上田岳弘さんの最新作『ノー・ファンタジー』には、正しく整えられていく時代の中で、ファンタジーや共感、リスク、毒、物語を求めずにはいられない人々の姿が描かれています。現実を直視することを求められる者たちが行き着く、現実だけでは生きられないという事実。では、現代を生きる私たちにとって、フィクションや想像力はどのように位置づけられるのか。
 今回は、映像、広告、デザインの領域で世界的に活躍し、上田さんの作品に関心を寄せてこられたクリエイティブディレクターの川村真司さんをお迎えしました。異なる領域で創作を続けるお二人に、互いの作品から受ける刺激、フィクションや想像力の役割、そしてこれからの創作について語り合っていただきます。

構成/タカザワケンジ 撮影/下城英悟

出会いは『太陽・惑星』から

──お二人の出会いから教えてください。

川村 僕は今「Whatever」というクリエイティブスタジオを立ち上げて活動しているのですが、その共同創業者であり経営パートナーの富永(勇亮)が、以前、テック系のイベントで上田さんとご一緒させていただいたんです。

上田  年の2月に名古屋で開催された「TechGALA(テックガラ)」でしたね。

川村 それですそれです。イベントが終わった後、富永から「この前、上田さんっていう、ものすごく頭のいい、面白い小説家に会ったんだよ」と報告されまして。僕はそれを聞いて「えっ、上田さんって、あの『太陽・惑星』を書かれた、作家の上田岳弘さん!?」と驚いて。「そうそう」と彼が言うので、「大先生だよ! 俺がそのイベントに出たかった!」と。上田さんのデビュー作である『太陽・惑星』の頃から、本当に勝手ながら一方的に作品を読ませていただいていて、大ファンだったんです。
 それで、「ぜひ僕も一度お会いしたい」と富永経由で上田さんにお伝えして、その後、実際にお会いすることができました。

──実際にお会いして、すぐに意気投合されたんですか。

川村 すごく盛り上がりました。上田さんって、本当に頭の回転がキレキレじゃないですか。こちらが何を話してもすごい精度で返してくださるので話題が尽きず、とても刺激的でした。

上田 あっという間に時間が過ぎた、楽しい会でした。中華とフレンチを行ったり来たりするお店でしたね。

川村 もともとは「小説家」というイメージを持ってお会いしたのですが、実際にお話ししてみると、既存の小説家像に収まらない活動を沢山されている。ITスタートアップ企業の役員をやられていたり、テクノロジーやビジネスの構造に精通されていたり。「一体この人は何者なんだろう?」という興味が膨れ上がり続けて、いまに至るという感じです。

上田 いや、それは僕にとってもまったく同じ印象ですよ。「川村真司という人間は、一体何者なんだ」という。
 話は僕のデビュー作の『太陽・惑星』の単行本が出た時に遡りますが、初めて本を出した著者というのは、どうしても世の中の反応が気になるものなんです。「誰か読んでくれた人はいるかな」と、当時のTwitter(現X)で検索したら、川村さんの投稿が出てきました。どういう活動をされている方なのか気になってプロフィールを拝見しました。
 すると、数々の素晴らしいミュージックビデオを手がけられていたり、『ピタゴラスイッチ』のような、子供から大人まで馴染みのあるテレビ番組のコンテンツ制作に深く関わっているクリエイターだとわかった。
 すごい方なんだと思いつつ、そんな方に自分のデビュー作を「面白い」と書いていただけたことが、本当に嬉しかった。それで川村さんの名前を記憶に留めていたんです。

川村 そうだったんですね。そんなふうに思っていただけていたなんて光栄です。

上田 Whateverの富永さんとテックイベントでご一緒することになった時も、登壇前に一応、どんな方か情報を調べるじゃないですか。Whateverを検索したら、そこに川村さんの名前があった。「これはご縁だな」と思いました。

川村 そうだったんですね。『太陽・惑星』が出たのはいつでしたっけ? 10年くらい前ですか?

上田 2014年だから12年前ですね。

川村 初めてお会いできたのが去年だったから、11年越しの出逢いでしたね。

──縁といえば、お二人とも1979年生まれですよね。

川村 そうなんです。それもこの前の上田さんとの食事会で盛り上がったトピックでした。1979年生まれって、尖った感性のやばい奴らがたくさんいるぞっていう話になって(笑)。「79年生まれの会」を開いて、集まらないと、なんていう話をしました。

上田 ただ、この世代を一堂に集めると、個性が強すぎてケンカになりそうな気もするんですよね(笑)。

川村 それは大いにあり得ますね(笑)。でも、たまたまこうして同い年で、お互いの作品をリスペクトし合えていることには、やはり特別なご縁を感じます。

上田 僕は一時期、andropというバンドがものすごくヘビーローテーションしている時期がありまして。

川村 僕がMVをいくつも作らせていただいたバンドですね!

上田 「World.Words.Lights.」とか、川村さんの名前を意識せずに観ていました。

川村 けっこう前の作品ですが、嬉しいです。僕が前の会社(PARTY)をやっていた頃なので、もう14、5年は経っているんじゃないでしょうか。

上田 もうそれくらい経つんですね。とにかくセンスが良くて、いつかこういう映像を作っている人と話せたらな、と思っていました。他にも安室奈美恵さんの「Golden Touch」とかおすすめのMVがたくさんあります。

川村 光栄です。お互いに直接会う前から、遠いところで作品を通じて思い合っていたわけですね。

上田 ただ、僕としては、そういういつかお話ししたい人や会いたい人に対して、すぐにアプローチするのではなく、「いつか自然に出会う時が来るのを待つべきなんだろうな」と思っていたところもあります。

川村 あ、それ、よく分かります。物事が熟して、果実が自然と手のひらの上に落ちてくるようなタイミングで出会う方が、意味があるという感じでしょうか。その方が運命を感じるというか。

上田 そうなんです。その方が、いざ出会った瞬間に通じ合えるような気がして。山の何合目かわからないけれど、これまで別のルートで登って来て、そっちはどうだった、こっちはどうだった、みたいな話ができた方が楽しい。ただ、いつか会いたいなと思っていた方が他界された経験があって。その方が僕の作品を読んでくれているってのは人から教えてもらっていたんですが、出会いを待つことと会いに行くことのバランスって、本当に難しいなと感じます。

川村 そうですね……。それも含めて運命の一部なのかもしれない。僕自身はどちらかというと、会いたいと思う人がいたら、自分から会いに行ってしまうタイプなんです。特に、お年を召されている巨匠や、今すごく勢いのあるアーティストなんかは、「この瞬間に話を聞いておかないと」という、ある種の危機感を感じちゃったりするんですよね。
 その人自身がまとっているオーラや、仕事に対する考え方や振るまいみたいなものって、旬な時に生で対峙しないと得られないインスピレーションがあるじゃないですか。

上田 その通りですね。

川村 それを知りたくて、こちらから会いに行くんですが、でもやっぱり、上田さんのおっしゃることも痛いほど分かります。お互いがそれぞれの領域で泳ぎ続けていて、「あれ、こんなところで交わるんだ」という瞬間のドラマチックな感動。
 上田さんの小説にもそういうところがありますよね。今回の『ノー・ファンタジー』もそうですけど、登場人物たちの巡り合わせがドラマの重要な要素になっている。ワクワクしました。物語だけでなく、リアルな人生でもそういう瞬間は胸が高鳴りますよね。

上田 同世代なら、お互いに生きていればいずれ出会うはず、みたいな謎の信頼感がありますね。逆に年かさの方に対しては、川村さんのように、こちらから積極的に動いて行った方がいいのかもしれません。

川村 出会えなかった時は、「そういう宿命だったんだ」と自分を納得させ、出会えたら、「せっかくのこの繋がりを生かさないと」という、前向きなプレッシャーや心地よい緊張感が生まれるということかもしれません。

『ノー・ファンタジー』の日常と飛躍

――上田さんの『ノー・ファンタジー』を読んでどう思われたのか、川村さんの感想をお願いします。

川村 本当に素晴らしかったです。タイトル作から始まって、最後に「ソー・ファンタジー」という短編で、「ノー・ファンタジー」と正反対の意味に反転して締める。短編集ですが、全体の構造が素晴らしいと思いました。短編の一つひとつが、日常の些細な亀裂から始まって、読者をじわじわと奇妙な場所へ連れて行く。その構成の美しさに感動しました。
『太陽・惑星』に代表される上田さんの「時空が飛ぶ」系の小説ではないですが、その代わりに「価値観がぶっ飛ぶ」というか。各話ともに、そことここが出会っちゃうんだ、という驚きがありましたね。それもそれぞれ違うやり方で描かれていて、一話ずつ面白く読み進めたのですが、僕はちょっと共感性羞恥症気味なところがあるので、各話とも「うわー!」とむずむずさせられるところがあって。

上田 共感性羞恥はどの辺ですか。

川村 それこそ恥ずかしいからあんまり言いたくないのですが(笑)。人間関係の気まずさとか、男女のやりとりとかですかね。恥ずかしいと感じる部分に引っかかってくるって、すごくリアリティがあるってことですよね。

上田 実は作家活動も10年を迎えたあたりから、小説を書くうえで、恥ずかしがらないということを自分に課してるんです。ちょっとこれは恥ずかしいなと思っても、良いと思ったら書く。どう思われようが知らんって割り切って(笑)。

川村 そうなんですね。まっすぐそこを突いてくるなあ、と。最初の「ノー・ファンタジー」と最後の「ソー・ファンタジー」はとくにそう感じました。

上田 気に入ってもらえた短編はありましたか?

川村 一番好きなのは「マンサ・ムーサ」ですね。主人公はFXトレーダーで淡々とルーティンだけをこなす毎日を送っていて、最初は「こんなやつ、本当にいるのか」と思ったんですけど、だんだんと「いるな」と思えてきて。

上田 たぶんいるんですよね、実際に。

川村 そうなんですよね。で、「こんなリアリティをもってこんな絶妙な人物を描ける上田さんはずるい。悔しい」みたいな気持ちになりました。別に悔しくなる必要なんてないのに(笑)。イーロン・マスクに抜かれるまで人類史上最大の富豪だった14世紀のマリ帝国の王様が出てくることにもやられました。「マンサ・ムーサ」が『ノー・ファンタジー』の短編の中で一番好きと感じたのは、僕の好きなSF要素を感じたからかもしれません。現代のイーロン・マスク、ビットコインから、700年前のマリ帝国の王様に話が飛ぶ。そういう飛躍が僕にはビリビリ来ました。

上田 ありがとうございます。

川村 上田さんの小説には日常と宇宙や歴史が突然予期せぬタイミングで出会うようなところがあって、そこに読者としてはズドンとやられるというか、ロマンを感じてしまうんです。
 日常と地続きで壮大な宇宙や歴史が潜んでいる。気付いてないだけなんだ、と思わせてくれる。生きるうえで、想像力さえあれば日常に潜んでいるいろいろなものが見えてきて、それ自体がドラマチックで、面白いんだぞ、と教えてくれる気がするんです。

上田
上田岳弘さん

溜まりに溜まったマグマが噴き出す時

上田 話は戻りますけど、川村さんが僕の本を最初に手に取ってくださったのが不思議なんです。なぜ、数ある本の中から僕の本を手に取ってくれたのか。当然、世の中に出る小説を網羅的に読んでいるわけではないですよね。

川村 全然です。僕はどちらかというとビジュアル人間なので、活字よりも、漫画や映像を観る方がやっぱり多いんです。自分の仕事自体も映像やデザインですしね。だから、小説などの活字を日常的に読んでいるわけではないんです。
 ただ、その中でもSF系の小説や本に対しては食指が動きやすいですね。僕が普段やっているクリエイティブの仕事、例えば、テクノロジーを使って、まだ誰も見たことのない未来のデモンストレーションをするとか、コンセプトのプロトタイプを作って提示するといった仕事に、SFが描く空想や思考実験が刺激を与えてくれるんです。独自のルールや物理法則の下で成立している、もう一つの世界をのぞいたような気がして。
 小説家で言えば、円城塔さんの論理的なSFも好きですし、少し気配は違いますが伊藤計劃さんの描くディストピア、あるいは宮内悠介さんなど、ある種の知的な飛躍力を持つ作品の系譜が大好きですね。
 上田さんの『太陽・惑星』も、単行本が出て、本当にすぐのタイミングで、本屋さんで手に取らせていただいた記憶があります。パラパラと最初の数ページをめくってみただけで「やばいな、この人」みたいな直感が働いて、その場で購入しました。読んでみて、「また一人、とんでもない小説家が現れたぞ」と衝撃を受けたんです。日常の何でもない些細なディテールから始まっているのに、次の瞬間には超宇宙的なスケールに飛躍している。「ここまでぶっ飛ぶんだ!」というクラクラするような驚きがありました。

上田 なるほど。作家には、デビューまで時間がかかるタイプと、初めて書いた小説でさっと受賞してしまうタイプがいるんですが、僕はどちらかと言えば前者の方。もちろんもっとご苦労なさっている人はいくらでもいらっしゃると思いますが、応募を始めてから、足かけ10年くらいかかってデビューしたんです。

川村 そうだったんですね。そうはまったく見えないですね。

上田 そうなんですよね。なぜか苦労してるように見られないっていう(笑)。

川村 たぶん、良い意味で、何事もすべて計算ずくだという雰囲気が漂っているからなんじゃないでしょうか。文体もそうだし、作家としてのキャラも。

上田 デビューまでのフラストレーションやら、何やらが溜まりに溜まっていたと思うんですが、なぜか労われづらいという。

川村 自分の中で煮えたぎっていたものがあったんですね。

上田 それで、「デビューとか知るか」「書きたいものを書くんじゃ」、とわりきって書いたのが「太陽」でした。だから、ああいう作品になったんでしょうね。

川村 なるほど、その溜まりに溜まったぐちゃまぜのマグマが噴き出したような感覚が、『太陽・惑星』の熱量になっていたんでしょうね。

上田 フラストレーションといえば、川村さんのような第一線で活躍されているクリエイターの方でも、自分の思い通りに表現できない時期があったんでしょうか。

川村 あります、あります。僕らのようなデザイナーや映像ディレクターという職業は、仕事の割合的にはコミッションワークがほとんどです。クライアントから依頼されてデザインをしたり映像表現をするので、最終的な決定権は自分たちにはない。当然ながら様々な制約があって、結果としては正しいものが作れたとしても、本当に作りたいと思った状態のものが作れないケースの方が多いんです。そうした時に生じるストレスは、どうしても蓄積していきます。だからこそ、僕はコミッションワークではないもの、つまり、自分の作品を自主制作することでバランスを取っています。
 僕自身、ものづくりをすること自体を「仕事」だとはあまり思っていないのかもしれません。とにかく作ることが好きだし、自分にはそれしか能がない。ものを作ることでしか自分の価値を証明できない、というある種の強迫観念のようなものすらあります。自分のレゾンデートル、つまり存在理由を世の中に示すために、クライアントの都合や予算に左右されず、自分が本当に「これは新しい、これは面白い」と信じられるものを世に問いたい。それが僕のガス抜きであり、マグマを噴出させる場所なんです。
 ただ、これをあんまり言うと会社から怒られちゃうんですが、クライアント仕事でもこれはゼロバジェットなんだけど「どうしても作りたい!」と思ってしまったら作っちゃう、みたいなこともあります。

上田 ゼロバジェットってどういうことなんですか? 予算ゼロ?

川村 そうですね。「予算はないけど、お願いできませんか!?」と頼まれることがあって。

上田 それはミュージックビデオとかですか?

川村 はい。そもそもミュージックビデオって予算が少ないものなのですが、僕がキャリアの始めの頃に作っていたミュージックビデオは友だちのバンドから頼まれたものだったんで、当然予算がなくって。SOURという高校の同級生がやっているバンドで、バンド名を一緒に考えるような関係で、はじめはCDジャケットのデザインを手伝ったりしてました。
 そのうちそれが発展していってミュージックビデオを作れないかという話が出た時、自分は当時広告代理店にいてそっちの仕事で稼いでいたので、「いいよ。自前でできる範囲で考えるわ」と気軽に引き受けちゃったんです。それが「半月」という曲のミュージックビデオで、影絵を使った演出がYouTubeで話題になりました。その成功がきっかけとなり、そこから何本も彼らのためにミュージックビデオを作っていくのですが、中でも「日々の音色」や「映し鏡」といった作品は世界でも話題となり、海外の広告賞などもたくさんいただくことができました。結果として、その自主プロジェクトが入り口となって僕個人に大きな広告の仕事が入ってくるようになっていったんです。SOURのプロジェクト自体はほぼ無償でしたが、それが巡り巡って自分のキャリアやビジネスを支える大きなジャンプ台になりました。

上田 「日々の音色」は、世界中の人々がWebカメラの前でポーズを取り、それが幾何学的なパターンを構成していく斬新な演出でしたけど、あれもゼロバジェットだったんですか。

川村 そうなんです。当時、僕はニューヨークに住み始めたばかりで、予算がないからスタジオも借りられないし、高価なカメラも使えない。だったら、世界中の人たちに協力してもらって、それぞれのパソコンについたWebカメラで撮影した映像を集めたらどうだろうと考えたんです。それなら実質タダで制作できる。それを出発点に、グリッド状に並べたWebカメラの映像が連動し、本来は繋がれない人同士が繋がれるという表現にたどり着いたんです。

人間にはファンタジーが必要だ

上田 川村さんは「日々の音色」で、誰もが気軽に使っているWebカメラとオンラインミーティングのアプリを使って、びっくりするような表現をされていましたが、僕も日常から何かが生み出せないかということをよく考えるんです。
 僕はこれまで、『旅のない』『関係のないこと』という二つの短編集を出してきましたが、『ノー・ファンタジー』は、それに続く、「リアリズム小説」あるいは「ない(ノー)」三部作の集大成という位置づけです。
 SF的な壮大なヴィジョンを思い描く時、どうしても、もう一方にある僕たちの日常生活のディテールを書きたくなってしまうところがあって、その流れの中で書いた短編小説集です。

川村 自分に引き寄せて考えてみると、こっちをやると、あっちをやりたくなるみたいな、バランス感覚なんでしょうか。

上田 こっちを書かないと、おそらく、あっちも書けない、ということなのかもしれないですね。足元にある世界の解像度を上げておかないと、遠くのことを書く時にブレてしまうみたいなことでしょうか。

川村 わかるような気がします。

上田 僕は川村さんの作品を拝見して、前提を一度なかったことにして考えているんじゃないか、という風に感じるんです。普通はこの分野の作品はこういうものが求められているとか、このタイプの動画はこういうとり方が映えるみたいな、前提というか定石があると思うんですけど、川村さんはそれを一回キャンセルして、原点に戻ろうみたいな感じで考えているのかなと。

川村 そういうところはありますね。要素還元というか、そもそもの構造まで戻って考えて、今まであったものとは別の道を見つけたり、常識を一回捨てて新しい表現を考えるみたいなことがすごく好きですね。それに関しては上田さんも似た方法を採っているような気がします。

上田 そうですね。要素に還元するためには、その要素をそれぞれ解像度高く書く必要がある。それで『太陽・惑星』のようなスケールの大きなものを書くためにも、日常生活の些末なことの解像度を上げる文章を書く必要が出てくるんです。『ノー・ファンタジー』のような短編集を積み上げていって、自分なりの手応えがあると「あ、まだ先に行けるぞ」という自信が生まれますね。

川村 面白いですね。解像度という言葉もよくわかります。高解像度の土台がないと破壊もできない。破壊しても空虚になってしまう。僕もロジックを組み立ててアイデアを考えることが好きなんですが、新しい世界を描く時ほど、その世界を信じられるようなリアリティを持って描かなければならない。解像度が高ければ、たとえ理解できないような話であっても、作り手が作りたかった世界やそのルールを鑑賞者にちゃんと追ってもらえるというか。

上田 先ほどのゼロバジェットの話とも関わってきますね。解像度を上げる、実感を込めて強く表現するために、川村さんはゼロバジェットの仕事を必要としているのかなと。

川村 そうかもしれません。自分で好きなように作る作品がないと、自分の身にならないというか。表現したいことをぎゅっと凝縮して、世に出す強度にまで仕上げないと、自分の考えがまとまり切らないような気がするんです。ネタ帳に書いてるだけではだめで、ちゃんと作品にして世に出す。そうすることで、作品へのフィードバックも含めて、次の作品制作への糧になる。自分の中での充足感が得られるというのもありますね。

上田 最近のお仕事で自分の作品だ、と言えるのはどんなものですか?

川村 MagicianShinさんという、TikTokやYouTubeなどを通じて世界中で大人気のマジシャンと、ANREALAGE(アンリアレイジ)のファッションデザイナー、森永邦彦さんと一緒に「MAGIC」というマジシャンになれる服を作り始めました。
 シルクハットや燕尾服以外にも、ストリートウェアみたいに普通に着られて、さりげなく手品ができるような服があったらもっとマジックに興味を持つ人が増えるのではないかという発想から始まりました。
 とてもニッチな商品かもしれませんが、こういった世の中にあったら絶対に面白いというものを、誰に頼まれなくても勝手に作り続けていきたい。スティーブ・ジョブズの言葉を借りるなら「put a dent in the universe(宇宙に小さなへこみを作る)」のような、ほんの少しだけ世界の境界線を押し広げるようなクリエイションを、やり続けたいんです。

上田 川村さんが長く取り組んでいる映画もありましたよね。

川村 『HIDARI』ですね。これも自分の好きなものだけを詰め込んだ「自分の作品」のひとつです。コマ撮りの時代劇映画なのですが、5分間のパイロットフィルムがYouTubeで公開されていて、おかげさまで520万回以上再生され、世界中で話題となっています。これも完全に制作チームがお金を出しあって自主制作しています。
 僕が40年溜め込んできた中二病みたいなものが全部詰め込まれているような作品です。今はこのパイロットフィルムを活用しながら長編映画制作のために営業活動に注力しています。最近では、カンヌ国際映画祭のアヌシー国際アニメーション映画祭などに招待していただいたり、なんとパイロットフィルムを観て気に入ってくれたキアヌ・リーブス氏が主演声優として参加してくれることが決まっています。映画が公開されて収益が出ない限り、僕の会社における「HIDARIプロジェクト」の赤字は消えませんから、今はとにかく必死に実現のために駆けまわってます(笑)。

上田 素晴らしいですね。まさにロマンだ。

川村 はい、僕も普段こういう仕事を「ロマン仕事」って呼んでます。登山家が「そこに山があるから登る」のと同じような気持ちで、「そこにアイデアがあるから作る」といった気持ちで挑んでいます。

上田 僕の『ノー・ファンタジー』にも通じる話ですね。人間は、誰かに頼まれたわけではなくても、自分なりの「ファンタジー(虚構)」を自ら作り上げ、そこに寄り添ったり、時には寄りかかったりしないと、このただ存在するだけで、それ故冷酷にできている現実を生きていけない生き物だと思います。この短編集ではそのことについて正面から見つめながら書いているつもりなんですが、川村さんにとってのそのファンタジーの一つが『HIDARI』なんでしょうね。

川村 そうですね。僕は3日くらい新しいアイデアを考えないと手が震え出すような、ある種のものづくり中毒なんで、すごい分かります(笑)。

上田 川村さんのように、自分の手でファンタジーを作ることができる人は幸せです。しかし、世の中の大半の人は、自分では作れないからこそ、他人が提示したファンタジーに寄りかかって生きてきた。それがこれまでの近代社会以降の、そして現代人の肖像でした。
 しかし、SNSがこれだけ発達した現代においては、「あなたが信じているその美しいファンタジーは、単なるマーケティングで作られた虚構ですよ」とか「ただの都合の良いお話にすぎませんよ」という、身も蓋もないメタ視点が同時並行で提示されてしまう。
 その結果、ファンタジーが剥ぎ取られた「ノー・ファンタジー(虚構なき現実)」に直面して、人々はひどく疲弊しています。
 それに対抗するように、すべてが虚構だと分かった上で、さらにメタに突っ切って熱狂する「推し活」のような現象が生まれるわけですが、それすらも、長続きすればいずれ心が疲れてしまう。
 自分自身が本当に「信じるに足るもの」を、どうやってこの荒涼とした現実の中で見出していくのか。そのリアルな実情を読者に向けて一旦一緒に見つめませんかという短編集でもあるんです。

川村 なるほど、そのお話を聞くと、腑に落ちますね。たしかに『ノー・ファンタジー』のすべての短編の根底に、ファンタジーの崩壊と、それでもなお何かを希求する人間がいたように思います。
 僕自身も生きるために、自分自身のクリエイションというファンタジーに依存しているのかもしれない。クリエイションの種を蒔いて、それを育てることに。そこに真実があるはずだ、真理があるんだと信じて。それがうまく行こうが行くまいが、前に進むためにやり続けなければならないんでしょう。

上田
川村真司さん

ゾーンに入ったようなドライブ感の中で

上田 先ほど川村さんがおっしゃっていた、作らないと手が震えるというのは、ある意味では病気ですよね。

川村 本当にそう思います。でも考えている時だけはむしろ健康なんですよ。それができないと逆に病気になってしまうという病気(笑)。

上田 僕もその感覚はよく分かります。僕は小説を執筆する時、毎日「5,000字は必ず書く」というルールを自分に課しているんです。その方が居心地がいいんです。

川村 毎日5,000字はなかなか書けないですね。そういえば、大長編を出されると聞いています。

上田 今年中を目指していますが、原稿用紙に換算すると1,200枚ぐらいあるような、結構なボリュームになりそうです。

川村 1,200枚! それはもう、完全に狂っていますね(笑)。お互い相当な重病に罹患しているのかもしれません。毎日コンスタントに5,000字を書かれるんですか?

上田 基本は5,000字ですね。ただ、1日に1万字くらい書くこともあります。10日間あれば10万字、つまり一冊の本が書けてしまう計算です。実際に、8日間くらいで一気に書き上げた作品もありました。

川村 ええっ、8日間で一冊分の原稿!?

上田 もちろん、その後で何度も何度も推敲して直しますけどね。でも、個人的にそういう、無茶な勢いで一気に書き切ることに、ある種のロマンを感じるんです。
 例えば、石原慎太郎さんが代表作の『太陽の季節』を、ほぼ一昼夜か2日くらいで一気に書き上げたという有名なエピソードがあります。僕はああいう、ちょっと中二病っぽい、でも作家がゾーンに入ったようなドライブ感の中で物語を書く現象に興味があります。その方が意識の深いところから言葉を引っ張り上げられるような気もするんですよね。
 川村さんの『HIDARI』の脚本は、最初の構成やセリフの執筆に、どれくらいの時間をかけられたのですか?

川村 『HIDARI』は現在、劇場用の90分の脚本を書いているのですが、かれこれ2年以上修正を続けています。ともかく初めて書く脚本なので、脚本のフォーマットから、何が書かれている必要があるのかまで全部1から勉強しつつ書いてるので凄い時間がかかってしまって…。しかも今回は「世界でヒットするような映画を作ろう」という目標でスタートしたプロジェクトだったので、脚本もまず英語で書いているんです。それを、日本語に翻訳して、細部を調整していくという少し特殊なプロセスを踏んでいます。最終的に英語版をメインにすることや、海外のスタジオに売り込むために、英語での構成やセリフのテンポ感、ユーモアのニュアンスを大事にしたかったんです。
 僕が一番最初に書いた初稿は、やりたいアイデアを全部詰め込んだ結果、長すぎて2時間半を超えるような分量になってしまって(笑)。プロデューサーからは「5分のパイロットフィルムを作ろうって言っているのに、なんで2時間半の脚本書いてるんだ!」とツッコまれました。その後も、諦めずに脚本を直し続けていて、今は17稿目くらいになっています。

上田 17稿ですか。それは気が遠くなるような回数ですね。

川村 スープを継ぎ足すように、アイデアを足したり引いたりしながら、もう2年近く脚本と向き合っています。ただ、物語の核となる「初期衝動」の部分は、やはり最初の1ヶ月くらいでガッと書き上げた骨子がそのまま生きていますね。

演劇と純文学との親和性

──上田さんは小説だけでなく、演劇にも関わっていますよね。この秋には、ご自身の作品『キュー』が舞台化されますね。上田さんは演出の白井晃さんと共同で上演台本も書かれています。

上田 『キュー』の舞台化は、実はもともと4年前に立ち上がったプロジェクトだったのですが、当時はちょうど新型コロナウイルスの感染拡大の時期と重なってしまいました。それで、大勢のキャストやスタッフが密な空間に集まって芝居を作ること自体が不可能になってしまったんです。
 そこでプロジェクトの在り方を見直す中で、『キュー』の世界観からドロップアウト的に生まれた作品を高橋一生さんの一人芝居の舞台『2020(ニーゼロニーゼロ)』として上演する形になりました。一生さんは一人で100枚程度の原稿を背負うことになったんで相当大変だったと思います。
 演出を手がけてくださった白井晃さん──俳優でもあり、世田谷パブリックシアターの芸術監督も務められています──が、コロナ禍が明けた後も「どうしても、あの壮大な『キュー』の全体像を舞台化したい」という情熱を温め続けてくださっていて、今回ようやく実現することになりました。
 瀬戸康史さんが主演、有村架純さんらの共演で、東京芸術劇場でこの秋に上演が決まっています。

川村 すごく面白そうですね。でも、小説のかたわら、脚本を書かれるのは大変では?

上田 舞台にするにあたって、自分自身がかつて書いた小説を疑ってかからないといけないわけで、そこはまた別の頭の使い方になりますね。できあがっている小説を一回壊して、それでも残った真実のようなものを拾い集めて再構築する仕事なので、辛くもありますが、楽しくもありますね。

川村 面白いですね。脚本は何稿くらい重ねられたのですか?

上田 今回の本公演に向けては、すでに3稿、4稿と重ねていますが、4年前の実現しなかった時の書き直しも含めると、トータルで9稿、10稿近くまでいっています。

川村 やはりそれだけ稿を重ねるわけですね。

上田 大勢の人が関わりますからね。でも、演劇に関わって気づいたのは意外と純文学と相性がいいということなんです。
 例えば、「ここに塔がある」というセリフがあった場合。映像なら塔がなければ成立しませんが、舞台だったら、そこに何もなくてもいいんです。俳優の演技とセリフで、観客に「ここに塔があるのか」と納得してもらえればいい。言葉と俳優の身体で、観客との間に「共同幻想」を作り出す。演劇は実は自由度が高い表現なんです。

川村 たしかにそうですね。映像は具体的に目に見えるもので表現するので、情報量が多い反面、どうしてもイマジネーションの余地が減ってしまうところがある気がします。小説には高次のイマジネーションが存在しうると思っていて、そこはなんていうか、映像では勝てないなと感じています。そう考えると、演劇は映像よりも小説寄りの表現手法なのかもしれないですね。

生成AIの時代に表現することとは

上田 今日は個人的に川村さんと話したいことがあったんです。これからのクリエイションを語る上で避けて通れないのが、生成AIの台頭です。
 AIがこれだけのスピードで学習し、文章を書き、絵を描き、映像を作れるようになっていく時代において、僕たち表現者は、自分たちの創作活動をどう位置づけていけばいいのか。川村さんはどう考えていらっしゃいますか?

川村 僕は今のところ自分の作品の「アウトプット」にはAIは使わないですが、根本的には「pro-AI」、つまりAI肯定派なんじゃないかなと思っています。日々の創作活動のリサーチだったりデザインワークのトライアル&エラーといった制作過程においては、AIをツールとして積極的に活用しています。
 テクノロジーの歴史を振り返れば、一度生まれた圧倒的に便利な道具を、人類が手放すことは絶対にありません。ですから、AIを敵視して排除するのではなく、いかに自分たちの「新しい手足」として安全かつ便利に使いこなすのか、という視点に立つべきだと思っています。
 ただ、現状の生成AIがアウトプットする表現、例えばAIに書かせた小説や、AIが生成したビジュアルというのは、どこか小綺麗で最大公約数的であり、人間の心の深い部分を揺さぶるような、本当に強度の高いモノにはまだ到底届いていないなと感じます。
 もちろん、この先AIがさらに学習を重ねて、人間の感情の揺らぎや「愛しさ」「気まずさ」「不条理」すらも精巧に模倣できるようになる日が来るかもしれません。そうなった時に、僕たちが生み出すクリエイションの価値は一体どこに残るのか。僕は「身体性」と「プロセス」が価値を持つようになるんじゃないかと思っています。僕らが肉体というものを持っている限りは、そこに価値が戻ってくるというか、この人がやってるから見に行くとか、この人がこういうやり方で作ってるからこそ、お金を払いたいということになるんじゃないかと。

上田 「身体性」と「プロセス」が重要視されるということですか。

川村 そう思っています。例えば『HIDARI』は木彫り人形を少しずつ動かして撮影し、まるで生きているように見せるコマ撮りアニメーションです。1秒間の映像を作るために、人間が実際にライトを調整し、人形をミリ単位で手で動かし、シャッターを切るという作業を24回繰り返します。1日で撮影できるのは、わずか3秒です。
 この気の遠くなるような膨大な時間を費やして、生身の人間が身体を動かして制作したというプロセスと、それによって生まれるクオリティ、そしてそれをやってしまう人間の執念や体温のようなものにこそ価値があるんじゃないかと。これからのAI時代、人々はそういうものに価値を見出し、お金を払いたい、支援したいと思うようになるのではないでしょうか。
 演劇も同じですよね。わざわざ特定の時間、特定の劇場に生身の観客が集まり、目の前で本物の人間が汗を流し、一回限りの声を張り上げているんですから。
 テクノロジーが進化して、すべてのフィクションがデジタルで無限に、かつタダ同然で生成できるようになったからこそ、逆にその「身体性」と「プロセス」の価値が、かつてないほど高まっていくと信じたいですね。

上田 なるほど。僕が半ば巻き込まれるように舞台に関わるようになったのに妙に腑に落ちるのは、そこに何らかの意味や必然性があったからかもしれません。
 AIがどれだけ高度な言語モデルを構築しても、僕たち人間が身体という不自由な器を持ってこの世界に生きている以上、身体を通じてしか得られないリアルな実感は奪われることがないと信じたいですね。

(2026.7.8 神保町にて)