
内容紹介
2023年、世界最大規模のLGBTの祭典「マルディ・グラ」に参加するため、7年ぶりに渡豪した著者。いたるところで11色のプログレス・プライド・フラッグがはためくシドニーの地で、何を見、何を思ったのか。一人の性的少数者として向き合った反LGBTの歴史とバックラッシュ、そして国会で成立・施行された「LGBT理解増進法」を巡る日本の状況を観照し、丹念に綴った長編紀行。
著者撮影による口絵写真2頁付き。
眠らない街を探訪したエッセイ「歌舞伎町の夜に抱かれて」も併録。
プロフィール
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李 琴峰 (り・ことみ)
1989年、台湾生まれ。2013年来日。2015年、早稲田大学大学院日本語教育研究科修士課程修了。2017年「独舞」で第60回群像新人文学賞優秀作を受賞。2019年「五つ数えれば三日月が」が第161回芥川賞、第41回野間文芸新人賞の候補に。2021年『ポラリスが降り注ぐ夜』で第71回芸術選奨新人賞を、「彼岸花が咲く島」で第165回芥川賞を受賞。著書に『星月夜』『生を祝う』『彼岸花が咲く島』『透明な膜を隔てながら』『肉を脱ぐ』『言霊の幸う国で』などがある。
エッセイ
日本を滅ぼすLGBT
李琴峰
二〇二三年二月、SNSではこんなハッシュタグがトレンドになった。「#日本を滅ぼすLGBT法案」。
きっかけは同月上旬、当時の首相秘書官・荒井勝喜氏がLGBTや同性婚を念頭に「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」とメディアに向かって差別発言を吐いたことだ。メディアの報道によってたちまち批判が集まり、荒井氏は更迭された。世論が盛り上がる中、「我々はLGBTを差別していない」というアリバイを欲しがる自民党は「LGBT理解増進法」の立法に動き出した。一方、同法に反対する保守派は法案を葬るべく、ネガティブ・キャンペーンを大々的に張った。「法案が通ったら日本は滅ぶ」と恐怖を煽るハッシュタグは、そんなキャンペーンの一環である。
あの時、私はシドニーにいた。世界最大規模のプライド・パレード「マルディ・グラ」に参加するためだ。街全体がLGBTのシンボルである虹色に彩られる祝祭的な雰囲気の中に身を置くと陶然とした気持ちになるが、しかしネットに繫がると、自分が住んでいる国で横行している差別のおぞましさに、心をじりじりと蝕まれるような鋭い痛みを覚える。マルディ・グラは眩しすぎる光だ。そんな光に照らされていると、自分が安住していた場所の闇のみすぼらしさにいたたまれなくなる。
日本はLGBTにとって住みにくい国かと言えば、そうとも言いきれない。日本は欧米に比べて、LGBTを狙った傷害や殺人といった物理的な憎悪犯罪が少ない。同性愛を罪だと説く宗教は主流ではないし、LGBTであるということだけで逮捕・投獄・処刑される恐れもない。インフラも社会保障制度もしっかりしているので、いくつかの条件さえ満たしていれば、大抵のLGBTの人々も問題なく、安穏に暮らすことができる。
「いくつかの条件」とは何だろうか?
それはすなわち――存在を察知されないこと、息を潜めて生きること、権利を主張しないこと、声を上げないこと、抗議をしないこと、法的・社会的な不正義を甘受すること、などである。「日陰で生きていればどんな人とパートナー関係を結び、誰とセックスしようが自由だが、あなたたちの関係は公には認められない。もちろん結婚の権利も与えない。差別されてもあなたたちを守る法律はない。法的性別を変えたい? ならば不妊手術を受け入れることだ」――日本社会はの人たちLGBTに対して、ずっとこんなメッセージを発してきた。
LGBTの人々が日本社会で安穏に暮らすには、これらの待遇を受け入れるよりほかはない。これが現実である。
社会が変化の兆しを見せたのは、二〇一五年頃のことである。いわゆる「LGBTブーム」が始まり、ビジネス誌が多様性の大事さを説き、大手企業がダイバーシティに取り組み、自治体がパートナーシップ制度を発足させ、さらには同性婚法制化を求める裁判も始まった。
もちろん、作用と反作用の法則により、これらとまったく逆の動きも顕在化した。保守系論客や自民党保守派の政治家から度重なる差別発言が噴出したのも、二〇一五年以降のことである。「LGBTには生産性がないから、彼らに税金を使うべきではない」「同性愛が広まれば足立区が滅びる」「LGBTばかりになったら国がつぶれる」「LGBTの権利を保障するなら痴漢の触る権利も保障すべきだ」――こんな言説がメディアを横行するようになった。
これが差別にNOを突きつける代償だ。差別を受け入れてでも安穏と暮らすことを望む人たちにとってははた迷惑なことかもしれないが、しかしだからといって、すべての人に差別を受け入れろと強要するのは、きっと間違いである。
良くも悪くも、日本のの人たちLGBTは、差別に抵抗することを学んだ。
そして、私もその中の一人だ。生活の安穏さを幾分か犠牲にすることで、私は自分の声を手に入れた。
『シドニーの虹に誘われて』という長編紀行こそが、私の声である。先住民やの人たちLGBTを国家的暴力で迫害してきた歴史を持つオーストラリアが、どのように自らの暗い過去と向き合い、和解し前進してきたのかを、日本の状況を観照しつつ、なるべく丹念に綴った。これは一つの時代の記録にして、証言である。
時々、こうも思う。もし保守派が言い張っているように、LGBTの人たちが国を滅ぼすための不思議な力を持っていれば、どんなにいいだろうか。私たちは魔法使いであり、杖を一振りすれば国を崩壊させることができる。あるいは吸血鬼であり、瞬く間に増殖して国を混乱に陥れられる。もし本当にそうだったら、どれだけ愉快なことだろうか。
私は魔法が使えないし、人の血も吸わない。でも、言葉を綴ることはできる。私の言葉ごときで滅ぶような国だったら、一度滅んでしまうといい。
「青春と読書」2024年11月号転載
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