インタビュー

赤坂憲雄

赤坂憲雄「宮崎駿の中心にある、世界を考えるための「問い」」

対談

赤坂憲雄×三浦しをん

赤坂憲雄×三浦しをん「豊かな読みの世界への誘い」

書評

王国を築く者、そこから逃れ出る者

石橋直樹

 宮﨑駿監督作『君たちはどう生きるか』のエンドロールが流れはじめたとき、スクリーンはもはや色だけを残して漸々曇りゆき、わたしは、ただ目も開けられぬほど涙を湛えていたことを思い出す。主人公・眞人の大伯父が地下に築き上げた理想世界が廃墟と化し、ガラガラと崩れていく音とともに、頰を大粒の水滴がつたっていくのを感じていた。「眞人 わたしの仕事を継いでくれぬか」「この世界が美しい世界になるかみにくい世界になるかはすべて君にかかるんだ」。そうどうしようもなく託されてしまったにも拘わらず、もはや揺籃たる塔に安住することを許されてはいない。大伯父の塔のなかに作られた信念の世界から放逐されて、一体なにができるというのだろうか。わたしは、大伯父という存在に強く取り憑かれてしまっていた。
 しかし、本書『宮﨑駿の詩学』において著者は一貫して、大伯父のような存在に厳しい評価を下していることは、極めて重要なことだろう。大伯父からのメッセージを受けた眞人の心情を代弁して、次のように語っている。「僕はその廃墟のなかをささやかな命を抱いて、大切な人たちと繫がりながら生きていきます」。大伯父の面影は、漫画版『風の谷のナウシカ』ではヴ王、『天空の城ラピュタ』ではムスカ、『風立ちぬ』ではカプローニとして、その濃度を変えながら繰り返し現れる。父性を体現し、王国を構築することに取り憑かれてしまった人々の面貌が幾度も見出されるのだ。本書では、こうした存在から逃れ出ていくことに、宮﨑駿作品の重要なテーマが発見されていく。
『宮﨑駿の詩学』とは、まさに何かに取り憑かれてしまった者たちから逃れ出るようにして宮﨑駿の作品世界を読み込むものであった。「宮﨑駿はおそらく、世界をある静止した構造として描くよりも、移ろい揺れる現象として描こうとした作家である」。作品世界が、絶えず揺れ動き、有機的に繫がっていく様相を捉えようとする営みであったといってよい。ガストン・バシュラールの「詩学」から着想が得られた本書は、地、水、火、風、空という諸相から宮﨑世界を横断的に、有機的な連関をもって再構築していく。それは、二〇一九年に刊行された『ナウシカ考』の終章「宮崎駿の詩学へ」から発展した問題意識といわなければならない。そこでは宮﨑世界は、「無数の声や意志が交わる対話の場が次々に生まれながら、それが大きな世界という謎の解明に向けて結衆し、やがて巨大な事件と化していずこへとも知れず転がってゆく」物語として発見されていた。ここで、無数の声たちの対話から物質の詩学として再発見されているのである。したがってそもそも、大伯父の目論むような透徹した構築的世界は、著者の発見する宮﨑駿からは全く程遠いものであったということができるだろう。
 宮﨑駿の詩学は、アニメーションにおける「地面」のあり方をめぐって極限的に展開されていく。「作品には、キャラクターたちが立っていられる地面が必要なんです。作品世界の地面というのは、これから先はうそはつかないという境界線のことなんです」という宮﨑監督自身の言葉からわかるように、スタジオジブリが手掛ける作品はとりわけ「地面」へのこだわりを強く持っていた。特にそれは、空を飛ぶということの描き方において問題となってくる。鳥の羽のような物体を媒介として、はじめて透明な空気は動きとして描かれるのであり、鳥の羽なしには空気をそもそもアニメーションに載せることすら叶わない。つまり、風の動きや空の空気は、それ自体ではアニメーションで描くことはできないために、風や空気は、押し、また押し返されるものとしての透明な「地面」として描かれなければならなかったのである。「宮﨑駿的にいえば、天空の飛翔を可能とする『地面』をいかに画定することができるか、という深刻な問いそのものとならざるをえない」。
 宮﨑駿の詩学は、この透明な「地面」との格闘であったともいうことができる。鳥形飛行機であるオーニソプターへのうまくはいかぬ憧憬に代わって、『天空の城ラピュタ』におけるパズー、『魔女の宅急便』のトンボ、『風立ちぬ』の堀越二郎へと、空飛ぶ夢を技術的に実現しようとする少年たちが繰り返し刻印されている。しかしそれから、「俺、あきたんだよ。地面なんかなくてもいいんだよ、別のところに何か作ればさ、どう、誰かやってみない」という宮﨑駿の言葉が発せられると、「地面」の思考が新たな段階に入っていく。『君たちはどう生きるか』において、この透明な「地面」は蹴破られることになるのだ。つまり、空から降ってきた大伯父の塔は地面に突き刺さって、「下の世界」を現出せしめたのである。このように、宮﨑駿作品内部に透徹する詩学を明らかにするのが本書である。それは、『ナウシカ考』から宮﨑作品に向き合い続けた赤坂憲雄先生にこそ可能な歩行だろう。
 それにしても、大伯父のような存在に厳しい評価を下す赤坂先生と、そこに強く惹かれてしまうわたしのような人間との違いは、果たしてどこにあるのか。大伯父という人物像への読みに大きな違いはなかった。虚無の王国に取り憑かれてしまった人間に対して、ただ全く正反対に、評価が分かれたのである。重要なことは、大伯父が体現する父性もまた、宮﨑駿という創造性の一つの似姿であるということだ。虚無の王国に取り憑かれる父性と、そこから逃れ去る詩学、それらは宮﨑駿作品のなかで力強く褶曲している。まさに、この構築される王国とそこから逃れ出る者の力動において、宮﨑駿作品の火や水や風は、絶えず生成流転を続けているのである。

「すばる」2026年9月号転載