内容紹介
30年ぶりにアメリカから帰国し、武蔵野の一角・うらはぐさ地区の伯父の家にひとり住むことになった大学教員の沙希。
そこで出会ったのは、伯父の友人で庭仕事に詳しい秋葉原さんをはじめとする、一風変わった多様な人々だった。
コロナ下で紡がれる人と人とのゆるやかなつながり、町なかの四季やおいしいごはんを瑞々しく描く物語。
「過去の連なりで今があり、未来がある。
街や人の変化に心が追いつかない時は、
武蔵野の一角・うらはぐさを思い浮かべます。」
ーー市川紗椰さん(モデル)
プロフィール
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中島 京子 (なかじま・きょうこ)
1964年、東京生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。出版社勤務ののち、フリーライターに。アメリカ滞在を経て、2003年『FUTON』で小説家としてデビューする。2010年『小さいおうち』で直木三十五賞、2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞を受賞。2015年『かたづの! 』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ賞(作品賞)、柴田錬三郎賞、同年『長いお別れ』で中央公論文芸賞、翌年の日本医療小説大賞を受賞。2020年『夢見る帝国図書館』で紫式部文学賞、2022年『ムーンライト・イン』『やさしい猫』で芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)、同年『やさしい猫』で吉川英治文学賞を受賞した。そのほか、著書多数。
エッセイ
土地の記憶、変化、未来
中島京子
『うらはぐさ風土記』という小説を書いた。
自分のことを書いたわけでも、エッセイでもなく、これは小説なのだけれども、日々の生活のあれこれが、ほかの作品よりもぐぐっと入り込んでいる。けっしてこれは、私小説といった類のものではない。私のふだんの生活は、単調で地味で退屈で、さすがにそういうものを小説で書くつもりはないので、楽しく読んでいただけるように工夫はした。
ただし、「梅の実を収穫してリキュールに漬け込む」とか、「柿の葉をきれいに洗って鮭と酢飯をつつむ」とかいった行為と、こんどの小説を書いたプロセスはちょっと似ているような気がする。この土地の恵みは、いったいどこから来て、どんな未来につながるんだろうという想像力が、梅の実や柿の葉から与えられるのに似て。
いま現在、暮らしている杉並の家は、私が生まれた家である。もとを正せば母の実家で、母は私を里帰り出産し、両親と姉と私は三年間、この家で過ごした。
その後、中島家は和光市の公団住宅に引っ越し、それから八王子の一戸建てで暮らした。その間、この家には祖母がずっとひとりで住み続けた。だから、物心ついて以来、ここは私にとって「おばあちゃんの家」だった。祖母が亡くなったあと、私の両親は八王子の自宅を引き払って、杉並のこちらに移った。それがもう、四半世紀くらい前のことだ。両親には孫が生まれ、父が他界し、この家はふたたび「おばあちゃんの家」になった。おばあちゃんとはもちろん、私の母のことである。
一昨年、九十歳になろうとする母にひとり暮らしはもう危険だろうという思いもあり、家をリフォームして、私は夫とともに移り住んだ。半世紀以上を経て、生まれた家に戻ったことになる。
この家には庭があり、四季折々の植物や、飛来する鳥たちが目を楽しませてくれる。目だけではなく、柿や梅や蜜柑が、舌や胃袋を楽しませてくれもする。新型コロナ蔓延期間を都心のマンションで過ごした身には、足元に土があり、日々変化する生物に触れることができる生活は貴重に思える。庭に咲く花を切って花瓶に生けたり、実を収穫して保存食にしたりする暮らしは新鮮だ。
東京の風景は、少し見ない間に変わってしまう。ことにこの十年くらいはその変化も速くて、銀座も新宿も渋谷界隈も、大きく様変わりした。都心に比べると、郊外住宅地として形成されてきた歴史を持つこのあたりは、個人住宅が多く、庭や雑木林や、近郊農家の畑が残っていて、それほど大きな変化はしていない。それでも、大きなお屋敷の持ち主が亡くなれば、そこが小さな分譲地に分割されるような変化は、日々、起こっている。もう一つの変化は「空き家」の増加だ。古い家が、あちこちに打ち捨てられたように、ある。こういう「空き家」は都や区が買い上げて修繕し、安く貸し出すようなことをすれば、東京の住宅問題の解決にならないかなと思いながら散歩している。
散歩の足は、うちから少し南に行ったところにある、中央線沿いのいくつかの駅に向かうことも多い。じつを言うと、我が家の近所よりも、中央線の駅周辺の方に馴染みがあり、懐かしいと感じるのもそのあたりだ。というのも、学生生活の四年間を、吉祥寺と西荻窪の間にある大学で過ごしたからだ。
あのころからあるお店がまだ現役でがんばっているのを見ると胸が熱くなる。でも、自分の学生時代なんて、四十年くらい前なのだから、これはもう、変わらない方がおかしいわけで、かつては存在しなかったものが、街の顔になっていたりもする。同じ店がそこで十年、二十年続くというのは、それだけでたいしたものだ。ましてや四十年前と同じ姿でたたずんでいてくれるなんて、拝みたくなるような懐かしさである。
還暦近くなって引っ越して来たこともあり、ここが終の棲家という思いもある。この先、たぶん、ずっとここで暮らし、ここで生涯を終えるのだろうと思うと、「わが街」への思いは、もう少し濃厚になり、その来し方、行く末にもがぜん関心が向く。
都心よりおっとりした変化だと思っていた街にも、再開発の波は押し寄せている。未来はどの方向へ選択されるべきか、日々の暮らしの中で思い迷う。近所の中学校が戦争中は「高射砲陣地」なるものだったとか、子どものころに鳴り物入りで造成された集合住宅街が、かつては軍用の飛行場だったとか、過去を知ろうとすると意外な歴史にぶつかる。
そんな、日々感じているあれこれを、『うらはぐさ風土記』には虚構とともに紛れ込ませた。
三十年も日本を離れていたせいで「浦島太郎」な主人公、沙希や、この街以外にどこにも行ったことがない手先の器用な秋葉原老人、沙希の勤務する大学の学生で、不可解な敬語を操るマーシーと、その親友、足袋シューズをこよなく愛する陸上部のエース、パティといった楽しい面々の「うらはぐさ」(架空の地名だが武蔵野が舞台)の日々を、楽しんで読んでいただけたらと思っています。
「青春と読書」2024年4月号転載
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