インタビュー

砂原浩太朗

砂原浩太朗「小説というかたちでしか表現できない喪失感」

書評

間にあるもの

塩田武士

 小説を書く際、私は常に「間にあるもの」を意識する。
 近松門左衛門は「虚と実との間に慰みがある」と論じているが、その皮膜は「虚実」のみならず「新旧」や「明暗」にも当てまる。
 私が震災をテーマにした小説の執筆を断っているのは、今の筆力ではこの「間にあるもの」が見えないからだ。
 圧倒的な事実を前に、フィクションにする意義が見出せず、また執筆するのに最適なタイミングもつかめない。つまり「虚実」と「新旧」の間に、何が存在するのかが分からないのだ。
 そんな背景もあって、担当編集者から本作『冬と瓦礫』の書評を依頼されたときは、正直言って戸惑った。しかも作者が砂原浩太朗さんという。
 砂原さんと言えば、端正な文体に油断ならない展開、時を超えて人間を描くことにけた時代小説の名手だ。当然ながら、自らのジャンルで既に根強いファンを持つ。その砂原さんが現代小説、しかも震災をテーマに執筆すると聞いて不安になったのだ。しかし、だからこそ、作者の心意気を感じた。
「吐き出さずにはいられない」――ときに小説家は、一切の打算なく物語を書く。その剥き出しになった作家性に触れてみたいと思った。
 主人公の川村圭介は、四歳になる前に両親が離婚し、以後は母方の実家がある神戸で育った。大学進学を契機に上京し、そのまま東京の会社に入社して四年目を迎える。そして一九九五年一月十七日。
 朝、神戸に住む親友の進藤から電話を受けたとき、寝床にいた圭介は震災に気づいていなかった。しかし、テレビに映る惨状を目にして言葉を失う。
 幸い家族は無事だった。会社で気遣われるものの、圭介の日常はもどかしいほど平穏だ。だが、電話で祖父の声を聞いた圭介は心をかき乱され、水のペットボトルや食料など約三十キロの荷物を背負い、神戸の実家を目指す。
 発生三日目、関西の鉄道網はまだ傷だらけだった。兵庫県西宮市で高校の恩師に電話して車を出してもらったが、国道が車で埋まっていて先へ進めない。結局、車を降りた圭介は、重いバックパックを背に十数キロの道を歩くことになった。
 水の流れないトイレ、傾いたマンション、鳥居が壊れた神社、消えたままの信号――この“旅”に出てくる風景が実にリアルで、私の記憶がその一つひとつを裏付けていく。
 阪神・淡路大震災が起きたとき、私は兵庫県西宮市内に住む中学三年生だった。あまりの激しい揺れに全く身動きが取れず、初めて死を意識した。足元に本棚が倒れ掛かり、おびただしい量の食器が一斉に割れる音を耳にしても、毛布に潜り込むのが関の山。
 家族の無事を確認した後、窓を開けて街を見た私は絶句した。至る所で煙が上がり、周囲の家々が崩れていた。それから経験した非日常の生活の中で、私は紙一重で「明暗」が分かれることを知った。
 作中、神戸に帰った圭介が、祖母に早起きの習慣がなければ、たんの下敷きになっていたと気づくシーンがある。震災時、私の父は出張で関西にいなかったが、在宅していれば家具の下敷きになっていたのは間違いなく、冷や汗をかいたのをよく憶えている。
 圭介は家族を県外の親戚の家に避難させる段取りをつけていた。そんな孝行も虚しく、祖父との因縁や母との確執、実父に抱く諦念などに翻弄され、一致団結できない家族像が浮かび上がる。
 モヤモヤとした気持ちを抱えながら親友の進藤に会いに行く圭介。神戸市内の人工島に住む進藤の一家もまた、不自由な暮らしを余儀なくされていた。
 作中、ある出来事をきっかけに取り乱した圭介に対し、進藤が言い放つ。
「この街でやっていくしかない奴らが大勢おるんや」
 家族は県外に避難し、圭介自身も東京へ帰る。その罪悪感や疎外感が、彼を特別な存在にしていた。
 果たして、自分は被災者なのか――。
 震災からひと月が経って、ようやく私は風呂に入ることができた。隣町の銭湯の浴槽に身を沈め、お湯の温かさに、ありがたさに一人泣いた。そして感謝の念に浸るとともに、罪悪感を抱いた。
 淡々と進み、静かに幕を下ろす物語に殊更ことさら感情移入できたのは、主人公の圭介や彼と同じ境遇だった砂原さん、そして読者である私が、被災 者と自認できず、一方で余所よそものとも言い切れない「間にあるもの」だからだろう。
 物事を極端に単純化する今の世で、この厳かな小説が果たす役割は大きい。

「小説すばる」2025年1月号転載