アセニョーラの話をしたい。

 友人グラシンダのお母さんのことだ。現在87歳。

 グラシンダはS村でできた最初の友人で、当初は週に何度も訪ねていって夕食をご馳走になったものだった。常にそこにいたのが、同居していたアセニョーラだった。

 ダイニングキッチンの大部分を占める巨大なテーブルの片隅に、グラシンダと夫のアントニオ、アセニョーラ、そして私たち夫婦の5人で座って、アントニオ作のワインを飲み、グラシンダの手料理を食べながらおしゃべりした。

「アセニョーラ」は名前ではない。一般名詞で、正確にはa senhoraと二単語。直訳するなら「ザ・レディ」「その女性」。ポルトガルでは相手に「お客様」「奥様」といった感じで礼儀正しく呼びかける場合、二人称の「あなた」ではなく三人称の「ア・セニョーラ」(男性の場合はオ・セニョール)が使われる。

 グラシンダのお母さんのことは、誰も「この人は母のマリア」などと紹介してくれなかった。だから本名を知らず、私たちは彼女に「アセニョーラ」と呼びかけ続け、やがてこの呼び名は固有名詞になった。私たちのほうも名前ではなく「C荘の友達」と呼ばれていた。

 アセニョーラは、知り合ったときにはすでに全身黒ずくめの未亡人ルックだった。黒いスカート、黒いブラウス、頭には黒いスカーフ。冬にはここに黒いカーディガンと黒いタイツが加わる。ポルトガルの田舎では、ある世代より上の女性たちは、いまでも夫を亡くすと黒しか着なくなる。

 アセニョーラのポルトガル語は、私たちにはほとんど理解できなかった。グラシンダに頼んでポルトガル語(極度の訛り)からポルトガル語(普通の訛り)に通訳してもらうのだが、そのグラシンダもときに面倒くさくなるのか、「私にもわかんない」と匙を投げる始末である。

 それでもアセニョーラが話す電気も水道もなかった昔の村の生活は興味深く、私たちは必死で耳を傾け、辞書を引き、全身パフォーマンスで意思疎通を図ったものだった。

 アセニョーラの人生は楽ではなかった。育て上げた息子ふたりに先立たれた。認知症を患った夫を20年間介護して、見送った。残ったただひとりの子供であるグラシンダと同居しているものの、家庭での発言権はあまりなさそうで、なにか言っては「もうお母さんは黙ってて」と相手にされず、いつもどこか不満げなへの字口だった。

 こう書くと、「おしん」風の幸薄い耐える女が想像されるかもしれないが、どういうわけかアセニョーラのまとうオーラには悲愴感のかけらもなかった。

 全身いろいろな病を患い、胃が3分の1しか残っていないという話も、あまりに自慢げに語るものだから武勇伝にしか聞こえない。

 歯が一本も残っていないからものが食べられないと悲しそうに言うのだが、口をあんぐり開けて証拠を見せてくれた直後に、好物の豚肉を平然とたいらげるから、可哀そうよりも面白いが勝ってしまう。「歯は?」と訊くと、「しゃぶるから大丈夫!」――しかも入れ歯は断固拒否で、グラシンダを困らせている。

ポルトガル限界集落日記
村の家の玄関前。アセニョーラはいつもここに椅子を持ち出して座っていた

 アセニョーラとのエピソードは数えきれない。

「ちりとり」を表す「パ・デ・ポ」という言葉の響きがワインで緩くなった笑いのツボにはまり、私が「パデポ! パデポ!」と手を叩いて喜んだとき。への字口のままアセニョーラが急に立ち上がり、どこかへ消えた。しばらくして戻ってきた彼女の手には箒とちりとりが握られていた。ちりとりを知らないらしい外国人に使い方を見せてやろうと思ったのだろう、アセニョーラは「パデポ!」と怒鳴りながら、テーブルの周りをぐるぐる回って、掃除の実演をした。食事をする私たちの周りで真剣な顔でちりを掃き続けるアセニョーラの姿に、私の笑いは止まらなくなり、日ごろ義母と折り合いのよくないアントニオさえ爆笑した。

 ジョークを披露してくれたとき。私たちにはなにかの呪文にしか聞こえず、それがジョークであることすらわからなかった。真剣な顔でオチを語ったアセニョーラに「面白いでしょ?」と詰め寄られたが、その「面白い」という単語さえ知らず、互いに眉間にしわを寄せて「面白い?」「面白いって?」を延々と繰り返した。

 アセニョーラの誕生日は年に2日あった。本当の誕生日と役所に登録されている「公式」の誕生日。昔は出生届を役所に提出するのが生まれてから数か月後なんてこともザラだったのだという。本当の誕生日に花束を贈ったら、いつものへの字口のまま、じっと黙りこんでしまった。しばらくして「ありがとう」とぽつりと絞り出すように言った。花はそれから半年以上、すっかりドライフラワーになった後もまだ花瓶に入れて飾ってあった。

 特別面白いことを話したわけでもないのに、どういうわけかいつも頬が痛くなるまで笑っていた記憶しかない。あれは私たちにとって「見知らぬ国」が「居場所」になっていくのを実感できる、かけがえのない時間だった。

アセニョーラが散歩していた村の通り

 5年前にグラシンダはアントニオと離婚して、アセニョーラとともに最寄りの町のアパートに移った。

 それまでは村のお年寄り仲間とおしゃべりをして過ごしていたアセニョーラは、毎朝グラシンダの勤め先であるデイケアセンターについていくようになり、そこで別のお年寄り仲間とおしゃべりをして、みんなでお昼を食べて、楽しく過ごしていた。デイケアセンターで受けるフィジオセラピーがどれほど気持ちいいかという話を、身振り手振りと百面相で伝えてくれた。生まれてこのかた村を離れたことのなかったアセニョーラだが、思ったより環境の変化に強いようだった。

 おまけに実は冒険好きだった。イギリスに住むグラシンダの長女家族を訪ねて、グラシンダとふたり、82歳にして初めて飛行機に乗った。旅行後、「もう乗りたくない」というグラシンダとは逆に、アセニョーラは大興奮で、目と手をまっすぐ天井に向けて、飛行機が離陸してぐんぐん空に昇っていくときの様子を語ってくれた。

「雲の上に出るのよ! また乗りたい!」  黒ずくめの未亡人ルックは空港でも機内でもさぞ目立ったことだろう。アセニョーラが颯爽と搭乗し、機内で優雅にワインを飲むところを想像して、私はひとりにやけたものだった。

 アセニョーラの生活は2020年3月、新型コロナに対する第一次ロックダウンによってがらりと変わった。デイケアセンターでのグラシンダの仕事は続いたが、「感染防止のため」アセニョーラの出入りは禁止された。

 サラザール独裁政権下のポルトガルの山奥で最低限の教育しか受けておらず、子供のころから働きづめだったアセニョーラは、本を読む、音楽を聴くといった屋内でのひとりの楽しみ方を知らなかった。庭もないアパートに閉じ込められて、人に会うことを禁じられると、テレビを見ているしかなくなった。歩かなくなったせいで足腰が急激に弱っていった。 

 ロックダウン明けの初夏に訪ねていくと、アセニョーラは「どうしてこんなに長いあいだ来なかったの」と怒っていた。

「ウイルスが」は言い訳にならなかった。

「ウイルスで死ななくたって、ひとりで家にいるだけじゃ、生きてる意味ないじゃない」

 そのとおりだ。なにも反論できなかった。

「C荘の友達がご飯に来るのは我が家の伝統なんだからね」と言われて、「なにその短い伝統」と笑ったけれど、嬉しかった。

 ところが、伝統を守るべく、すぐにまた訪ねたとき、いつもの肘掛け椅子にアセニョーラの姿はなかった。足腰が弱ったせいで台所で転び、入院したら認知症の兆候が出て、車で30分離れた町の施設に入居したのだった。

 家族以外は面会もできないということで、私はある日勇気を出して施設に電話をした。対面でもほとんど言葉が通じないのだから、当然まともな会話にはならなかったが、しどろもどろの私に「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返す声は元気そうだった。

 グラシンダによれば「施設は明るくて居心地がいいし、ご飯は私の料理よりおいしいし、施設の人は私より親切だし、おしゃべり相手もいっぱいいるし、もうずっとあそこで暮らしたいんだって」とのことだった。なにしろ環境の変化に強いのだ。

 その後すぐの2020年夏、私たちはほぼ半年ぶりにベルリンに戻り、ポルトガルを再訪したのは12月初旬だった。ドイツではすでに2度目のロックダウンが始まっており、なにもしていないポルトガルでもリスボンはなんとなくピリピリしていたが、山奥の村は相変わらず、コロナ禍だと言われなければ気づかないくらいのほほんとしていた。

 クリスマスの少し前、グラシンダから「母があんたたちにどうしても会いたいって」と言われて、施設に面会に行った。

 「面会」は施設の中と外で、窓越しに行われた。施設の職員がアセニョーラの車椅子を押して窓まで来て、私たち面会者は窓の外に立ったまま。会話をするためにグラシンダがスマホで施設に電話をかけ、アセニョーラに受話器が渡された。一回の面会時間は15分。窓は閉まったままだというのに、マスクをしろと言われた。車でほんの30分の村との緊張感のあまりの違いに戸惑った。

 アセニョーラは赤いセーターを着ていた。豊かな銀髪も黒スカーフに隠されてはいなかった。車椅子に座っていたのにも驚いたが、なにより未亡人ルックでないアセニョーラを見るのは初めてで、意表を突かれた。

「C荘の友達だよ、憶えてる?」と声を張り上げて手をぶんぶん振ったが、アセニョーラは受話器を膝の上に置いたまま、いつものへの字口で、なにかをぶつぶつつぶやくばかりだった。受話器、受話器、と身振りでうながすと、そのうち受話器に向かって、「顔が隠れてて誰かわかんないよ」と文句を言い始めた。

 グラシンダが192センチの夫を指して「お母さん、こんなに背の高い人ほかに知らないでしょ」と言ったが、アセニョーラは「顔を見なきゃ誰かわからない」と譲らない。

 いつものアセニョーラだ。私は思わず笑ってマスクを外し、改めて手を振った。横を見ると夫も同時にマスクを外していた。

 私たちの顔を見てアセニョーラは納得したらしく、身振り手振りでなにか話し始めたが、再び受話器を下ろしてしまったのでなにも聞こえず、すべては不条理劇のパフォーマンスにしか見えなかった。

 それから1カ月後、2021年1月中旬にはポルトガルも再ロックダウンを始め、家族でない私たちは窓越しの面会さえできなくなった。

 飲食店がそろそろ再開しようかという2021年3月末、規制が緩んで、再びグラシンダとともに施設を訪ねた。

 車椅子に座ったアセニョーラは、ぎょっとするほど小さくなっていた。

 そして、私たちのことを憶えていなかった。

 私が窓越しに手を振っても、ぼんやりとした目を向けるばかりだった。認知症が進みつつあるとのことだった。

 帰り道、グラシンダに「ごめんね」と謝られた。

 オレンジの花が満開で、街じゅうに芳香が漂っていたのを憶えている。気持ちを落ち着けるためにカフェで一休みしようにも、店はどこも営業を禁じられていた。

 悲しさと悔しさで泣いたのは、私だけだった。グラシンダは「仕方ないじゃない」と繰り返すばかりだったが、私は、ロックダウンで閉じ込められていなければアセニョーラは今頃まだ元気だったはずだという思いが、どうしても拭えなかった。

 施設の雰囲気は温かかった。職員も皆親切で明るく、一所懸命アセニョーラの世話をしていた。家族も、友人も、皆が紛れもない善意から、アセニョーラの最善を願ってできる限りのことをしてきたのは間違いない。

 けれど、アセニョーラ自身の意思は最初から置き去りだった。なにが自分にとって最善か、残された人生の時間をどう生きたいのかを自分で決めることを、アセニョーラは許されなかった。

 アセニョーラの容態は、あっという間に悪化していった。そのうち娘や孫の顔もわからなくなり、それからベッドに寝たきりになり、やがて施設の介護士が声をかけても反応しなくなった。ひとことも話さず、うつろな目で天井を見上げるばかりになった。

「飛行機が雲を突き抜けるの!」と興奮気味に話していたあのときのアセニョーラの目も、天井を向いていた。ベッドのなかで、せめて飛行機から眺めた空を見ていたのだと思いたい。

村からの雄大な眺め。アパートでのロックダウン生活では、こんな景色も見られなかった

 政治は高齢者を守らねばならないと言った。メディアが追随し、多くの市民が従った。善意から。だが、守られたいのかと、本人たちに訊いた人はいたのだろうか。コロナにだけはかからないために、コロナでだけは死なないために、人間らしく「生きる」ことをやめて、守られたいのかと。意思と人生経験を持つ立派な大人である彼ら自身の声に、耳を傾けた人はいたのだろうか。

 あれからもうすぐ2年になる。

 1年ほど前から、ヨーロッパ全体でコロナ規制反対の民意が大きくなり、それに押されるように、どの国でも規制は終わっていった。ポルトガルでもコロナはとうに過去のことで、ロシアとウクライナの戦争や物価高騰などもっと切実な問題に押されて、日常生活ではもはや話題にも上らない。社会ではコロナ禍でのさまざまな規制を振り返り、総括が始まっている 。

 アセニョーラの施設でも、いまは通常の面会ができる。けれど、あの居心地のよさそうな部屋でソファに座って、アセニョーラと一緒にお茶を飲むことは、もうないだろう。

 やり場のない怒りと悲しみを抱えたまま、今回はここで筆をおく ――予定だった。

 ところが、我らがアセニョーラはそうはさせない。

 つい先日、グラシンダの家でいつものように夕食をご馳走になっていたときのことだ。習慣で「お母さんの様子はどう?」と訊いた。「相変わらずよ」という答えが返ってくると疑わず。

 ところが、私の問いにグラシンダははっと顔を上げて、「復活したのよ」と言ったのだ。

 なんとアセニョーラは、最近訪ねていった孫の夫(30)に向かって、突如「あんたハゲだね」と言ったのだそうだ。実に18カ月ぶりに口にしたこのひとことが、アセニョーラの華麗なる復活ののろしだった。

 グラシンダはスマホを取り出して、そのとき撮ったという写真を見せてくれた。そこには、椅子にしゃんと座って、どこか不満そうなへの字口のアセニョーラが写っていた。「あんたなにやってんの?」とでも言いたげにカメラをにらみつけるその目には、間違いなく生の光が宿っていた。色鮮やかなセーターを着た姿はいまだに見慣れないけれど、それは紛れもなく私の知っているアセニョーラで、未亡人ルックではないせいで、むしろ若返ってさえ見えた。

 それ以来、実弟に「私のかわいい弟」と呼びかけたり、介護士の質問に答えたりと、アセニョーラはみるみるうちに調子を上げつつある。

「施設の人もびっくりよ」とグラシンダは笑う。

「私が20年後にあの施設に入ったら、あの人まだいたりして」

 そのうち「C荘の友達」のことも思い出してくれるに違いない。時代に翻弄されながらも常に逞しくしたたかに生き抜いてきたアセニョーラに私のような若輩者が同情するなど、きっと百年早いのだ。