書評

ガガーリン神話を解体し、再構築する

長瀬海

 ユーリー・ガガーリン。初の有人宇宙飛行を成功させた旧ソ連の英雄だ。冷戦が激化するなか、彼は国の威信を背負って宇宙船に乗り込んだ。その結果、ガガーリンは宇宙開発の競争相手だったアメリカに打ち勝った証となり、国民のアイドルとなる。彼はそのとき、すべてを手に入れたかに見えた。
 本書は、そんなガガーリン神話を解体し、再構築する10の小説がゆるやかに繫がる連作短編集。最初の物語では、現代のニューヨークで暮らすロシア系アメリカ人の少年とロシアから移住してきた祖父が、当時の宇宙船が競売にかけられると聞き、観に行く。ソ連的知性の結晶が売却されることにいきどおる祖父は、ガガーリンなんて知らずに育った孫に祖国の偉業を語る。だが、ソ連が見栄をはるために宇宙探査の逸話にまとわせた虚飾は既に剝がれ落ちていた。それでも神話を神話のまま信じることを孫に説く祖父は、かつて軍の研究施設で働いていたこともあり、ソ連が描いた表向きの「真実」の虚構性をしつしている。ソ連が紡いだフィクションと、現実。その両方を見据える作者は、神格化されたガガーリンの物語の背後で歓喜と悲哀に揺れる人々の実像をあざやかに活写するのだ。
 例えば、ガガーリンの宇宙探査の補欠として選ばれ、彼の栄華の脇役に甘んじることになったゲルマン・チトフや、ガガーリンに「宇宙親父」と呼ばれるほど彼の精神的な支えであり続けた開発者のセルゲイ・コロリョフ、あるいは地球に着陸した彼を助けた農婦。それぞれの物語はソ連的英雄の周辺にいた人々の心のざらざらした手触りを克明に描きあげるから、ガガーリンという、国の虚栄心によって理想化された偶像もまた人間的になる。美しさの手前にある、不器用な人間に。
 〈この世のすべてに怒りを感じる〉とは、ソ連に自由な人生を奪われ死ぬこととなったガガーリンを想う、彼の妻の一言だ。国家の企みやそれに踊らされた人々への憎悪は、何よりもガガーリン神話の愚かさを伝える。
 国民の熱狂の裏側で彼らは何を想うのか。こんな時代にあって、その表情はたくさんの大切なことを語りかけてくる。

ながせ・かい●書評家、ライター

「青春と読書」2022年7月号転載