで、そこに大した意味なんてない。それでも、そんなことさえされたことのない春井は、どんな意味が生まれるのもおそれて、地面に這わせた指をぐいっと押して立ち上がった。

「いこうぜ?」

「どこに」

「うーん。この世の果てまで?」

(続く)