インタビュー

書評

事件に巻き込まれた人々の壊れた世界

千街晶之

 ふるてんの連作短篇集『事件は終わった』を読み進めるうちに、私はいつしか恐怖に包まれていた。著者の小説を上手いと感心したことはあっても、こんなに怖いと感じたのは初めてのことだ。
 題名通り、事件自体はプロローグの時点で終わっている。地下鉄の車内で男がいきなり刃物で妊婦に切りつけ、それを止めようとした老人を刺殺した――という出来事だが、本書では男の動機や背景はどうでも良く、現場から逃げ出したことをSNSで非難された男性、切りつけられた妊婦、巻き込まれて足を骨折した高校生……等々、事件に偶然関わってしまった人々のその後が描かれている。
 恐怖を感じたというのは、ひとつにはもちろん、同じ地下鉄の車両に乗り合わせたり近くにいたりという、ただそれだけの人々が事件のせいでPTSD(心的外傷後ストレス障害)や理不尽な罪悪感に苦しまなければならない不条理に対してだが、それ以上に、彼らの異様な心象風景が極めてリアルに迫ってきたからだ。
 ある人物は他人に聞こえない音を聞くようになり、ある人物は霊の存在を信じはじめる。そんな彼らの視点を通して世界を眺めるうちに、読者にとっても現実と幻想、主観と客観の境はどんどんあいまいになり、彼らの恐怖と罪悪感にシンクロしてしまうのだ。本書における謎解きとは、彼らの壊れてしまった世界を修復する作業に他ならない。たとえ、解決自体が非合理的な場合があろうとも。
 登場人物の中に、決して物語の視点を担えない者がひとりいる。冒頭で死んでしまった人物――つまり、妊婦をかばって刺殺された老人、向井まさみちだ。本書では、生前の彼と一期一会の遭遇をした人々の思いも描かれる。英雄のように報道された老人は、本当はどんな人間だったのか。視点が変われば捉え方も当然異なってくるけれども、それぞれに答えを出すことで、彼らは闇から抜け出し、前に向かって歩んでいけるのである。

せんがい・あきゆき●ミステリ評論家

「青春と読書」2022年9月号転載