内容紹介
まさに人間の時代である人新世は、進歩と壊滅の両方の可能性を内包している。
太古からつい最近まで人類は男性優位の原則という人類学的普遍性のもとに生きていた。だが19世紀末以降、資本主義の経済的・社会的力学によって女性たちは家事労働に長時間を費やす暮らしから少しずつ解放され、自由な時間を持てるようになっていく。工業化に少し遅れて公衆衛生と医学の進歩が進み、乳児死亡率を大きく低下させ、子孫を残すために多くの子供を産まなければならない状態からも女性を解放した。
人新世の始まりとともに人間社会が経験した幾つかの現象は、女性の地位にとって決定的なものであったと考えられる。どの現象も女性解放の単一の原因とみなすことはできないが、いすれもその成立条件である。人新世に基づく一連の現象がなければ、女性解放の時代である〈女新世〉は訪れていない。
しかしながら技術と医学の進歩をもたらした人新世は、〈女新世〉を可能にしつつある一方で、地球を蝕ばみ人類を苦しめる原因にもなっている。環境汚染や気候変動をもたらし、経済的不平等や格差を生んだ。それらは悪化し続けており、悲観的な見解のほうが、楽観的なそれよりも合理的にみえる。
西洋社会に暮らす人々は便利な生活に慣れていて、自身を取り巻く物質的環境を当たり前のものと思いがちだ。しかし、〈女新世〉を可能にした諸条件を忘却することは危険である。それは長い人類の歴史からみれば、つい最近になって生じたものにすぎないからだ。
フェミニストであるということは、フェミニズムを可能にした諸条件を維持しようとすることである。平和な社会関係を保つこともそれに含まれる。女性の自由の維持に欠かせない諸条件を悪化させないこと。これこそが今のフェミニズムの中心的課題であるべきではないだろうか。
人新世の解放的側面と破壊的側面の歴史的・論理的な絡み合いは、善と悪、進歩とリスク、自由と隷属が表裏一体となった人間存在の悲劇へと私たちを立ち返らせる。
女性解放と環境危機、人新世における2つの主要な指標をもとに、フランス気鋭の研究者が新しいフェミニズムを探究する。
(Féminicène by Véra Nikolski)
「人類学に根ざした実証的な見地から書かれたこの重要な著作は、フランスだけでなく、日本の読者にとっても間違いなく示唆に富む視座を与えてくれるだろう」——エマニュエル・トッド氏
プロフィール
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ヴェラ・ニコルスキ (Véra Nikolski)
政治学博士。旧ソ連の科学者一家に生まれ、1991年に家族とともにフランスに移住。エコール・ノルマル・シュペリウール(パリ高等師範学校)を卒業し、社会科学のDEA(修士号に相当)および政治学の博士号を取得。
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橘 明美 (たちばな・あけみ)
仏語・英語翻訳家。お茶の水女子大学文教育学部卒業。訳書にローラン・ビネ『文明交錯』、エディス・ウィダー『深海の闇の奥へ』、ポール・モーランド『人口は未来を語る』、スティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』、ミチコ・カクタニ『エクス・リブリス』、イザベル・オティシエ『孤島の祈り』、ピエール・ルメートル『邪悪なる大蛇』(共訳)『その女アレックス』シリーズほか多数。
書評
人新世の破局に備えるフェミニズム
福島 勲
「人新世」という時代区分が提唱されてから随分経つ。時に「男新世」だと揶揄されもするこの概念をめぐって、本書は大胆な発想の転換を試みる。たしかに、その不十分さは明白だし、また、社会階層や国・地域によっても大きなばらつきが見られるけれど、人類史的に言えば、現代は女性解放が最も進み、男女平等が最も実現した「人類学的革命」の時代、すなわち「女新世」だと本書は宣言する。そこには、エマニュエル・トッドの統計学的な視点が活かされている。
その上で、この「女新世」を砂上の楼閣にしてはいけない、と著者は警告する。危惧されているのは、男性たちの復讐ではなく、現在のフェミニズムの方向性である。果たして、女性解放はイデオロギー的な「闘争」と「要求」によって実現したのか。いやむしろ、人類が種としてサヴァイヴする過程で改良してきた物質的な生活条件(インフラ)が整備されて初めて、女性たちは解放を手にしたのではなかったかと、著者はフェミニズムの「足もと」の再確認を呼びかける。
本書が強調するのは、性やジェンダーの意識革命という上部構造を下支えしている、出産・育児をめぐる医療・保健環境や産業技術の進歩といった下部構造の重要性である。他方、危惧されているのは、この下部構造を当たり前のものとして等閑視し、過度な理論化に力を注ぐ一部の仏フェミニズムに見られる方向性である。いくら理論を前衛的にしても、エネルギー資源や医療資源の枯渇といった地球規模の破局によって下部構造が機能しなくなったら、「女新世」はいともたやすく崩壊し、世界は女性解放以前の時代に、体力(最悪なのは暴力)を第一原理とする世界に逆戻りしてしまう。こうした現実的な危機意識が本書にはある。
地球温暖化やコロナ禍を経験し、ウクライナ、イランでの大国による資源戦争を目の当たりにしている私たちにとって、地球規模の破局に備えることは、もはやSFではない。その意味で、本書が呼びかけるフェミニズムの発想の転換は、人新世時代のあらゆるイデオロギー闘争のゆくえを考える上で、その闘争の根本的な意味に立ち返らせてくれるという点で、とても刺激的だった。
●早稲田大学教授
「青春と読書」2026年6月号転載
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