ポルトガルの人口10人の超限界集落に夫婦で引っ越した、ドイツ語翻訳者の浅井晶子さん。隣の家は山の向こう、共同ワイン造りに納豆も自作!? 南欧異文化スローライフをつづる、短期連載エッセイです。
第5回:愛と憎しみの自家製ワイン
2023年03月09日
ポルトガルはワインの国だ。ドイツやフランス、スペインのワインのような世界的な知名度はまだないとはいえ、大規模なワイン農家から個人の小さな畑まで国じゅうがワインを作り、ワインを飲む。
ここポルトガルの山奥に家を持つまで、ポルトガルワインと言われても、ポートワインのほかにはなんのイメージも持っていなかった。
ところが、我がC荘には代々の持ち主が丹精してきたブドウの木があった。庭と呼ぶには広大すぎる敷地は段々畑のようなテラス状になっていて、それぞれのテラスを古いブドウの木々が縁取っている。
近所に住むアントニオは、1970年代までC荘の所有者だった人の甥にあたる。若いころに叔父を手伝ってC荘で農作業をしてきた彼は、この土地にひとかたならぬ思い入れがあり、叔父夫婦亡きあとは都会に住むいとこたちに代わってC荘のブドウとオリーブの世話をしてきた。
さて、そこに現れたのがずぶの素人である私たち夫婦だ。日本の町で育った妻にとってワインは飲むものであって造るものではないし、夫のほうは農家の出身とはいえ、その農家はブドウなど育たない北ドイツにあった。
けれどC荘の土地にたくさんの果樹を植えて懸命に世話をする夫は、アントニオにそのやる気を見込まれ、手取り足取り教えてもらいながらブドウの世話にも取り組むことになった。
いっぽう私はといえば、我が家のブドウがなんという品種なのか、どれがドイツでなじんだ品種のどれに当たり、どれがポルトガル独自の品種なのか、何度説明されてもすぐに忘れてしまう始末である。当然、ブドウ栽培の詳細をここで披露できるほどの知識はない。
そんな私がワイン造りにかかわる唯一のときが、9月のブドウの収穫だ。
天気予報を見てアントニオが日取りを決め、一日はうちを含むいくつかの小規模なブドウ畑、翌日は一日かけてアントニオの広大な畑で収穫をする。固定メンバーである村の男3人に私たち夫婦などが加わり、毎年5-6人で取り組む。
うちのブドウもアントニオのブドウも、同じ時期に同じ世話を受けてきたはずなのに、アントニオのブドウのほうがはるかに立派なのには毎回感心する。
ブドウ収穫は重労働だ。夏の盛りは過ぎたとはいえまだまだ強烈な日差しのもと、ひたすらブドウを摘んでいくのは激しい仕事だし、おまけに休憩と称してしょっちゅうアントニオのワイン蔵でワインを飲むものだから、私ごときではとても体力が持たない。
昼ごはんにも要注意だ。一昨年は、一緒に収穫をしたマリアさんが大鍋いっぱいの「フェイジョアーダ」を作ってきてくれて、12時ごろに早めのお昼になった。フェイジョアーダとは豆、肉、ジャガイモ、野菜を煮込んだ料理なのだが、都会のレストランで出される上品バージョンとは違って、マリアさんの大鍋には豚の全てが入っていた。私の苦手な脂身などかわいいほうで、明らかに耳や爪先とわかる形の塊がごろごろ転がっていて、気が遠くなりかけた。
「嫌いだったら食べなくてもいいからね」と差し出された私の皿には糸こんにゃくに似た白くて長いなにかが入っていた。訊いてみると豚の腱だという。
皆の期待の目が注がれるなか、覚悟を決めてすすってみた腱は、特になんの味もない柔らかい物体で、拍子抜けした。
なんだかんだ言っても手作りフェイジョアーダの味は素晴らしく、耳や足を避けながらもがつがつ食べたものだから、当然のことながらワインも進んだ。午後、フェイジョアーダとワインの詰まった体での仕事が辛かったのは言うまでもない。
昨年はマリアさんが不参加だったため、午後3時過ぎまでぶっ通しで働いて、その後に炭火で肉を焼くといういつものスタイルに戻ってほっとした。
さて、収穫したブドウは、かつては足で踏んで実を潰したそうだが、現在ではアントニオが所有する機械に通す。すると茎が取り除かれ、潰れた実と果汁とがポンプで巨大な桶に移される。その瞬間からすでに発酵が始まり、果汁が泡立ち始める。
桶のなかで皮と果汁が分離され、翌日、アントニオが果汁だけを木の樽に移す。それからは一日数回かきまぜ、11月ごろ発酵が止まればワインの出来上がりだ。その年のブドウの収穫量によって、700から800リットルほど。
こうして手間暇かけて造ったワインだが、我が地方では商業販売はしていない。お洒落なボトルもレーベルもない。樽から直接コップ(ワイングラスにあらず)に注ぎ、持ち運ぶときはペットボトルに入れる。
長年暮らしたドイツの首都ベルリンでも、ワインはよく飲まれている。けれど、あくまで酒のひとつだ。一方ポルトガルの田舎では、ワインはほとんど水と同様、日常生活の一部として欠かせない存在である。
たとえば、ドイツでも日本でも、家を訪ねてきた人には「コーヒーでもどう?」と勧めるのが一般的だが、こちらではそれが「ワインでもどう?」になる。
どの家にも「アデガ」と呼ばれるワイン蔵がある。気温の変化が少ないので、ワインを造っていない家では食料保存庫として使われたり、最近では居室に改装されることもあるが、アデガは本来ワインを造り、保存する場所で、そこに自家製ワインの入った樽が置いてある。誰かが訪ねてくると、「じゃ、とりあえずアデガに行こうか」となる。
*
S村のアントニオのワインには、前述のとおり我がC荘のブドウも使われている。つまり、アントニオのワインは部分的にはうちのワインでもある、というわけで、私たちはたまにパンとチーズをもってアントニオのアデガを訪れる。
一昨年と昨年のワインは特に出来がよかった。アントニオは至極ご満悦で、アデガのランプの薄暗い光にコップをかざして、「きれいな色だろう?」とうっとりしている。実際、本当においしい。売り物でないのがもったいないくらいだ。
1,2年前のこと、「これ、ドイツのカフェで頼んだら1杯5ユーロはするよ」と言ったら、アントニオは目を丸くして驚いた後、えらく得意げになり
「今日はお前らふたり合わせて6杯飲んだから30ユーロだな」と計算して、ガハハと笑った。それ以来、誰に対しても「このワインは1杯5ユーロだぞ」と自慢している。
5ユーロは、円安のいまのレートだと700円くらい。我がC荘を購入した2014年には、5ユーロあれば地元の定食屋でスープから日替わりのメイン(肉か魚から選ぶ。ベジタリアンへの配慮はない)、デザートとコーヒーまですべて込みの昼食が食べられた。
なんとこの値段には、飲み物も含まれる。しかも驚いたことに、水やコーラを頼んでもワインを頼んでも値段は変わらない。ワインはひとり分が半リットルほどのカラフェになみなみと入れられて出てくる。店の自家製か近隣の農家のものか、いずれにせよ地元の手造りワインだ。
うちから車で15分のところにある人口2000人の小さな町には、レストランが8軒ほどある(カフェはもっと多い)。いずれも庶民的な定食屋で、メインの営業時間は平日昼、お客のほとんどは町とその周辺で働いている人たちだ。
ポルトガル人にとって昼食は聖なる時間。昼前には、挨拶の言葉も「さようなら」から「よい昼食を」に変わる。おおらかな時間感覚を持つ彼らだが、昼休みに入る時間だけは正確。最低でも1時間、たいていは2時間ほど、ゆっくりたっぷり食べる。昼食から戻る時間は正確とは限らない。
そんな聖なる昼食に、ワインは欠かせないお供だ。午後からの勤務があろうが、周辺の山や畑から軽トラを運転してきていようが関係ない。もしかしたら彼らにとってワインは酒ではないのかもしれない。とにかくみんな、なみなみとワインの入ったカラフェとともに悠然と食事を楽しんでいる。
そして、飲みきれなければ大胆に残す。日本の定食屋でただで出てくるお茶を気にせず残すような感覚だ。ワイン1杯に5ユーロ払う国で暮らしていた私は、当初カラフェに豪快に残されたワインを見て「もったいない!」と息を呑んだものだった。
コロナ禍からこちら物価がぐんぐん上がり、いまや昼の定食は9ユーロ。それでもワインがなみなみと出される点は変わらない。
*
カフェでワインを注文したときにも、カルチャーショックを受けた。
うちから一番近いカフェは、3キロ先の村にある。カフェといっても決して都会にあるようなお洒落な店ではなく、どちらかといえば日本の地方の、昭和から続く食堂に似ている。ビニール製の机と椅子が置いてあり、食べ物は袋入りのスナック菓子くらい。たまに奧さんのイサベラが自家製のヤギチーズを作ると、それを豪快に切ったものがパンにどかんと載せられて供されることがある。
カフェの隣は雑貨店になっていて、牛乳から靴にいたるまで、日常生活に必要なものがすべて揃う。さらに、薪ストーブ用の薪や畑の肥料、コンロ用のガスボンベなども、地元民はこの店で調達する。イサベラの飼っている鶏が産んだ新鮮な卵も安値で買える。
朝早くから夜遅くまで、おそらく1年365日開いているカフェには、常に近隣の住民たちが集まって、ビールやコーヒーを飲んでいる。
だが、店でワインを飲んでいる客は見たことがなく、不思議に思っていた。なにしろご主人のマヌエルだって広大なブドウ畑を持っていて、ブドウの栽培やその年のワインの出来についてよく客たちと話しているのだから。
あるときマヌエルに「なに飲む?」と訊かれて、私は「ワインを」と言ってみた。すると、こちらが驚くほど驚かれた。
「……ワイン飲みたいの?」
「うん。ご主人の造ったやつ」
そう言うと、マヌエルは不可解そうな顔のまま、カウンターの下から5リットル入りのペットボトルを取り出し、コップになみなみと注いでくれた。
ところが、帰りに支払いをしようとしたら、マヌエルは再度驚いて首を振った。
「ワインで金は取れない」と言うのだ。
そう、彼の手造りワインは売り物ではなかったのだ。カウンターの後ろの棚にはポルトガルの各地方産のお洒落なワインボトルがたくさん置いてある。お金を払って飲むのは、それらのワインなのだろう(だがもちろん誰も注文しない)。
地元の自家製ワインには、当然、防腐剤など一切入っていない。そのためか、どれだけ飲んでも一度も悪酔いしたことがない。頭痛も胃のむかつきもなく、ゆったり味わい、気持ちよく酔って、翌日にはすっきり抜けている。
上質の手造りワインが生活のなかに自然に溶け込んでいるなんて、なんという贅沢——もともとワインが好きな私は、無邪気にそう思っていた。
*
けれど、光のあるところには影もある。ワインとともにある生活は、決していいことずくめではない。
グラシンダとアントニオがまだ夫婦だったころ、グラシンダは決してアデガには一緒に来なかった。ときどき3人の子供たちの誰かが帰省していることもあったが、彼らもアデガにはやってこなかった。食事のお供にとカラフェに入れてキッチンに持ち帰ったワインにも、アントニオと私たち以外は誰も口をつけなかった。
一度、末娘のフェルナンダに「飲まないの?」と訊いたことがある。
「私たちはワインは飲まない」という答えが返ってきた。
けれど彼らが飲まないのはワインだけで、ビールやカクテルは普通に飲んでいる。
グラシンダとアントニオが別れた後にようやく知ったのは、アントニオがワインを愛するあまり家族をないがしろにしてきたことだった。私たちの前では酔ったことも暴れたこともない、ワインと畑への情熱と愛情に溢れたアントニオだが、家族の前で見せる顔は違ったのだ。
グラシンダと子供たちだけではない。村の女たちの多くがワインを飲まない。村の歴史には、飲酒運転で亡くなった人、飲酒がもとで壊れた家庭、酒を飲む男たちに虐げられてきた女たちの話が数多くある。
生活に深く根差しているからこそ、ワインには人の愛も憎しみも恨みもこもっている。
電気も水道もなく、自給自足に近い貧しい生活をしていたかつての村は、いまよりずっと明確な男性社会だった。聞いた話では、昔はアデガは男の場所で、女は足を踏み入れない不文律があったという。
「俺たちの妻が後家になりませんように」
村の男たちが誰かのアデガに集まってコップを合わせるときの音頭だ。
ワインをたらふく飲みながら、妻より長生きする気満々なのだから厚かましい。だが最近では、そんな夫に愛想をつかして去る妻も多い。夫がいなければ後家にもなりようがないから、ある意味男たちの願いどおりだ。
残された夫たちは、ますますワインと男の友情にのめり込む。そんな男たちの末路は哀れかというと、そうとも言えない。アントニオなどは、離婚して以来、目に見えて若返り、生き生きし始めてしまった。
私は女だけれど、村の人たちの造るワインが好きだから飲む。けれど、それで「名誉男性」にはならないようにと、自分に言い聞かせている。
(つづく)
プロフィール
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浅井 晶子 (あさい・しょうこ)
1973年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。2003年マックス・ダウテンダイ翻訳賞受賞。2021年ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』(白水社)で日本翻訳家協会賞翻訳特別賞を受賞。そのほか訳書にパスカル・メルシエ『リスボンへの夜行列車』、イリヤ・トロヤノフ『世界収集家』(以上早川書房)、トーマス・マン『トニオ・クレーガー』(光文社古典新訳文庫)、エマヌエル・ベルクマン『トリック』、ローベルト・ゼーターラー『ある一生』(以上新潮クレスト・ブックス)、ユーディト・W・タシュラー『国語教師』『誕生日パーティー』(以上集英社)など多数。
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